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愁子のバトン:ショートショート

 愁子(しゅうこ)はグラスに赤ワインを注いだ。味にこだわっている訳ではないが、決まってオーストラリア産だった。というのはボトルの栓がコルクではなくキャップ式のものを選ぼうとすれば、おのずとオーストラリアになるのだった。それでいて香りは芳醇で濃厚、味の全体的な輪郭もしっかりとしていて、舌に滲み渡る複雑な酸味がそのしなやかな輪郭の内で絡み合う。文句なしの条件だった。

 混じり合って一色にならない味わいが、そうして口から鼻孔へ抜けてゆくが、火が通り始めた玉ねぎの香りには適わなかった。

 愁子は片手にグラスを持ちながら、ターナーを持つもう片方の手で、色づき始めたみじん切りの玉ねぎを右の方へ追いやったり、左の方へ追いやったりして炒めたかと思えば、口元にグラスを当て、ワインを喉に注ぐのだった。

 ぼーっと虚ろな表情を彼女がしてしまうのは、酔いというよりは、仕事帰りの疲労によるものだった。朝の満員電車よりも、夜の満員電車の方が、三倍は疲れる。

 車内に充満する加齢臭、わきが臭、鼻を衝く汗という汗の匂い・・・そして極めつけのニンニク臭が・・・・

 愁子はまだシャワーを浴びていないが、炒め終えた頃にはもうすっかりそんな気分になって、抜け殻の顔も幾分か魂が吹き込まれたようだ。

 冷ましている間に、流し台に寄りかかって、ぐいぐいとワインを口にやるが、すべきことはまだ沢山あった。パン粉を牛乳に浸し、卵を溶き、ひき肉と混ぜ合わせ・・・

――『はぁ』

と心のなかで溜息をついた愁子は時計に目をやる。同棲している彼が帰ってくるまでそうかからない時間だった。

 『よし、やるか』、と気合は入れるものの、

相変わらず流し台にホットパンツの尻を乗っけたまま、体をよじらせ、パン粉を計りもせず直観で10グラムぞんざいに小皿へ出した。そして牛乳を注ぎこむ。小皿の周りに、跳ねた数滴の牛乳が飛び散った。
 体を正面に直して、ぐいっとワインを一口。足を伸ばして目の前の冷蔵庫を開け、牛乳を戻した。ポンと軽く一蹴り、冷蔵庫が閉まり、
『あっ、卵』
と思い出す。

 このなんでもないちょっとした失念でやる気を完全に失う愁子だった。テーブルにうなだれ、テレビをつけた。

 ニュースからは不幸しか流れてこなかった。

 すると彼が帰ってきた。
「おかえりー」
「ただいま、ふぅ、いい匂いするけど」
「もう無理」
テレビをじっと見つめたままの愁子。
「バトンタッチ」と、絞り出したような声で言う。
「どこから?」
「たまごといて混ぜるとこから」
「よし、まかせろ!」と張り切る彼。念入りに手を洗い、冷蔵庫を開けた。

 殻を叩く音がして、とかれるまで、あっという間だった。手際よく、素早く、菜箸の溶いてゆく音は愁子の耳に、どこか卑猥に聞こえた。
「ねーぇ、やめて」
「なんでだよ」
ふふっと、愁子は急に元気になったかと思えば、急に寂し気な声をして言った。
「悲しいわ」

 「なにが?」と問う彼の手元から、びちゃびちゃと肉のこねる音がする。また急転して明るくなった愁子は、ふふっと笑って言う。
「やめてってば」
「お腹すいたろ?」
 このときの愁子の感情の起伏と言えば、彼女自身も追いつけないほどで、拾い上げようとすれば上にあり、背伸びして掴もうとすれば下にあるのだった。悲哀に満ちた声で彼女はまた言う。
「うん。でも悲しいの」
「訳わからん」と、タネを整えながら、ぼそりつぶやく彼。


 焼かれる肉の穏やかでやわらかな音に鼓膜はくすぐられ、香ばしい匂いが部屋を満たしているのに、彼女はまだ哀愁のなかにいた。

「はぁ・・・かなしい!」

「どうしたんだよ」

「わからないけど、悲しいの」

「そんなに悲しんでたら、美味しいものも美味しく食べられないぞ」

「わかってるけど悲しいときは悲しいの」

・・・・一通りの献立ができあがったとき、愁子はソファに移っていた。ひじ掛けに乗せた腕を枕にして横になり、溜息をついては「うーん」とか「ねむーい」とか繰り返していた。

「できたぞー」

「ありがとう。でも私、もう眠いの」

「冷蔵庫に入れとく?」
「うん。ねぇ、私、かなしい」
彼はソファまでやってきて、愁子の顔にメイク落とし用のシートを被せた。覆ったまま拭き取る愁子が言う。
「どうせみんないなくなっちゃうの」
丸めたシートをごみ箱へ放り投げたが、外れた。彼はそれを拾ってごみ箱に入れてやる。
「幸せになったってしょうがないのよ」

 悲しいような、すねたような愁子の顔に彼は手を添え、頬を軽く撫でた。そんな彼の手を愁子は掴み取って、『全然足りないわ』とでも言わんばかりに、裏腹に強く自分の顔になすりつけた。
「悲しいのはわかるけど、怒ってる?」と彼が訊くと、愁子は答えた。
「神さまに怒ってるの」


*写真はInstagram(@cakemagazine)より

( ´艸`)🎵🎶🎵<(_ _)>