コマツシンヤ 『8月のソーダ水』 : 頭のなかに収められた「旅のアルバム」
私はコマツシンヤのファンである。だから、コマツの本は、絵本を含めてほとんど読んでいるのだが、その中で最も好きなのが、本書『8月のソーダ水』だ。
本書は、2013年の刊行で、その初刊時にたまたま書店で見かけ、表紙画に惹かれて買ったのだが、その内容は期待をはるかに上回るものであった。
それに本書はフルカラーなのだ。
ソーダ水を思わせる「水色」を基調した画面が本書いっぱいに展開しており、それでいて決して絵面が単調にならないところがすごい。
コマツの他の作品まで見てみると、この「水色」というのは、単に「ソーダ水」の象徴として選ばれたものなどではなく、もともとコマツの好きな色だったというのが容易に推察できる。つまり、「水色」は、単に「ソーダ水」を象徴する色なのではなく、例えば「ガラス玉」や「透きとおった水」などの象徴でもあるのだろう。一一そうなのだ。本当は「透明」なのだが、私たちは「水」を「水色」だと思っている。これは、科学的に説明できることなのだけれど、そういう理屈は別にして、私たちにとって、「透明」とは「水色」なのだ。いや、「透明の色」は「水色」なのである。
コマツシンヤが「水色」を好むのは、きっと、それが「透明なもの」であり「純度100%のもの」であり、ふつうであれば「描けないはずのもの」が、光の屈折によって目に写り、描きうるといった、そんなものだからではないだろうか。ちょうど、ソーダ水の中のちいさな泡のように。
本作『8月のソーダ水』は、私のとって、コマツシンヤを特別な作家にしてくれた作品であり、コマツの代表作だと思っている。
だから、本作の発展型と考えても良いだろう、先ごろ全3巻で完結した『午后のあくび』も大好きな作品であり、当然のことながらレビューも書いたのだけれど、またそれだけに同作の完結は、なんとも寂しいものだった。だから私は、そのレビューのタイトルを「さようなら あわこさん。また会う日まで。」と、主人公への一時的な別離の挨拶としたのである。
そんなわけで、私としては、私のとってのコマツシンヤの代表作である『8月のソーダ水』のレビューを書いていないことが、なんとも心残りであった。
というのも、いまや私にとって「レビューを書く」というのは、「コレクションする」というのと、ほとんど同義だったからである。
もちろん、2013年に『8月のソーダ水』と出会った際にも、当時の私の掲示板である「アレクセイの花園」に、「こんなすごい本があった」というような短文は書いていただろう。だが、当時は、まとまった「レビューを書かなければ」というような気持ちは無かったから、大したことは書いていないはずだ。
実際、ここ「note」には、全削除された「Amazonカスタマーレビュー」に投稿したレビューはもとより、それ以前の、「アレクセイの花園」に書いたものも、まとまった文章だけなら転載している。だから、その中に『8月のソーダ水』のレビューが無いというのは、それが、それほどまとまったもの文章ではなかったということになるのである。
それにしても、「レビューを書かなければ」という意識など、以前はほとんど無かったのに、どうして今は、そんな意識が強くなったのだろうか。
まず考えられるは、「Amazonカスタマーレビュー」で、「レビューを書く」という習慣がついたことが大きい。
だが、Amazonでは「昔読んだもののレビュー」は書かず、もっぱら「新刊」のレビューを書いていた。
そもそも「Amazonカスタマーレビュー」では、「単なるエッセイ」を書くわけにはいかず、Amazonにとっての「商品」となるものを採り上げて、そのレビューというかたちで書かなければならないという縛りがあったし、読んだ新刊のレビューを優先すると、むかし読んだ本のレビューは、どうしても後回しになった。また、わざわざあらためてレビューを書きたいほどに愛着のある本だと、再読もせずに書く気にはならなかった。だか、未読の新刊に追われて、その機会が持てなかったのだ。
その点、「Amazonカスタマーレビュー」を追い出されて、言うなれば「単なるエッセイ」でも「社会批評」でも、なんでも自由に書けるここ「note」に移ってからは、具体的な「作品」、小説なり映画なりを扱ったレビューを書かなければならないということなくなった。
