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キャプテン桑田

それから。

僕は自分を見失っていた。部活をしていない時間が怖い。もっと練習しないと秋期大会で勝つなんて夢物語、僕たちは弱いんだ、練習しないと、どんどん練習しないと。気付くと柳井がいなくなっていた。気付くと部員達の顔はどんどん暗くなっていた。それでも立ち止まっちゃいられない。先輩たちの悲願を僕達の代で、期待に応えるんだ、僕はキャプテンを任された。期待されたからだ、裏切るな、同期の、後輩の、先輩達の想いを。あの日誓ったじゃないか、人の期待を、想いを背負える人間になるって……駄目だ、気持ち悪い。僕はキャプテンの器じゃ無い……言ってなんかいられない。せめて練習しよう。せめて筋トレだけでも、誰もいない部室で……夏より広く感じる部室、目的の半場、客人が現れた。人混みから避難してきたらしい客人は……もとい、僕のヒーローはこう言った。「期待は背負うもんじゃない」

10月某日。文化祭当日。

「誰もがお前に期待する。でも期待は背負うもんじゃない。応えるもんだ」
「応えられないから、背負うしかないんです」
「期待に応える、その矛先は?」
「期待をかけてくれる人です」
「少なくとも俺はお前にかける期待を、俺に向けて応えてほしくない」

金子さん……鹿南野球部の元四番。古風で寡黙、朴訥でいぶし銀、漢と書いて男と読む、古い言い回しだがそんな呼称がぴったりな人。鹿南野球部の羨望の的、僕のヒーロー……そんな金子さんが珍しく言葉を尽くし、僕に何かを伝えようとしてる。でも僕はその容量が上手く掴めない。

「でも先輩は応えてきました」
「誰に向けて?」
「僕たち、チームに向けてです」
「お前は俺を誤解してる」

誤解な筈が無い、あの日もそうだ。失点を招き項垂れる僕に『俺の一発で帳消しだ』と。事実、先輩は僕のかける期待に応えてくれた。僕はそんな男になろうと思った。そして空回り、今の無様な有様。本当、自分に反吐が出る。

「俺も怖かった。皆が俺にかける期待が。重責だった。いつも逃げ出したかった」
「……冗談でしょ?」
「俺は臆病だ。あの日もとにかく、期待から逃げ出したくて必死だった」

先輩はもしかして、僕を慰めたくて嘘を言ってるんじゃ無いか、そんな気がしてきた。

「でも途中で気付いた。期待は背負うと重しになる。でも勇気にもなるって。応えようと思ったから気づけたんだ。お前達がかけてくれる期待を、お前達に向けて出なく、俺自身に向けて応えようとしたから、期待は勇気になった」
「どういうことですか」
「俺は期待をかける側の気持ちを考えたことが無かった。でも10回裏、俺はお前に期待を託した。これなんだって思った。俺はお前に期待を背負わせる気なんて微塵も無かった。俺はお前に託した期待を、お前の中で勇気に変えて欲しかったんだって。事実、お前は応えてくれた」

……思い出した。あの日、確かに俺は金子さんの瞳に期待の念を見た。僕はそれを重しに思わなかった。金子さんの期待は俺の中で、確かに勇気に変わっていた。

「期待はお前の未来を縛る鎖じゃない。真面目なお前は誰かから受け取る期待を全て一身に背負おうとする。そんなこと誰も望んでないんだ。少なくとも俺達3年がお前に託した期待は、背負ってほしいものじゃない。お前の勇気に使ってほしいんだ。利用してほしい。お前に注がれる期待は、俺達の為じゃ無い、全てお前自身の為にある……そのことをすっかり伝え忘れてた。桑田、すまない」
「……謝らないでください」
「じゃあ、ありがとう。お前が俺に期待してくれたから、俺は勇気を知った。お前のお陰だ。だから俺は今、前に進む事が出来るんだ」
「前って……プロ目指すんですか?」
「あぁ。プロの漫画家になる」
「……」
「ありがとうな、桑田」
「……漫画家」
「あぁ。だから桑田、期待してくれ。それが俺の勇気になる」
「……あ、はい」

……まぁ、いいや、細かいことは。何だか笑えてきた。期待は背負うもんじゃない、か。結局この人は、いつまでも僕のヒーローなんだな。僕の心を絡めた鎖が、緩やかに解けていくのを感じた。解けた楔はポロポロと液状化し、情けない頬を伝った。先輩の掌は僕の背中を覆うくらいに大きくて、温かかった。

