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黒澤明監督 『天国と地獄』 : 善と悪と『罪と罰』

映画評:黒澤明監督『天国と地獄』(1963年)

エド・マクベイン「87分署シリーズ」の1作『キングの身代金』を原作として、独自の工夫が凝らされた好編。

私は原作を読んでいないので、正確なところは言えないが、そもそも「87分署シリーズ」が「いつもの刑事たちが、地元の街で発生する各種犯罪に立ち向かう」という、日本の刑事ものテレビドラマと同工のもの、と言うか、それに大きな影響を与えたシリーズ小説なので、本作の原作となる『キングの身代金』もまた、基本的には、子供の営利目的誘拐事件を解決したところで「めでたしめでたし」となる、比較的シンプルな作品のようだ。

言い換えれば、本作『天国と地獄』は、そうした「シンプルな原作」に対し、「人間的な苦悩」を生み出すものとしての「天国と地獄」、つまり「幸福と不幸」という問題を付け加えた作品だとも言えよう。

『天国と地獄』の「Wikipedia」に、

『(※ 誘拐犯に身代金を要求される被害者である)原作のダグラス・キングと異なり、権藤(※ 『天国と地獄』の権藤金吾)は作中でより苦悩する。犯人はより凶悪で、インテリの人物像として設定され、当時は新人であった山崎努が抜擢された。こうした人物設定には、読書家の黒澤が心酔していたというドストエフスキーからの影響があり、善悪の二極対立があると指摘されている。また、原作では現金受け渡しの際に犯人が逮捕されて終わり、映画では密室劇として描かれているが、後半には、誘拐に対する黒澤の怒りを代弁する人物として仲代達矢の演じる戸倉警部が逃亡した犯人を追い詰めていくオリジナルのサスペンス劇が展開されている。』

とあるとおり、ドストエフスキー『白痴』映画化している黒澤らしく、本作には『罪と罰』の影響が、ハッキリと窺える。

周知のとおり『罪と罰』は、次のような作品だ。

『主人公である貧しい元大学生ラスコーリニコフは、頭脳明晰ではあるが「一つの微細な罪悪は、百の善行に償われる」「選ばれた非凡人は、新たな世の中の成長のためなら、社会道徳を踏み外す権利を持つ」という独自の犯罪理論を持つ青年である。

主人公は、金貸しの強欲狡猾な老婆を殺害し、奪った金で世の中のために善行をしようと企てるも、殺害の現場に偶然居合わせた老婆の義妹まで殺害してしまう。この思いがけぬ殺人に、ラスコーリニコフの罪の意識が増長し、苦悩する。

しかし、ラスコーリニコフよりも惨憺たる生活を送る娼婦ソーニャの、家族のためにつくす徹底された自己犠牲の生き方に心をうたれ、最後には自首する。人間回復への強烈な願望を訴えたヒューマニズムが描かれた小説である。』

(Wikipedia「罪と罰」

つまり、本作『天国と地獄』の犯人である竹内銀次郎山崎努)には、明らかにラスコーリニコフの影響が見られるのだ。

(ニヤつきながら面会室に現れた竹内銀次郎)

もちろん、ラスコーリニコフの場合は、最後にソーニャによる魂の救済が与えられるのだが、竹内銀次郎には、そんな救いは与えられていない。

竹中は、逮捕され、死刑が確定した後、拘置所で、自身が脅迫した相手である、製靴会社「ナショナル・シューズ」の工場担当常務・権藤金吾三船敏郎)との面会を望み、それに応じた権藤に対して、「自分はまったく後悔などしていないし、哀れまれるのはごめんだ」と強がりを口にはしたものの、最後は、死刑になることの恐怖も露わに、権藤の目の前で絶叫する。そして、その哀れな姿で、この物語は幕を閉じるのである。

(最後は、金網にしがみついて絶叫する)