だが、それにもかかわらず、基本的にそうした「作品レビュー」を書き続けているのは、もちろん「作品レビュー」を書くことが習慣化してしまったということもあるけれど、たぶん私が、自身にもいずれ訪れる「死」というものを考えるようにもなったからだと思う。
「note」を始めたのは、定年退職も間近な時期で、「Amazonカスタマーレビュー」を追い出されること自体は良いとしても、せっかく書いた文章を、どこかに残しておきたいという気持ちの働いたことは否定できないところだったのだ。
さらに言えば、それまでの私は、自身のコレクションは、「本」であれ「絵画」であれ、具体的な「物」として、当たり前に蒐め所蔵していたのだが、そろそろそれも物理的な限界に達して、「処分」を考えなければならなくなっていた、ということもある。
よく「蔵書一代」と言われるけれども、所詮、物理的なコレクションは「天国なり地獄なりまでは、持って行くことができない」のである。
だから、自分が死んでから、他人の手によって、不本意なかたちでコレクションを散逸させるくらいなら、生きているうちに、自分の手でしかるべく処分したいという気持ちが、定年を控えてどんどん強くなってきていた。
ところが、実際に退職してみると「蔵書のしかるべき処分」というのが、決して容易なことではないというのがわかってきた。
まず、愛着のある本だからといって、こちらの思い入れどおりの「適価」で引き取ってもらえるわけではないという、冷厳たる現実がある。売るとなれば、それは買い手の価値観を無視できないのだから、どうしたって不本意な値段になってしまう。
蔵書を処分することで金が欲しいわけではない。本を読み、文章を書くという、シンプルながら「好き勝手な生活」を続けていく程度のお金は、長年の貯えで何とかなるのはわかっているから、蔵書が高く売れて欲しいというのは、ひとえに蔵書への愛着ゆえであり、適切に評価されてほしいという気持ちからなのである。
だが、そうはいかないという現実がわかってくると、蔵書の処分が私の中で、にわかに重く面倒なものになっていった。だからこそ、面倒な思いをし、残された貴重な時間をかけてまで、大切な蔵書を、不本意なかたちで人手に渡すくらいなら、いっそ燃やしてしまった方がスッキリする、とまで考えたのだ。
だがそれも、家ごと燃やすのでもないかぎり、容易に片づくような量では無かったのである。
そこで、先日やっと、意を決して、昔から知っていた古書店に、蔵書の整理を一任することにした。
蔵書整理にあたって、あれこれ注文をつけていたらキリがなく、また、それに手間と時間が取られては、元の木阿弥になってしまうからである。
しかし、こうした「一大決心」ができた背景には、「物によるコレクション」には量的があり、その処分にも時間的なロスが避けられないけれども、「文章によるコレクション」には、そうした限界やロスが無い、ということを、「note」を始めたことで苦づいた、ということがあった。
つまり、ここ「note」は、私にとっては、ある種の「コレクションルーム」となっていたのである。
もちろん、それだけ、というわけではない。「最近」興味を持つことになった「映画」に関する文章は、「映画コレクション」ではなく「勉強の記録」であり、その意味で現在進行形の「学びの記録」的な性格が強い。
だが、もともと「コレクション」的な性格が強かった「本」については、まさに「物としてのコレクション」に代わるものとしての性格が強くなってきた。要は「私は、こうした本が(こういう理由で)好きなのだ」ということを、示し残すためにレビューを書いているという側面が強くなってきた。
だからこそ、勉強中の「映画」に関するレビューに比べ、本に関するそれは、比較的好意的なものが多いのだ。なにしろ、基本的には「好きなもの」について書いているからである。
私が、ここ「note」を始めてから、「これまで、読みたくても読めなかった作家の本」を読むことでレビューを書いたり、本書のように「昔読んで愛着のある、しかしまだレビューを書いていない本」について再読してまでレビューを書いたりするというのは、要は、可能なかぎり「私の偏愛コレクション」の形を整えたいという思いがあるからだ。
私はもともと「再読」ということをほとんどしなかった人間で、それは他に読みたい本が山ほどあったからであり、再読をしている暇などなかったからである。
