柴 『おおきなのっぽの、』 Vol.2 : 「おじいちゃん目線」による「孫娘の可愛らしさ」
書評:柴『おおきなのっぽの、』Vol.2(ワイドKC・シリウスコミックス)
本作は、全2巻完結の「連作四コマ漫画」作品で、本稿で扱うのは、その第2巻だ。
私は、すでに第1巻のレビューを書いており、そちらでこの作品なり作者なりについての紹介は済ませているので、ここではそうした基本的な紹介は省いて、まったく違った角度から、本作について語りたいと思う。
言わば「応用編」だと、そう思っていただければ幸いである。
本作『おおきなのっぽの、』は、大筋では「背の高い小学生女子」のお話で、「見かけと中身のギャップ」によって、「子供らしさ」というものをわかりやすく描く、という構造になっている。
で、本巻も私には、第1巻になんら劣ることなく「すごく面白い」、質の安定した作品なのだが、本巻の「あとがき」で作者が、
と書いているとおりで、たぶん作者には不本意なかたちでの完結ということだったのだろう。つまり、本作の人気が今ひとつ振わなかったため、2巻をもって打ち切りになったということであろうし、私のように本作を楽しめる人は、そう多くはなかった、多数派ではなかったということなのであろう。
で、本作を楽しめるのは「どういう読者なのか?」と考えてみると、それは当然「子供が好き」とか「子供の子供らしいところが好き」な人、ということになるのだろう。しかしまた、これは「子供の好きな人は、良い人だ」という話ではない。
例えば「子供らしさを失った、大人が嫌いだ」と強く感じている人は、その反動として「子供らしい子供が好き」ということになるのだろうし、その意味で「子供の、子供らしい可愛らしさが好き」ということになるのだろう。
この「子供らしい可愛らしさ」とは、一部に「子供らしい、こ憎たらしさ」をも含むのだろうが、子供の「子供らしい(大人には無い)、いやらしさ」まで好きだという人はほとんどいないだろうから、「子供であれば、どんなキャラクターの持ち主であっても、全員好き」ということではないはずである。
で、私の「子供が好き」というのも、そういう意味であって、「子供であれば、どんなキャラクターの持ち主であっても、全員好き」ということではない。
だから、私の場合は無論、一般論としても「子供が好き=いい人」だなどとは言えないと思う。まあ、相対的には、「子供が嫌い」であるよりは「子供が好き」な方が良いとは言えるのかもしれないが。
そんなわけで、「子供が好き」ということが、すなわち「良い人」ではないとしても、いずれにしろ、私や、私と同様の本作のファンは、基本的に「子供好き」だとは言えるであろう。
だが、漫画読者の中には、そうした「子供好き」の人は、それほど多くはない、ということなのではないだろうか。
つまり「子供らしい可愛さ」よりも、漫画に対しては、別の何かを求めている人の方が圧倒的に多いのではないか。
例えば、多くの人が求めるのは、「カッコよさ」だとか「ハラハラドキドキ」だとか「泣ける」とか、そういうことなのではないだろうか。
さて、私は、第1巻のレビューにおいて「本作はどういう作品か」「本作が好きな私は、本作のどこに惹かれているのか」といったところを中心に書いたのだが、今回は「作者はどういう人か」というところから、本作を考えてみたいと思う。
「作品の受け手(読者)にとっての本作」ではなく、「作者にとっての本作」という側面を着眼点として、本作を考えてみたいのだ。
私は前述の「第1巻のレビュー」の中で、特に好きなエピソードとして「主人公の蛍と、すでに亡くなっているおじいちゃんとの思い出を描いたもの」を挙げて、本作の魅力を論じたのだが、今回、第2巻を読んでいて気づいたのは、作者の「子供好き」というのは、言うなれば「おじいちゃん目線」なのではないか、ということである。
つまり、「子供から見た子供」でもなければ「親から見た子供」でもない、「おじいちゃんから見た子供」つまり「孫としての子供」であり、作者の場合は「おじいちゃんから見た、孫娘の可愛さ」的なものを(その自覚の有無に関わりなく)描いているのではないか、ということだ。
これは、単に「おじいちゃんの登場するエピソード」に限られたことではなく、本作が基本的に、そういう目線で描かれているという意味であり、言い換えれば、本作を楽しめる人というのは、基本的に同じような目線に立つ人なのではないか。つまり「おじいちゃんが孫娘を見る目線」を持った人である。
だから、それは漫画読者として「一般的ではない」のではないだろうか。
具体的に根拠のある話ではないが、一般に漫画読者の場合は、「おじいちゃんと孫娘」という、言うなれば、ワンクッションだかツークッションだか置いた「距離感」で、主人公の活躍を見たりはしないのではないか。もっと「近い距離感」なのではないか。
例えば、主人公に「自己投影する」とか、そこまでではなくても「そばで見ている(そばで応援している)」というような距離感だ。
だが、「おじいちゃんと孫娘」の場合、おじいちゃんと孫娘は性別も違うのだから、おじいちゃんが孫娘に「自己投影するから、可愛い」わけではないだろうし、親のように子供の養育者として、実際的な近い距離の関係でもないだろう。
つまり「おじいちゃんと孫娘」というのは、直接的な関係ではないからこそ、「孫の可愛らしさ」だけが抽出されることになるのではないか、ということである。
では、私を含めて、本作を楽しめる読者がどうなのかというと、以上の考察から導き出されるのは、「実際的な問題」をすべて捨象した上での「子供の可愛らしさだけ」を愛でている、ということなのではないだろうか。
だから、例えば、孫娘は愚か、結婚もしていないから子供もいない私が、どうして「おじいちゃん目線」なのかといえば、それは私が、養育などの「実際的な問題」を、人並み以上に嫌う(面倒がる)人間であり、一足飛びに「子供の可愛らしさ」を求める人間だからではないか。
無論、本作のファンには、子や孫をお持ちの方もいるだろうから、単純に一般化はできず、これは私の自己分析と思っていただいて良いのだが、ただ、子や孫をお持ちの方であっても、「実際的な問題」は忘れて本作を読むことのできる人が、本作を楽しめる、ということなのではないだろうか。
言い換えれば、本作は「具体的なものと抽象的なものを切り分けて、抽象的なものを楽しめる人だけが、楽しめる作品」ということになるのではないだろうか。
つまり、本作は「子供の子どもらしさ」が、「抽出的に描き出された作品」だと、そのように言えるのではないだろうか。
お話自体は、決して「抽象的」ではないけれど、本作に描き出された「子供らしさ」とは、「リアルなエピソードのそのまま描いた」ような「リアルなもの」ではなく、いったん「抽象」を経た後の「子供らしさの美」ということを描いていると、そういうことになるのではないだろうか。
ともあれ、本作を読んでほしい。そして、そのあたりを考えていただければ、自身が「読者として、どのようなものを求めているタイプなのか」といったことや、そこから、自身の「物の見方」というのも、浮かび上がってくるかも知れないのである。
(2024年7月25日)
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