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阿満利麿 『日本人は なぜ無宗教なのか』 : 無神論者の 〈理想〉という神

書評:阿満利麿『日本人はなぜ無宗教なのか』(ちくま新書)

まもなく終ろうとしている平成の時代は、巨大災害の時代でもあった。1995年(平成7年)の「阪神・淡路大震災」と「オウム真理教による地下鉄サリン事件」以降、大きな自然震災がいくつもあり、そのあげくが「東日本大震災」とそれに伴う「福島第一原発事故」という、天災と人災の複合した未曾有の大災害であった。

これらの巨大災害によって、多くの人が命を失い、より多くの人が近親者を失い、住処を失って、心に深い傷を負った。
そのせいであろう。平成になってから「祈り」「絆」「心の時代」といった、人の心を傷を癒すものが注目され、物質的価値ではなく、精神的価値の重要性が再注目されるようになった。
そして「宗教的な価値」もまた、日常的な生活の中で再評価されるようになり、「スピリチュアル」なものが、実用的なものとして、違和感なく日常の中に浸透しつつあるというのが、日本における宗教学界の現状認識となっている。
昭和の時代には「日本人は無宗教」だと、当たり前のように言われていた、そんな日本人の宗教観が揺らぎつつあるのが、平成の時代が終わろうとしている、昨今の日本の精神状況であると言えよう。

さて、本書『日本人はなぜ無宗教なのか』は、1996年の刊行で、おおむね「昭和の日本」の認識において、日本人における「無宗教」の意味を問うた、今や古典的な名著である。
私が今頃になって本書を読んだのも、最新の宗教学書の参考文献欄に、しばしば本書の名を見かけたからだ。
私が手に取ったのは、2007年重版の第23刷であるが、初刊から十年で22回も版を重ねており、さらに12年後の現在も、本書は版を重ねて刊行中である。

そんな本書では、『日本人はなぜ無宗教なのか』という問いに対し、どのようなアプローチを試みたのであろうか。
著者は、その点について、次のように語っている。

『 日本人の宗教心は、「無宗教」に終わるものではないし、また「無宗教」も子細に見てみると、豊かな内容に満ちていることも分かってくる。大切なことは、自分たちの歴史を正確に知るということであろう。自分たちの宗教心のあり方を、事実に即して正確に認識することなしに、日本人論も日本文化論も、またさまざまな国際比較論も成立はしない。「無宗教」という以上は、日本における本格的な「無神論」の系譜も、尋ねる必要があることはいうまでもない。だが、本書ではあえてそれにはふれなかった。本書では、あくまでも日常生活のなかで、ごく普通に使用される「無宗教」という言葉の内容を確かめることに焦点を絞った。』(P199)

『 本書では、「無宗教」という言葉が生まれてくる事情を、二つのレベルのちがった歴史をたずねることで明らかにしようとした。一つは、明治以来の近代史であり、もう一つは、もっと長期にわたって持続されてきた、いわば民族的心性にかかわる深層の歴史である。こうした複眼的な説明を必要とするほど、日本人の「無宗教」の根は深い。書き終えてあらためてそのことを実感する。』(P206)

著者の意見はハッキリしている。『事実に即して正確に認識すること』が何より必要であり、その上で『複眼的』な検討しなければ、「宗教」の問題を正確に評価することはできない、というものだ。

それにしても、著者の著作リストを瞥見すれば、著者の研究が「日本」国内に限定されている、という事実も否定できない。
例えば、著者がユダヤ教やイスラム教について、詳細かつ十二分な知識を持っているとは思えない。無論、私は、それを非難しているのではない。ただ「人間に与えられた時間には限度があり、すべてを知ることはできない」という事実を踏まえた上で、著者の語る『事実に即して正確に認識することなしに、日本人論も日本文化論も、またさまざまな国際比較論も成立しない。「無宗教」という以上は、日本における本格的な「無神論」の系譜も、尋ねる必要があることはいうまでもない。』という言葉の正しさとその限界を理解しておかないと、結局は「ぜんぶ知ろうとしなくても良い」という安易な結論に横着しかねないと危惧するのである。つまり、それはそうなのだが、それでも「すべてを知ろう」とする意志を失ったところでの評価は、結局のところ、著者の言うところの重みを理解することは出来ない、と言いたいのだ。

本書における「二つのレベル」の一つ目である『明治以来の近代史』の問題だが、こちらは具体的な説明であり、裨益されるところ大で、シンプルに多くの読者から喜ばれ、高く評価されるであろう「日本における近代的宗教変革史」となっている。
だが、そのあたりには一定の知識をもっていた私が、本書で特に感心したのは、もう一つの『もっと長期にわたって持続されてきた、いわば民族的心性にかかわる深層の歴史』を通して語られた、著者である阿満利麿自身にとっての「宗教」の意味の方であった。

結論から言えば、阿満利麿にとっての「宗教」とは、「すべての人間のなかに存在する感情」であり、「無宗教」も「無神論」も、そうした「宗教心」のひとつの逆説的な表現形式である、ということになるのではないだろうか。
だからこそ、神や仏の「(物理的)実在」を信じていないであろう、その意味で「無宗教」であり「無神論」者の宗教学者であるはずの著者ですら、「宗教」の重要性を熱く語らざるを得ないのではあるまいか。