しかし、「レビューを書く」ことを、一種の「コレクション」行為だと考えるようになると、昔読んだままの大好きな本、ある意味では私の中で「マスターピース」とも呼べるような本のレビューを書かないまま死ぬというのは、なんとも居心地の悪いものと感じられてきた。だから、そうしたものも、できれば再読してレビューを書きたいのだが、また、そうした特別な本であればあるほど、こちらも「中途半端なものは書けない」と構えてしまうから、どうしても後回しになってしまっている。
そうした本、私にとっての「聖典」とでも呼ぶべき本の書名をここて具体的に挙げておけば、そのツートップは、中井英夫の『虚無への供物』と大西巨人の『神聖喜劇』ということになる。
どちらについても、これまで何度も拙文のなかで触れてきたのだが、そうした中途半端な言及などではなく、「これが私の『虚無への供物』論だ!(『神聖喜劇』論だ!)」というものを書き残したい。
だが、そのように構えるからこそ、どうしても後回しにしてしまっているのである。
その点、本書『8月のソーダ水』は、そこまで「重い本」ではない。
そもそも本書『8月のソーダ水』は、「論じ」なければならないような本ではなく、要は「こんなに面白いよ」「こんなに素晴らしい作品なんだよ」という事実だけを伝えられればそれでいいし、その良さは、私が論じるまでもなく、作品の一部を「画像」として具体的に示せば、おおよそのところは伝わる性質のものだったので、その意味では、レビューを書くことの敷居が、きわめて低かったのである。
で、先日そこへ『午后のあくび』の完結ということがあったので、いよいよ『8月のソーダ水』のレビューを書かなければならない、その時が来たと、そう思ったのだ。
本書を「オススメしたい」「知ってもらいたい」という気持ちももちろんあるにはあるけれども、しかし、最も大きな理由は、『8月のソーダ水』を、ここで新たに「私のコレクション」に加え、それを見せびらかすにあるというのは、否定できないところなのである。
私はこれまで、「蔵書自慢」ということをしてこなかった。なぜかと言えば「持っているだけ」では、自慢に値しないという思いがあったからだ。
所蔵するだけなら、金さえあればできるが、私のコレクションは「そんなものではない」。私のコレクションとは「人並みではない愛と理解の賜物なのだ」と、そんな思いがあったので、ただ「物」を自慢するようなことはしたくなかったのである。
だが、そんな私の「物のコレクション」たる蔵書の処分もすでに進んでおり、どこにしまい込んでしまったかもわからない『8月のソーダ水』の初版初刷本も、この機会に処分することになる。
つまり、すでに件の古本屋の倉庫に移動しているかもしれないし、まだうちに残っているかもしれないが、いずれ古本屋の手に渡り、そこから見知らぬ他人の手に渡るというのは、もはや時間の問題でしかない。したがって、同書に限らず、私の「物理的なコレクション」は、すでに存在しないも同然なのだ。
だから、『8月のソーダ水』のレビューを書かなければならない。レビューを書くことで、新たにコレクションに加えなければならない。そのタイミングが、今なのだ。
そして、このような次第だからこそ、肝心の『8月のソーダ水』を論じる前に、こうして、ここに至る事情を長々と書き記してもいるのだ。
前述のとおり、このレビューにおいて重要なのは、『8月のソーダ水』の中身の紹介ではなく、この本への「私個人の愛」を語ることにある。だからこそ、こんなことを書いている。
つまり、結局のところこのレビューは「この子は、私の大切な蔵書であり、永遠に手放す気なんかない」と、そういう気持ちの表明なのである。
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さて、ここから後の「内容紹介」は、ほとんどオマケである。本書の内容は、amazonの本書紹介ページにある、
という、この一文に尽きていると言っても良い。
しかし、それだけではあまりにも愛想がないので、少し違った角度から、私なりの「紹介」を付け加えておこう。
まず、本書の魅力は、「マンガ」というよりも「絵本」に近いものだと言えるだろう。つまり「お話の内容」もさることながら、その「ビジュアル」が素晴らしいのだ。しかも、「ビジュアルが素晴らしい」というのは、単に「絵が綺麗」とかいったことではなく、その「美しくて楽しくて幸福な、不思議な世界」のあれこれを、見事に「ビジュアル化」している、という点にあるのである。
