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正論を翳す善人

「お兄さん、泣いてましたよ」
「はい?」
「ちゃんと更生するって約束させました」

この少女は何を言っているのだろう?

「あの、どういうことですか」
「今日の授業で言ったんです。『弟さんを苦しめるのは止めてください』って」

なんでそんな発想に至るんだ?

「いい大人が二年も引きこもって、弟さんに自分を養わせてヘラヘラしている。それ、おかしいですよって」
「それで?」
「『ですよね』ってお兄さんは言いました。全然理解してないんですよね、私の言ってる事。だから『弟さんの人生を台無しにしないでください、お願いします』って。そしたらお兄さん、泣いちゃいました」

それはたまったもんじゃないだろうな。

「でも泣いたって何も解決しないんです。お兄さんのそれは被害者面ってやつです。だから約束させました。自立する事、弟さんに迷惑を掛けない事、ちゃんとした大人になること」

この子、頭がおかしいんじゃないかな。

「どうしてそんなことを?」
「だって、弟さんが可哀想だったから」

俺はこの少女をどこか兄と重ねていた。この少女は自身と俺を重ねていたらしい。その方が正しい。そして少女は憎み忌む両親と俺の兄を重ねていたのだろう。理屈では分かる。

「だから、もう大丈夫です」

彼女は優しい顔で微笑んだ。この少女は俺のために、勇気を出して、良い事をしたようだ。彼女は俺に何らかの好意を持っている。思えばその好意から全ては始まっていたのかもしれない。何もかも、最初から。俺の中で張り詰めていた何かが、ぷつりと切れる音がした。

俺はまた選択を間違えてしまったらしい。

「僕達、似た者同士なんですね」
「私も思ってました」
「最悪ですよね」
「え?」
「正論を翳す善人はいません」
「どういうことですか?」
「自覚する事、難しいですよね。僕もそうです」
「…大丈夫ですか?」
「僕はあなたが憎いです」

言葉が震えている。煙草を取り出す指先も。心も。今、俺が出来る事と言えば、未成年の彼女の目の前で煙草を蒸かすことくらいだ。吐き出す煙が目に染みる。彼女は何かを言っているが、俺はそれを理解することが出来ない。彼女を無視し俺は部屋に戻り、カーテンを閉じた。

リビングで目を閉じていたら、兄がキッチンに酒瓶を洗いに来た。頬は朧に紅潮している。目線が合い、俺は兄貴に声をかける。

「あのさ」
「うん」
「俺がいなくなったらどうする」
「…え、死ぬの?」
「いや例えば、この家を出て行ったり、とか」
「そりゃ…働くかなぁ。生活費稼がないと。あと、彼女つくって同棲する」
「ははは」
「…今日、瑞樹さんに叱られちゃったわ」
「髪型キモいって?」
「違えよ」
「兄貴叱りたくなる顔してんだよな」
「どんな顔だよ」
「ま、そんな日もあるよ。生きてんだから」
「淡白だなぁ」

取り留めも無い会話を経て、俺は兄の人生から姿を消すことに決めた。

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