さて、いささか内容に対する考察が先走りすぎたので、ここで「あらすじ」を紹介しておこう。

『横浜の製靴会社『ナショナル・シューズ』社の常務・権藤金吾の元に、「子供を攫った」という男からの電話が入る。そこに息子の純が現れ、いたずらと思っていると住み込み運転手である青木の息子・進一がいない。誘拐犯は子供を間違えたのだが、そのまま身代金3000万円を権藤に要求する。

デパートの配送員に扮した刑事たちが到着する。妻や青木は身代金の支払いを権藤に懇願するが、権藤にはそれができない事情があった。権藤は密かに自宅を抵当に入れてまで自社株を買占め、近く開かれる株主総会で経営の実権を手に入れようと計画を進めていた。翌日までに大阪へ5000万円送金しなければ必要としている株が揃わず、地位も財産も、すべて失うことになる。権藤は誘拐犯の要求を無視しようとするが、その逡巡を見透かした秘書に裏切られたため、一転、身代金を払うことを決意する。

権藤は3000万円を入れた鞄を持って、犯人が指定した特急こだまに乗り込む。が、同乗した刑事が見たところ車内に子供はいない。すると電話がかかり、犯人から「酒匂川の鉄橋が過ぎたところで、身代金が入ったカバンを窓から投げ落とせ」と指示される。特急の窓は開かないと刑事が驚くも、洗面所の窓が、犯人の指定した鞄の厚み7センチだけ開くのだった。権藤は指示に従い、その後進一は無事に解放されたものの、身代金は奪われ犯人も逃走してしまう。

戸倉警部率いる捜査陣は、進一の証言や目撃情報、電話の録音などを頼りに捜査を進め、進一が捕らわれていた犯人のアジトを見つけ出すが、そこにいた共犯と思しき男女はすでにヘロイン中毒で死亡していた。これを主犯による口封じと推理した戸倉は、新聞記者に協力を頼み共犯者の死を伏せ、身代金として番号を控えていた札が市場で見つかったという嘘の情報を流す。新聞記事を見た主犯は身代金受渡し用のかばんを焼却処分するが、カバンは燃やすと牡丹色の煙が発する仕掛けが施されており[、捜査陣はそこから主犯が権藤邸の近所の下宿に住むインターンの竹内銀次郎という男であることを突き止める。

竹内の犯罪に憤る戸倉は、確実に死刑にするためにあえて竹内を泳がせる。竹内は横浜の麻薬中毒者の巣窟で、純度の高い麻薬使用によるショック死の効果を実験したのち、生きていると思った共犯者を殺しに来たところを逮捕される。かくして事件は終結し権藤の元に身代金は戻ったが、一足遅く自宅が抵当に入ってしまうのだった。

後日、竹内の死刑が確定。権藤は竹内の希望により面会する。最初こそ不敵な笑みを浮かべながら語る竹内だったが、権藤は既に新たな職を得て再起を図っていると語る。やがて竹内は彼が天国、自分が地獄にいたという恨みを語ったのち、突然金網に掴みかかり、絶叫する。竹内は刑務官に取り押さえられ、2人の間にシャッターが下ろされる。』

(Wikipedia「天国と地獄」

いつの段階でのものかはわからないが、黒澤明監督は、本作と原作の関係を、次のように証言している。

『エド・マクベインの小説はほんの一部分を借りただけです。
誰をさらおうとも脅迫は成り立つ、というあの思いつき。あれがすばらしい着眼だったので、そこのとこだけもらったんです。
誘拐罪というのは、日本では実に罪が軽いんですよね。
事実、こんなことで、もし(※ 自分の)子供が誘揚されたらどうしょうか、という気持はそれまでも多分に持っていたところへあれを読んだものだから、一気に作りたくなった。』

(東宝DVD付録パンフレットより)