「漫画、期待してますね。今度見せてください。応援してます」
「……え?……はっはっは、まあ……はっは」

急に歯切れが悪くなった先輩は、クールに去って行った。火照った顔が冷めるや否や、僕もこの場を後にする。汗臭い部室に長居したせいか、外気の風はとてもいいにおいがした。そういえば、今日は文化祭だったんだ……。部室棟の二階、手摺り越しに見下ろす喧騒に、もう気持ち悪さは感じない。いつぶりだろう、こんなに『自分』を感じるのは。見失った自分は、ちょっぴり強くなって帰ってきたらしい。……応える人間になろう、そう思った。人の勇気は、ある人にとっての希望になるんだ。多くの期待を勇気に変えて、その結実が、多くの人の希望になるように。「……それが、プロの野球選手なんだろうな」
「……は?」

無意識の独り言に返事が返ってきた。心臓が止まるかと思った、隣にいたのは原先輩だ。

「ちょ、……びっくりした、いつからいたんですか」
「……」

原先輩、通称ステルス原、所謂空気な人。影が薄くて、存在感が常に消えかかっている。あの日、普段の反動か別人の様に熱血な原先輩が拝めたが、日常に戻ると原先輩は嘗てのステルスキャラに戻っていた。事実、僕の隣で同じ姿勢で手摺りに凭れる原先輩は、存在感が無い。

「お久しぶりです」
「……ん」
「何か用ですか」
「……金子?」
「はあ、さっき話しましたけど。何か」
「……じゃあ……伝言……副キャプテンに……」
「柳井、ですか、はい」
「……頑張れ……って」
「……それだけですか?」
「……」

……どうやら話は終わったらしい。お互いに立ち去る機会を見失ったのか、だらだらとした沈黙が過ぎた。思えば原先輩と二人で話したの、これが初めてかもしれない。二人して肩を並べて沈黙を味わう時間も……そう思うとこの無益な時間も、何だか少し尊く思える。ふと原さんを見ると、ほんの少し目を見開いていた。何か見つけたのかな?原先輩の視線を追うと、そこは少し離れた体育館前……一組のカップルがいた。少し野暮ったい女子高生と、彼女と手を繋ぐ眼鏡の男子は……真澄先輩だ。

「付き合う事にしたんだ」
「……え?」
「あ、前、偶然見たんです。あの女の子が、真澄さんに告白するとこ」

遡ること地区大会の数日前、中々練習に現れない真澄先輩を呼び出しに三年生の教室に向かった時、僕は恋愛ドラマさながらの局面に鉢合わせた。誰も居ない教室で、女性の方が真澄先輩に好きだと伝えて、真澄先輩はそれに「甲子園に行ったら付き合おう」そう応えた。うわ、最低だ。その時はそう思った。何がストイックの真澄だよ、とんだ浮ついた男だな、ドラマチックな恋愛のアクセントに野球を利用しちゃうんだ。僕はその日から、真澄先輩の事が少し嫌いになった。

でも、よくよく考えてみると、甲子園出場は弱小野球部にとって夢物語の筈だ。あの人は自身に発破をかけるつもりでああ言ったのか?本当に甲子園に行き、彼女と付き合うつもりだったのか?それとも……

「……気になることがあるなら、聞きに行けば?」
「え?」
「あいつ、心配してたよ、お前のこと。まだ何か痼りがあるなら、話した方が良い。心に残すのは、価値ある後悔だけで良い」
「……」
「……だから、さ……うん……じゃぁ……」

……気付くと原先輩はいなくなっていた。驚きの余り返事が出来なかった。あの日の熱血な原さんとはまた違う、穏やかながら力強い声だった。新たな一面が、無限に出てくる人だな……もっと早くからあの人に興味を向けてたらよかった。……いや、これは多分、原さんの言う価値のない後悔だろう。心に残すのは価値のある後悔、価値のない後悔は、その都度消化していくべきだ。原さんへの興味はこれから向ければ良い、これから関わっていけば良い。どこか夏の終わりが僕たちの関係の終わりだと思ってたけど、現実はそうじゃない。僕が願い行動する限り、僕たちの関係は終わらないはずだ。

「真澄さん!!」

僕は大声を出した。喧騒の海を飛び越えて、僕の声は真澄さんに届いた。瞳の交錯を確かめて僕は階段を駆け下りる。体育館前に着く頃には真澄さんは一人、女の子の姿は無かった。

「あれ、彼女さんは?」
「びっくりしてどっか行っちゃったよ。つか、やっぱあの時見てたんだな」

間近で見る真澄さんは、どこか垢抜けていた。野球部時代はもう少し取っ付きにくい印象があったが、今の真澄さんはどこにでも居る好青年だ。野球の名残は微塵も感じられない。

