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由香里の旅立ち:ショートショート

 女手一つで育ててもらった恩を、由香里は立派に返したつもりだった。いい大学を卒業して、大手の商社に迎え入れられたのだから。
 そんな一人娘を、母は親戚にも近所の人にも自慢してまわった。母の苦労を知る人たちは、我がことのように喜んで祝福した。

 しかし海外赴任も決まって、出国まであと一月というところで、由香里は赴任のことを母に知らせたことを後悔した。もし知らせていなければ、もう少し道は開けていたはずである。世の中には、《知らぬが仏》という言葉があるくらいだ。
 まるで自分が海外へ赴くかのように母は、当の由香里自身よりも張り切って、なにかと忙しく海外生活の前準備をこしらえるのだった。

 小学生のころの、あのやつれた母の姿は記憶に根強く残っていた。だから今、打って変わっていきいきとする母を前にし、言えるはずがなかった。

もうやめたい――、と。

 今にして思えば、赴任が決まる前からすでに心は揺れ動いていたのだから、もう少し慎重になるべきだったのだ。あんなに嬉々として喋るべきではなかった。
 だけどそれは自分でも止めようのない惰性だった。それがここにきて、急に勢いがしぼんでしまって、摩擦に富むアスファルトの上を、ずるずると母に引きずられているのだった。

 といって、仮に黙っていたとしても、やはり会社をやめるつもりだなんて言える気はしなかった。
 けれども、偽装生活なら容易く送れそうだった。たとえば平常通り出社を装って家を出たあとは、防音個室のネットカフェにでも身を寄せて、非アダルトのライブチャットで男たちと喋り通して稼ぎつつ、夜には帰宅して適当に疲れた顔をすれば、なにも不都合はないように思える。

 では、出国を装った場合は、あとに続く二年をどこで過ごせばいいのだろう?今の身分があるうちに賃貸契約でもするべきか。だがあまりに途方もない嘘をつくようで、気が進まなかった。海外に行くと言って、しかしその2年をどこか遠くはないが近くもないアパートで過ごし、雲隠れするという、こんな壮大な嘘をつける肝など据わっていなかった。ネットカフェ難民にしても同じことだった。

 その他に打開策は何も思い浮かばなかった。ひねってもひねっても何も出てこない。そのたびに彼女は思うのだった。

『あぁ、消えてしまいたい・・・』

 しかし案外、ここまで窮地に追い込まれると人は、確かに実際に消えてしまう人もいるけど、そうでなければ、さしたる覚悟もないままとんだ奇策に出てしまっているものだ。


 「お母さん、ずっと黙っててごめん」
「なに?どうしたの?」
「わたし、専業主婦になろうと思うの」
「ええ!」とびっくり仰天の母親。口をパクパクさせて言葉が出てこないようだ。

 「ごめんね、もう決めたの」
「え?ごめん、ちょっとわからない。頭が追いつかないの」
「今日、上司に退職届出してきた」
「は!?ちょっと待って!何を言ってるの?もうこんなに荷物まとめてあるのに、何を言っているの?嘘でしょ?」
「嘘じゃないよ。今日から彼氏のとこ行くね」
「は?!なに?ちょっと、整理させて・・・だって、いきなりすぎるわ。なにもかも急すぎてちょっと・・・あなた彼氏がいるなんて一言も・・・結婚?結婚するの??なんの挨拶もなしに??」
「結婚ってわけじゃないけど、一緒に住もうって、もう決めたことなの」

 ——永い沈黙の末に母が言う。

「そう、そうよね。あなたももう大人だものね。それに、最近の子は、そこらへんのことはきっと自由なのよね。きっと・・・ほら、お母さんの時代だったら、親に挨拶くらいはするのが常識だったから・・・でもあなたが幸せならきっとそれでいいのよ・・・きっとみんなも喜んでくれるわ、うん、そのうちに、みんなにも言っておくね」
「ありがとう」・・・・・

 ―――ピンポンと呼び鈴が鳴った。

 宅急便だった。重くてどでかいダンボール箱が部屋のなかへ運ばれてゆく。「ありがとうございます」と会釈して礼をいうと、宅急便のお兄さんは「いえ」と爽やかに言い残して去ろうとしたが、ウーバーイーツのバッグが気になったようで、「ウーバーやってるんすね。がんばってください」と激励してくれた。
「ありがとうございます!」と満面の笑みで由香里は応えた。

 ワンルームの狭い部屋を占領するダンボールを外し、梱包やらをそいつからはぎ取ってやる。海の向こうから、太陽が徐々に現れてくるような気分だ。

 まもなくして完全な姿が露わになった。

 初めて生で見るその堂々たる姿に由香里は、『おおおおぉぉっ!』と心の中でうなった。

 なかなかにハイクラスのドールだった。

メンズのTシャツを着せ、キャップを目深く被せる。それからペニバンを装着し、ボクサーパンツを穿かせ、最後は膝丈の短パンできめた。

「よろしくな」と、彼の肩をぽんぽんと叩きながら由香里。その顔は明るく輝いていた。

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