多くの「マンガ」がそうであるよう、「ストーリー」の「説明」が「絵の役割」なのではなく、その「世界」を、ほとんど「絵だけ」で、説得的に描き、この「水色に幸福な世界」を、完全に成立させてしまっているところが、本書におけるビジュアルの素晴らしさなのだ。
「そのように描いているから、そうなのだ」という「説明・説得」ではなく、「そのような世界を、そのまま描き写しているだけ」だとしか思えない、ほとんど「創作」「作品」ということを感じさせない、自己完結的な世界を、紙の上に再現しきっており、そのビジュアルを通して、読者を、本作の舞台である海辺の町「翆曜町(すいようちょう)」へと誘い込んで、いっとき、その町で生きさせてしまうような、そんな作品。
本書を読み終えて感じるのは、「面白い作品を読んだ(読ませてもらった)」満足感と言うよりも、「夢のように楽しい旅から戻ってきた時の、一抹の寂しさのようなもの」なのである。
もちろん、「翆曜町」のモデルとなった、エーゲ海のサントリーニ島やミコノス島へ行けば、本書で見たような景色が、実物の存在感を持って迫ってくることだろう。
一一だが、そこへ行って、その景色を見たところで、本書で見たような「不思議な光景」を体験することはできないし、なにより、そこへ行く場合、私たちは、この「重い体」を、そのままその場へと持ち込まざるを得ない。そこでは、私たちは、この重い体を引きずって回らなければならないのだが、「翆曜町」でなら、そうではないのである。
したがって、そうした現実の場所では、「翆曜町」で体験するような、不思議な体験はできない。
例えば、年に一度の「海迎え」の日も、決して体験することができない。
「海迎え」の日とは、年に一度「お月さま」の再接近するの日、「お月さま」が、ひとかかえもあるもあるほどの大きさに見え、クレーターまで裸眼でくっきりと視認できるほどに接近した、そんな「お月さま」の引力によって、海がいつもよりも高くなって、「翆曜町」は数日間、海中に水没してしまう日なのだ。
つまり、海が街にやってくる日だから「海迎え」なのだが、しかし、この海は、ただ、いっとき町を呑み込んでしまい、「海の圏域」として治めはするものの、それで何かを奪っていくということはないのだ。
なにしろ町は水没してしまうのだから、「海迎え」の期間中、町の人たちは、山に遺された昔の穴居住宅に一時避難して、海が退く日を待つのだが、海が退いた後は、また、それまでの当たり前の生活が戻ってくる。
海の退いたあとの町には、海の忘れ物として貝殻だのが、家の中にまで多少は残されているものの、何の被害も与えはしない。海に浸かっていたからといって、家や家具が水分を吸ってダメになるとか、塩分でダメになるとか汚れるとかいった「生臭い現実」は、そこには一切なく、ただ、年に一度「海」が遊びに来るのに、その場所を一時的に譲ってあげるだけなのである。
言うなれば「海迎え」とは、私たちが「お盆」において、山から帰ってくる祖霊を受け入れるようなものなのである。だから、祖霊は、私たちを守ってくれはしても、決して害をなすことはないのである。
だからたぶん、「翆曜町」の祖先たちは、きっと海の向こうの他界に住んでいるのだろう。本書の紹介文にある「蜃気楼の彼方に浮かぶ幻の都市」こそが、彼らの「補陀落」なのではないだろうか。
ともあれ、「翆曜町」はこんなふうに、私たちの現実からは完全に切れた「幸福な異世界」なのである。
またその意味で、見かけは似ていても、現実に存在する、エーゲ海のサントリーニ島やミコノス島などとは、まったくの別物であり、そっちの方が良いとか、こっちの方が良いとかいうような比較の対象ではないのだ。一一なにしろ「翆曜町」の場合は、仕事のない昼間には、「灯台」が立ち上がって散歩に出たりするくらい、のんびりとした世界なのだ。
当然、こんな町は、この世界のどこを探したって存在しないのだが、そんな場所への「いっときの旅」を可能にしてくれるのが、他でもない本書なのである。
このレビューを書き終えてしまい、本書を、私の「頭の中の記憶の本棚」に並べてしまえば、もう二度と読む機会はないのかもしれない。だが、それでいい。
なぜなら、そんな「旅の記録」のアルバムである本書は、私の頭の中の本棚に収められて、私の永遠のコレクションとなるからである。
(2024年7月21日)
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