「俺、先輩に聞きたいことあったんです。お時間もらえますか?」
「どうぞ。お陰で今一人だし」
「どういうつもりで彼女に『甲子園』って言ったんですか」
「う~ん……一言で言うと、逃避かな?」
「やっぱ真澄さん、ゲス男なんですね」
「本当そう思う。まあ、でも今はよかったって思ってる。お陰であいつにこれ選んで貰えたし。幼馴染みなんだ、古い付き合いでさ。幼馴染み以外の関係になるのが、ちょっと怖かったんだ」

真澄さんは黒縁の眼鏡を愛おしそうに撫でた。やはり視力は落ちたらしい。レンズの分厚さから察するに、それもかなり。でもその瞳はとても澄んでいた。眩しいくらいに。

「それでも、何で付き合ったんですか」
「視野が広がったから……目を潰しといて変な言い方かもしんないけどさ、実際そうなんだ。野球以外の道を見つけて、変化を受け入れられるようになった。だから野球にもう未練は無い。お前等を甲子園に連れて行けなかったのは、申し訳ないけどさ」

未練は無い、その言葉は本心に聞こえた。真澄先輩にとってあの試合は遠い過去の出来事で、野球は既に過ぎた行いなんだろう。鹿南野球部始まって以来のストイック投手、真澄さん。才能がある人ほど身を引くのも早い、その言説はあながち間違ってないらしい。寂しい。でも得難き寂しさだ。

「野球は、もうやらないんですか」
「やらない。鷲尾もいないし」
「いますよ、鷲尾先輩は、今もここに。勝手に終わらせないでください」
「え?」
「思ったんです。夏の終わりなんて糞食らえですよ。僕たちが望む限り、僕たちの関係は終わらない筈です。先輩が野球に未練が無いのは分かりました。でも鷲尾先輩とのバッテリーに未練があるなら、夏を言い訳に曖昧なまま終わらせるべきじゃ無いです。鷲尾先輩ともう一度バッテリーが組みたいなら、まだ痼りが残ってるなら、解消して下さい。僕たちは、後悔に塗れて生きてます。否応なく後悔は付きまといます。でも、どうせ残すなら価値ある後悔だけにすべきです」
「何だよ、価値ある後悔って」
「未来の後悔を打ち消す後悔です」
「……それ、後悔って言わないんじゃないの?」
「かもしれないです。今思いつきましたから」
「なんだそれ……分かったよ。引退したのに可愛い後輩に叱られるなんて、先輩悲しいなぁ」
「ゲス男にはそれくらいが丁度良いです」
「ちぇ……鷲尾、どこいんの?」
「自分で探して下さいよ。心の熱が冷めない内に」
「はいはい。頑張ります、キャプテン」

言うと、真澄先輩は当て所なく歩き出し、ごった返した人の海に消えていった。……ん?なんで僕あんなこと言っちゃったんだろう?直感的に、鷲尾さんの名前に未練が見えた気がしたから。なんとなく、未練は駄目だと思ったから……あ、もしかして『未練』の違う言い方が『価値の無い後悔』なのかな……分かんないや、今度原先輩に聞いてみよう。……あれ、彼女さんはどうするんだろう。今日は彼女さんと最初で最後の文化祭デートなんじゃないの?僕が台無しにしちゃった?うわ、彼女さんに申し訳ない……結局、まとわりつくのね、後悔って。

数時間後、帰りの道すがら、携帯が震えた。真澄さんからだ。『鷲尾に彼女紹介したら何故かボコられました。彼女にもあの日の事を正直いったらボコられました。ついでに鷲尾にも更にボコられました。両方の視力失いそうToT』『いや、携帯打ってるじゃないですか』と返信しといた。

夕日が沈む間際、茜と闇が責め合う時刻、河川敷の土手沿いを吹き抜ける風の中、僕は考えていた。心には温度がある。心の熱が冷めない内に……僕は真澄さんにそう言った。それは、僕自身に当てはまる言葉だ。多分僕は今、もうひとつの未練を……価値の無い後悔を解消しなければならない。思った瞬間だった。その後悔は軽快な足取りで、僕の側に現れた。

「桑田ちゃ~ん、一人?一緒帰ろーぜ!」

柳井……サボりの副キャプテン。僕のせいで、野球部に居場所を失った男……向き合わなくちゃ。真澄さんは向き合った。勇気を持て。

心に残すのは、価値のある後悔だけでいい。

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