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沙由美のたんぽぽ:ショートショート

 少年のころ、私はたんぽぽの黄色が好きだった。生い茂る草叢のなかに見つければ、それはリングケースに収まったダイヤのようであったし、アスファルトの道端で見かければ、それは濁った水面がきらりと反射する美しい日光のようだった。

 いずれにしても、私はそこに生きる理由をしか見出さなかった。自転車をうまく漕げなかった日も、好きな女の子につきまとって先生に怒られた日も、たんぽぽの黄色は、暗澹たる雨雲のずっと上で、眩いばかりに強烈な輝きを放つ太陽を想像させ、無限に広がる晴れやかな蒼空を想像させるのだった。

 その頃、団地に住んでいた私は、向かいの棟に住んでいる沙由美という、間もなく中学校に上がる女の子とよく遊んでいた。女の子といっても、幼稚園の年中組だった私には立派な大人の女性だった。
 何をして遊んでいたかといえば、もちろん、男どうしでやるようなチャンバラごっこなんかはしないで、沙由美が連れてくる何人かの女の子たちのなかに混じってオママゴトをしていたのだ。

 私は彼女たちに「健子ちゃん」などと呼ばれて、包丁の扱い方や野菜の切り方を教わっていた。挙句には口紅までつけられて、沙由美が4月から着る制服のスカートまで穿かされる始末だった。
 といって、「健子ちゃん似合う!かわいい!」なんて言われて満更でもない私だったし、化粧の施された自分の顔を鏡で見るのは嫌いじゃなかった。



 その前年の夏休みには、彼女たちと一緒にプールへ出かけた。以前から公営の市民プールなどで一緒に泳いだことはあったが、大規模なレジャープールはこれが初めてだった。
 そこでばったり偶然、沙由美たちの知り合いと思しき男子グループと遭遇した。普通に考えれば、同じ学校の同級生であったろう。だけどなかには、さん付けで呼ばれている人なんかも複数いた。どんな関係性かよくわからないが、ともかく男女ともども親密であったのは間違いない。

 そういうことで、常に彼らと行動をともにした訳ではないが、折りにつけ合流し、すぐに離れるといったようなことを繰り返した。だが話題は常に彼らの事で持ち切りだった。すっかり蚊帳の外に置かれてしまった私は、関心を奪われてしまったという、いくばくかの嫉妬もあったし、全然彼女たちのことを知らなかったということ、いや、正確には、自分の知らない世界、足を踏み入れることさえできないような世界を、彼女たちが私に内緒で見ていたことに、怒りやら孤独やらを感じていた。

 そしてこれまで見たことがなかったような彼女たちの、千差万別に移ろう多彩な表情に、私は目を奪われていた。彼女たちは、ほんの一瞬の刹那の間に、喜びを見せたかと思えば、悲哀を見せるのだった。それが彼女らのなかで明確に区別されて意識されていたかは定かではないが、確かに私は各々の表情にその二つがいろんな風に組み合わされて立ち現われ、消え去るのを見た。





 沙由美もまたご多分に漏れず、幼子の観察眼をあなどって油断しているのか、無防備にも感情のグラデーションを垂れ流すのだった。
 しかし沙由美は、他と比べて、比較的パターンがはっきりしていた。彼女の表情の変化には厳然とした法則性があって、他の女子が状況のいかんに関わらず無秩序に見せるそれとは異なっていた。

 沙由美は男子たちが視界に入ると、その方をチラリと見て、穏やかな微笑を浮かべ、陰るところのない明るさ見せるのに、ぐっと彼らが近づいてくると、俯きがちになりつつも変わらない彼女の口元から覗く白い歯は、どこか、流れる雲に遮られた陽光のように控えめに見えた。

 そうして合流すると、彼女は大いに笑った。みんなと同じようにたくさん笑った。だけど私には、彼女は不自然なほど誰よりも笑っているように見えた。無理をして笑っているのではないか、そう思った。下手くそにはみ出た塗り絵を見ているようだった。彼女の笑顔から、明らかに悲しみが、笑顔の色をして余計にはみ出ていた。
 そうでななかったら、

「おい!」

と、ビーチボールをぽこりと私の頭に当てた彼女が、「健子ちゃん!どうして悲しそうにしてるの?楽しもうよ!」などと気に掛けることもなかっただろう。

「うん!」と私はボールも笑顔も投げ返した。彼女よりもずっと上手に笑えていたと思う。



 午前の部が終わって昼休みに入った。

 男子たちと合流することは特になかった。だけどお弁当を食べた終えたあと、誰かが「行こうよ行こうよ」と皆を煽り立てた。最初は「えぇぇ!」なんて大げさに嫌がって、そのくせ行きたそうにしている子が、数分後にはやはり、「ねぇ沙由美も行こうよ!」と彼女の腕を引っ張るのだった。

