黒澤明監督 『天国と地獄』 : 善と悪と『罪と罰』
エド・マクベインの「87分署シリーズ」の1作『キングの身代金』を原作として、独自の工夫が凝らされた好編。
私は原作を読んでいないので、正確なところは言えないが、そもそも「87分署シリーズ」が「いつもの刑事たちが、地元の街で発生する各種犯罪に立ち向かう」という、日本の刑事ものテレビドラマと同工のもの、と言うか、それに大きな影響を与えたシリーズ小説なので、本作の原作となる『キングの身代金』もまた、基本的には、子供の営利目的誘拐事件を解決したところで「めでたしめでたし」となる、比較的シンプルな作品のようだ。
言い換えれば、本作『天国と地獄』は、そうした「シンプルな原作」に対し、「人間的な苦悩」を生み出すものとしての「天国と地獄」、つまり「幸福と不幸」という問題を付け加えた作品だとも言えよう。
とあるとおり、ドストエフスキーの『白痴』を映画化している黒澤らしく、本作には『罪と罰』の影響が、ハッキリと窺える。
周知のとおり『罪と罰』は、次のような作品だ。
つまり、本作『天国と地獄』の犯人である竹内銀次郎(山崎努)には、明らかにラスコーリニコフの影響が見られるのだ。
もちろん、ラスコーリニコフの場合は、最後にソーニャによる魂の救済が与えられるのだが、竹内銀次郎には、そんな救いは与えられていない。
竹中は、逮捕され、死刑が確定した後、拘置所で、自身が脅迫した相手である、製靴会社「ナショナル・シューズ」の工場担当常務・権藤金吾(三船敏郎)との面会を望み、それに応じた権藤に対して、「自分はまったく後悔などしていないし、哀れまれるのはごめんだ」と強がりを口にはしたものの、最後は、死刑になることの恐怖も露わに、権藤の目の前で絶叫する。そして、その哀れな姿で、この物語は幕を閉じるのである。
さて、いささか内容に対する考察が先走りすぎたので、ここで「あらすじ」を紹介しておこう。
いつの段階でのものかはわからないが、黒澤明監督は、本作と原作の関係を、次のように証言している。
一方、同じパンフレットに寄せられた、映画評論家・佐藤忠男の(たぶん書き下ろし)「解説」によると、次のようになる。
また、原作からの改変点としては、
ということがあり、結果としては、列車を使う「身代金の受け渡し」シーンへの変更が、「映画」にふさわしいスケールの大きさとダイナミズムを与え、本作を傑作にした大きな要因となっている。
一一だが、この点については、実のところ私自身は、あまり興味がない。
というのも、本作における「身代金受け渡し方法」は、当時としては斬新なものであったのだけれど、その後、現実に模倣犯なども現れ、その結果、ミステリ小説などでの「身代金の受け渡し方法」は、もっと凝ったものが多数考案されることになったため、今の目で本作を見ると、緊迫感のある名シーンになってはいるものの、「身代金の受け渡し方法」それ自体は、驚くほどのものではなくなっているからである。
したがって私としては、ミステリ小説を原作とした「誘拐もの」としての「筋」や「仕掛け」的な部分にはあまり興味はなく、あくまでも「黒澤が、原作を改変・追加してまで描こうとしたもの」の方にこそ、興味があるのだ。
実際、黒澤自身としても、「筋」そのものへの興味よりも、「それ以外のオリジナルの部分」にこそ強いこだわりがあったからこそ、
という言い方になったのではないだろうか。そしてさらに、
という「問題意識」の強調も、事実それはそれとしてあったのかもしれないが、しかし、本作公開後に模倣犯が続発したことに対する「負い目」的なものが少なからずあったためなのではないか、とも考えられる。
つまり、黒澤としては「われわれがこの作品を作ったから、このような事件が増えたということではなく、むしろ私は誘拐罪の刑罰の軽さに対する問題意識があって本作を作り、その結果として法令が改正されるに至ったのだ」と、そのように考えたから、「初めから問題意識があった」というような言い方になったのではないか、ということだ。
