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#エッセイ

沙由美のたんぽぽ:ショートショート

沙由美のたんぽぽ:ショートショート

 少年のころ、私はたんぽぽの黄色が好きだった。生い茂る草叢のなかに見つければ、それはリングケースに収まったダイヤのようであったし、アスファルトの道端で見かければ、それは濁った水面がきらりと反射する美しい日光のようだった。

 いずれにしても、私はそこに生きる理由をしか見出さなかった。自転車をうまく漕げなかった日も、好きな女の子につきまとって先生に怒られた日も、たんぽぽの黄色は、暗澹たる雨雲のずっと

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綺夏のいたわり:ショートショート

綺夏のいたわり:ショートショート

 かすむ目をパチクリさせながら歯を磨いていたら、突然、鏡の自分と実際の自分の動きとが、少しずれているのではないか、という気がしてきた。
 一旦、歯磨きを中断して目を流してみる。
 クリアーになった視界はだが、却って状況を詳らかに露呈してしまったようだ。

 かすんでいた時の方が、鏡と自分はずっと合致していた。

 顔を上げたとき、綺夏(あやか)は自分の後頭部が見えてしまったのである。幸い、地肌はし

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カミーユの揺りかご:ショートショート

カミーユの揺りかご:ショートショート

 1997年9月のある日の午前、7歳だった私は訳の分からないまま、内戦の傷跡がいまだ生々しいカンボジアの地へ降り立った。

 隣国タイの首都バンコクを経由しなければならなかったので、成田空港からジャンボジェット機でやってきた私たち家族は、そこで打って変わり、プロペラ式の小型旅客機に乗り換えていた。ちょうど手に持っていたJALのおもちゃ飛行機と、そう変わらないようなこんな飛行機に乗って、墜落してしま

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杏樹の男の子:ショートショート

杏樹の男の子:ショートショート

10歳の《ぼく》はよく、河川敷で壁当てをして遊んでいた。少し離れたところのグラウンドでは、リトルリーグの少年たちが、声を絶やすことなく練習に励んでいた。

友を叱咤し、激励し、その同じ友から叱咤され、激励され・・・というその輪のなかに《ぼく》は入ることができなかった。
あんまり近いところでは恥ずかしいので、離れていなければならなかった。しかしあんまり遠いと、孤独で寂しかった。

なにが恥ずかしいと

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愁子のバトン:ショートショート

愁子のバトン:ショートショート

 愁子(しゅうこ)はグラスに赤ワインを注いだ。味にこだわっている訳ではないが、決まってオーストラリア産だった。というのはボトルの栓がコルクではなくキャップ式のものを選ぼうとすれば、おのずとオーストラリアになるのだった。それでいて香りは芳醇で濃厚、味の全体的な輪郭もしっかりとしていて、舌に滲み渡る複雑な酸味がそのしなやかな輪郭の内で絡み合う。文句なしの条件だった。

 混じり合って一色にならない味わ

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冬佳のデジカメ:ショートショート

冬佳のデジカメ:ショートショート

 夜中に目が覚めた冬佳。なにも見えない暗い部屋のなかで、例外がひとつだけ、一筋のまばゆい明かりが見える。ぼんやりとして働かない頭でも、それはわずかに開かれた襖の隙間から漏れてくる明かりだとわかった。
 ドアにせよ、襖にせよ、閉じる際に音を立てるのが好きじゃない冬佳の癖だった。こんなにお行儀のよい子供が、彼女の他にいただろうか?
 しかし躾の良さとか、育ちの良さからくる癖ではなかった。冬佳はただ怖か

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由香里の旅立ち:ショートショート

由香里の旅立ち:ショートショート

 女手一つで育ててもらった恩を、由香里は立派に返したつもりだった。いい大学を卒業して、大手の商社に迎え入れられたのだから。
 そんな一人娘を、母は親戚にも近所の人にも自慢してまわった。母の苦労を知る人たちは、我がことのように喜んで祝福した。

 しかし海外赴任も決まって、出国まであと一月というところで、由香里は赴任のことを母に知らせたことを後悔した。もし知らせていなければ、もう少し道は開けていたは

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