「うーん・・・あたしはいいよ~・・・」

「ええーどうして?行こうよ!」
「ちょっと疲れちゃったから。ここで休んでるよ」

「ん~じゃあしょうがないね。健子ちゃんは?行く?」

体育座りをして膝を抱えている私は無言で顔を横に振った。

「もぉー!健子ちゃんまでつれない顔して!じゃあ2人、ここで待っててね」
———そう言って彼女は足早に立ち去り、先遣隊の後を追った。

「いいのー?行かなくて? 」

相変わらず硬い表情を崩せず、無言のまま肯く私。

「そっか。でも、男子たち面白いでしょ?」

同じように肯く私を見て、「よかった」と彼女は安堵に息を漏らした。



 「なんか甘いの食べたいね。かき氷がいいな!かき氷食べたい!食べよう!」

実を言うと、ずいぶん前から私はかき氷を食べたいと思っていた。

「健子ちゃん、かき氷屋さんのあの旗、何回もチラチラ見てたでしょ」

と、したり顔の彼女。

私は自然と笑顔になっていた。そして立ち上がり、その方を指さし言った。

「買ってくる」

「あたしの分も?ありがとう~やさしい~」
はい、じゃあ、メロン味ね、お願い、と彼女は千円札を差し出した。ニッコリ、偽りのない笑顔で。私は心が浮き立った。もちろん、今日一番の沙由美の笑みを見たということもあるけど、彼女がメロン味を選んだことが何より嬉しかった。それというのも、どういう訳か、彼女にはメロンがぴったりだ、と思い込んでいる節が私にはあったのだ。そればかりか、もし彼女がかき氷を食べるなら、それはメロン味でなければならない、とさえ思っていた。期待にたがわず彼女はメロン味を選んでくれたのだから、私の心が最上の幸福に満たされない訳がなかった。

 そして並んでいる最中、幸運なことに、ブタナという夏に咲くたんぽぽが、少し外れたところにある金網フェンスの下から、ひょっこり顔を出しているのを見たのだ。フェンスの先には浅い草叢が茂っていた。

 熱くなった胸が、さらに熱くなった。『もうやめてくれよ!神さま!』なんて心に思ったが、どうやら神は、冗談を真に受けてしまう質のそれらしい。
 2人分のかき氷を両手に持ちながら戻っているさなか、まだ遠く、人混みの向こうに見え隠れする彼女が、うつむいて涙を拭っているのを見てしまったのである。
 急転直下、私の胸は忽ちに静まり返り、氷の溶けだしてゆく速度が、なんとなく、遅くなったような気がした。


 見てはいけなかった、と、あたかも私は、かき氷を崩したり落としたりしないよう注意して歩いているかのごとくに装って、極力手元の方に目を落としながら歩みを進めた。

 頃合いを見計らって私はいったん立ち止り、前を向いた。沙由美はもう私の姿に気づいていた。目が合った瞬間はまだ心配そうに見つめていたのが、みるみるうちに満面の笑みへと変貌し、彼女は手を振った。


 「ありがと~!」
両手を広げて迎え入れる沙由美。そうしてかき氷を手渡せば、彼女は目を輝かせ、「めっちゃ美味しそぉ~~っ!」と唸った。

 間を置かずして最初の一口目が運ばれていく。

 「ん~~っ!!おいしい!!」

それからも彼女はおいしいおいしいと繰り返して、しかし私の方といえば、彼女の顔色をうかがうばかりで、あまり味わうことができなかった。

 するうち、彼女の目に涙が浮かんできた。そして鼻をすすりだした。緑色の氷を含ませた口を殊更に強く締めながら、こぼれた一滴の涙を、滴る前に慌てて拭った。

 もう、私は見ないふりをすることができなかった。


 ストローを持つ手で忙し気に両目を交互に拭いながら、彼女は「ごめんね」と涙声で言った。



 私は食べるのをやめて、駆け出した。かき氷屋のキッチンカーを通り過ぎ、少し疲れたのでそこでスピードを緩め、遊泳場と外とを仕切る金網フェンスの方へ大手を振って早足で向かった。

 茎の長く伸びたブタナのたんぽぽが、そよ風になびいている。

 それを引っこ抜いてしまうことが、どんなに悪でも構わないと思った。それで彼女が元気になってくれるのに、何が悪いというのだろう?

『でもごめんね、たんぽぽさん』

と私は、ブチッとそれを躊躇いなく引っこ抜いた。そして彼女の方へ急いだ。

 しかしわざわざ急がなくとも、彼女は私を追いかけて、もうそこまでやってきていた。

「なに?健子ちゃん、どうしたの?」
一体どんな顔をしてそうしたのか、私はたんぽぽさんを突き出した。

「それ、あたしにくれるの?」

こっくり私はやはり無言のまま肯いた。

「ふふっ。やさしいね。ありがとう」

花を受け取り、まじまじと見つめる彼女の目じりに留まった涙が、きらきらと輝いていた。


( ´艸`)🎵🎶🎵<(_ _)>