したがって、私の推理するところでは、黒澤の上のコメントは、誘拐罪の改正がなされた後で、黒澤の記憶が過去に遡って改変された結果、あのようなコメントになったのではないか、ということである。
だが、無論これは、黒澤を責めて言うのではない。
彼としては、純粋に「誘拐サスペンスもの」として面白いものに仕上げようとあれこれ工夫した結果が、模倣犯を多発させるという「望まない結果」を招いてしまったので、そうしたジレンマから、無意識に「観念的自己回復」をしたのだろうと、そのように私は読んだのだ。
言い換えれば、「前々から、誘拐罪の罰則が軽いと思っていた」というのは、いささか出来すぎではないかと、感じられたもしたのである。
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ともあれ、本作『天国と地獄』は、『キングの身代金』に『罪と罰』を重ねて、テーマを『罪と罰』の「人間にとっての、罪と罰とは何なのか?」という、いささか「抽象的・哲学的」な問題に対し、もう少し「社会性」や「リアリティ」を持たせようとした結果、テーマを「人間にとって、天国と地獄(幸不幸)とは何か?」というふうにズラしたのが本作だと、そう考えれば、わかりやすいのではないだろうか。
『罪と罰』の場合、「強欲な金貸し老婆と貧しい学生」という「貧富の問題」はあるにせよ、テーマの中心は「貧しき者の正義という動機は、殺人という罪をも贖いうるものなのか」という、あくまでも「抽象的・観念的」なものであった。
そして、そんな『罪と罰』の主人公ラスコーリニコフが、いささか「抽象的にすぎる人物」だったとしても、それがあまり問題にならないのは、そもそもこの作品のテーマ自体が、キリスト教的な「魂の救済」という、徹底的に「抽象的」なものだったから、そこで「テーマと人物設定」の統一性が担保されて、読者に違和感を与えなかったのではないだろうか。
ところが、本作『天国と地獄』の場合「貧富の差」というものが、「高度経済成長期の日本」という「リアル」ともリンクして、きわめて「社会問題」的にリアルなものとして描かれてしまった。
そのため、「貧しい医学生」竹内銀次郎という人物の持つ「ラスコーリニコフ的な抽象性」は、今ひとつ説得力を持たず、一種の「実存主義的不条理劇」、つまりカミュの『異邦人』における殺人犯の口のした動機「太陽がまぶしかったから」にも似た、「腑に落ちなさ」を、見る者に残すものとなってしまったのではないだろうか。
またこの点は、ドラマ内的には「顔を隠す」という意味はあったにせよ、竹内が外出時にはサングラスを常用して、可能なかぎり目を見せないようにしていた(演出されていた)点でも、その「内面性の窺い知れなさ」は、黒澤自身にも意識されていたものと思われる。
つまり、黒澤としては、「リアルな『罪と罰』」的な味を加えようとして、そんな「リアル」と「『罪と罰』の抽象性」が齟齬をきたしてしまった、ということなのではないだろうか。
また、その結果として、犯人の竹内は、最後まで「金持ちを恨んでいるのはわかるけど、どうしてあそこまで?」と観客に思わせてしまうような、「何を考えているのか、今ひとつ理解に苦しむ人物」造形になってしまったのではなかったか。
前述のとおり、本作のラストは、「財産を捨ててでも、他人の子供を救うことを選んだ、権藤金吾」と「金持ちを妬み、完全犯罪を目論んで失敗した、竹内銀次郎」の、「拘置所での面会による対決」において、実質的に竹内が自らの敗北を認める絶叫で終わっている。
だが、シナリオ段階では、そのあと権藤と(拘置所に付き添ってきた捜査主任である)戸倉警部の二人が、拘置所を去っていくところで終わることになっていた。
それがカットされて、竹内の絶叫で幕を閉じることになったわけなのだが、こうした変更も、黒澤の、竹内銀次郎「理解」の迷いに発するものだったのではなかったろうか。