これは私自身、「無宗教」であり「無神論」者でありながら、しかし「宗教」というものにこだわり、「宗教」の一つの典型としてのキリスト教を研究し、その問題点について厳しく(熱心に)批判するという、ある意味で「矛盾した行動」の本質にもかかわる問題である。
つまり、私自身、「無宗教」であり「無神論」者でありながら、しかし「下手な信仰者よりも、ずっと純粋な求道者であり、だからこそ、いい加減な信仰が許せない」と感じるのではないか、と自己分析しているのである。
純粋な「宗教心」や「信仰心」からすれば、他の宗教との関連で、矛盾するような「独り善がりな宗教的形象としての信仰対象(神や本尊や教祖)」への信仰は認められないはずなのだ。「唯一の神」がいくつもあってはいけないし、「たくさんの神」があるのなら、その相互関係は明確に説明されなくてはいけない。当然、そこに矛盾があってはならず、明白な矛盾があるのに、それを放置したまま「妄信」するような、いい加減すぎる「宗教心」や「信仰心」はとうてい容認できない、というのが、私の「無宗教」であり「無神論」なのである。

だから、私は本書で著者が紹介している、日本の宗教における「日常性」が好きではない。著者も言うとおり、「宗教」というのは、もともと「日常」を揺るがすし、相対化するような「超越性」であり、超越的な契機であるはずなのに、日本では、神道であれ仏教であれ、そうした「超越性」が「毒抜き」されて、「日常性」に回収されてしまう。
もちろん、それはそれで道理のあることなのは、本書の著者と同様に理解しているが、私はそういう「宗教の、日常性への回収」は「宗教の堕落」であり「道具化」としか感じられず「そんなものならいらない。無くていい」と思わざるを得ないのだ。

実際、私は父の葬儀の際、喪主として「本当は葬式などという形式は、生きている者の自己満足でしかなく、その意味で下らないと思うので、やりたくはなかった」などという挨拶をしたのである。そこでは、葬儀は、死者のものであるべきであり、生きている者の「自己満足としての〈喪の儀式〉」などであってはならない、という「原理主義」的な思考が強く働いていた。
私は、死んだ父は、生き残った者それぞれの心のなかに「記憶」というかたちで生き残っているのだから、遺体は物質としての「ゴミ」でしかないし、それでいいと考えた。まして、遺骨や墓に意味を見出す気(通俗性)など、さらさら無かった。そんな「世間のしがらみ」的な手続きは、ある意味では死者を蔑ろにした「生者の都合」でしかないと感じられたのだ。

そんな私であるからこそ、著者が本書で紹介している「外部の者を立ち会いを拒む、元来の形を残した離島の葬送儀礼」の考え方には、強くシンパシーを感じた。葬送儀礼そのものは無意味だと考えているのに、それでも「あるべき姿」を守ろうとし、通俗化を峻拒するそのあり方に、深く共感したのだ。

このように考えてくると、私の「宗教心」とは、世間で言う「宗教」という形式を採ってはいないものの、「ある種の仮構的観念」を信じるものとしての「宗教心」だとは言えるのではないか、とも考えられよう。
つまり、その信仰の対象とは「理想」である。

「理想」というものは、実在しない。しかし「宗教は、かくあるべきだ」「信仰者は、かくあるべきだ」「人間は、かくあるべきだ」ということを信じているのだ。
それが「実在しない」と知っていながら、それは「信じられるべきもの=目指されるべきもの=希求されるべきもの」だと考えられ、そう考えることが必要な「希望」だと考えられている。
無論「希望」も実在しないと認識しながらも、それもまた「信じられるべきもの=目指されるべきもの=希求されるべきもの」だと考えられている。もはやこれは、立派に「信仰心」であり、一種の「宗教心」なのではないだろうか。

そして、こうした観点に立てば、本書の著者が「無宗教」であり「無神論」者の宗教学者でありながら、しかし、宗教の価値と重要性を力説するというのも、矛盾ではない、と理解できよう。
本書の著者もまた、「信仰心」や「宗教心」の根底にあり、もやは「信仰」や「宗教」というかたちを持たない「人間の原初的思考形式」を「肯定している=信仰している(せざるを得ない)」ということなのではないだろうか。

それはいま流行の「進化論的心理学」の言葉でいえば「生き残るために仕込まれた思考形式」であり、その世間的な表現形式が「宗教」というものないではないだろうか。
だとすれば「宗教」そのものは否定できない。ただ、否定できないものであるからこそ、「宗教のあり方」自体は厳しく検証され、批判にさらされ続けなければならないのではないだろうか。

著者の言う『もっと長期にわたって持続されてきた、いわば民族的心性にかかわる深層の歴史』さえ越えて、「生物としての人類の深層的心性」まで視野に入れれば、「宗教」と「無宗教」という区分を乗り越えるだけではなく、人間の「すべての思考の指向性」といったものとの間の垣根さえ越えられるのではないだろうか。

いささか、大ボラ的な話になってしまったが、南方熊楠の「一切智の夢」的な私の観点から、本書の著者である阿満利麿の「宗教」観を、拡大的に検討してみた次第である。

初出:2019年3月31日「Amazonレビュー」
  (2021年10月15日、管理者により削除)


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