つまり、黒澤としては、最後の最後まで、竹内銀次郎の「動機のリアリティ」を掴みきれず、物語の決着の付け方に苦慮していたのだが、面会シーンでの竹内銀次郎役の山崎努の熱演と、特に最後の「迫力のある絶叫」によって、言うなれば「強引な力押し」で、物語の幕を下ろしたのではないか。
竹内が絶叫したので、拘置所職員2名が竹内を面会室から連れ出すと同時に、権藤と竹内を隔てていた面会室の窓に、ビシャっとシャッターが降りるのと同じような、いささか強引な「幕引き」だったとも言えるのではなかったか。
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そんなわけで、本作についての私の評価は、「刑事もの」「誘拐もの」の「エンタメ作品」としては十分に楽しませてもらったものの、黒澤が込めようとしていた「天国と地獄」のテーマは、竹内銀次郎の造形が曖昧であったために、今ひとつ成功していなかったのではないかと思う。
ただ、本作に描かれる、人間にとっての「天国と地獄」とは、「社会的・経済的な地位に、比例即応するものではない」という、いかにも黒澤らしい「庶民の側に寄り添ったヒューマニズム」であったことは確かだろう。
しかしながら、その「弱者」であったはずの竹内銀次郎が、「子供という弱者」を狙った犯罪を犯した段階で、彼の「正義」は、すでに破綻していたと言えるだろう。
つまり、「被差別者」であるならば、「何をしても許される」というわけではない、ということだ。
だからこそ彼は、相応に断罪されねばならず、同情を惹くことも叶わなかった。
まただからこそ、「哀れみなどいらない」と、そう強がるしかなかったのではないか。
そしてこれは、「社会的弱者」としての「少数民族」「貧乏人」「女性」などなどについても、基本的には同じことであろう。
彼ら彼女らが、その「社会背景」や「権力関係」において犯罪を犯す場合、そこには「考慮されるべき点(情状)」が多々あるにしても、それだけで、その行為が「すべて免責されるわけではない」ということである。
つまり、この書評の例のように、「男性が女性をクズ呼ばわりする」のは、その「社会的な権力関係」における「男性の優位性」にあぐらをかいてのものだから「問答無用に許されない」が、「女性が男性をクズ呼ばわりする」場合は、その背景にある「権力関係」に注目して、それが「社会的弱者」としての「止むに止まれぬ行為」だったのではないか、といった「配慮」が是非とも必要だ。一一というような考え方は、書評子の指摘を待つまでもなく、もはや「常識」に類する話ではあろう。
だが、問題は、考慮されるべき「権力関係」とは、なにも「男性社会だから」といったこと「ひとつだけではない」という現実である。
例えば、「男女(性別)」に限らず「年齢」「職業」「経済状況(貧富)」「知名度」「社会的な肩書き(階級)」等々も、すべて考慮の対象としなければならない「権力関係」なのである。
したがって、彼や彼女の犯した「罪」について考慮されるべき「背景」として、当然「権力関係」の問題があるにせよ、考慮されるべきそれは、決して「単純・単相的もの」ではなく「複雑・多層的なもの」だ、ということをも、決して忘れてはならない。
それはちょうど、本作『天国と地獄』の犯人である竹内銀次郎が、「貧乏人という弱者」ではあったけれども、その一方で「子供の対する大人という強者」であったがゆえに、その犯行は、完全に「免責されうるものではなかった」というのと同じことである。
本作『天国と地獄』が、どこかすっきりしない作品になってしまった原因は、そんなリアルにおける「多層性」を、「天国と地獄」という「両極二層性」の図式に還元してしまったことによるものだったのではなかったか。
「現実」とは、そう単純に「図式化」できるものではない、ということである。
(2024年10月6日)
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