一方、同じパンフレットに寄せられた、映画評論家・佐藤忠男の(たぶん書き下ろし)「解説」によると、次のようになる。

『 原作はアメリカのミステリー作家エド・マクベインが一九五九年に発表した小説「キングの身代金」King's Ransomである。製靴会社の重役であるキングという男が、会社の経営をめぐって同僚と争って、のるかそるかというとき、とつぜん自分の自動車の運転手の息子が誘拐される。犯人はキングの息子と間違えて誘拐したのだが、間違えてもかまわないとキングに身代金を要求してくる。キングはいまの会社での立場を棒にふってまで運転手の息子のために身代金を払うべきかどうか決断を迫られて苦悩する。
 この大筋はだいたい原作から得ている。映画の権藤がキングである。しかし、狡猾な職業的な犯罪者の犯人を、金持ちに偏執的な憎悪を持つインテリ青年に変えたこと、これを捜査する著部を正義感と使命感の権化のような強い性格にしたこと、そして身代金の受け渡しを自動車から落すのではなくて特急の列車からに変えたこと、さらにいったん捜査網に入ってきた犯人を警部がわざと泳がせて、誘拐だけではたいした罪にならない彼をもっと重い犯罪に追いこんでいって、犯人逮捕までに二重、三重のサスペンスを盛りあげたこと、その過程で文字どおり地獄のような悲惨なドヤ街を描いたこと、さいごに、地位をなげうって人道を貫ぬいた権藤と、愚かな反抗心で道を誤った犯人との人格をかけたような対決の場面を設けたこと、などは黒澤明、久板栄二郎小国英雄菊島隆三の脚本チームの創作である。
 この脚本によってストーリーは黒澤明流にぐっと劇的葛藤と道徳的葛藤の強いものになり、見世場の多いスケールの大きなものになった。』

また、原作からの改変点としては、

『原作では、身代金を持って移動中の被害者と犯人との接触は自動車電話を使う設定だった。しかし、当時の日本では自動車電話が実用化されていなかったため、「電話を備えた陸上交通機関」であった「こだま」を利用することで原作の設定を巧みに換骨奪胎した(当時、日本で列車電話を備えていたのは、東海道本線の電車特急と近鉄特急だけであった)。』

(現在の新幹線ではなく、在来線の特急「こだま」)

ということがあり、結果としては、列車を使う「身代金の受け渡し」シーンへの変更が、「映画」にふさわしいスケールの大きさとダイナミズムを与え、本作を傑作にした大きな要因となっている。

(堤防に立たせた子供を特急列車の窓から生存確認させた上で、身代金の入ったバッグを投擲させる。子供は無事に帰ってきた)

一一だが、この点については、実のところ私自身は、あまり興味がない。

というのも、本作における「身代金受け渡し方法」は、当時としては斬新なものであったのだけれど、その後、現実に模倣犯なども現れ、その結果、ミステリ小説などでの「身代金の受け渡し方法」は、もっと凝ったものが多数考案されることになったため、今の目で本作を見ると、緊迫感のある名シーンになってはいるものの、「身代金の受け渡し方法」それ自体は、驚くほどのものではなくなっているからである。

したがって私としては、ミステリ小説を原作とした「誘拐もの」としての「筋」や「仕掛け」的な部分にはあまり興味はなく、あくまでも「黒澤が、原作を改変・追加してまで描こうとしたもの」の方にこそ、興味があるのだ。

実際、黒澤自身としても、「筋」そのものへの興味よりも、「それ以外のオリジナルの部分」にこそ強いこだわりがあったからこそ、

『エド・マクベインの小説はほんの一部分を借りただけです。
誰をさらおうとも脅迫は成り立つ、というあの思いつき。
あれがすばらしい着眼だったので、そこのとこだけもらったんです。』

という言い方になったのではないだろうか。そしてさらに、

『誘拐罪というのは、日本では実に罪が軽いんですよね。
事実、こんなことで、もし子供が誘揚されたらどうしょうか、という気持はそれまでも多分に持っていたところへあれを読んだものだから、一気に作りたくなった。』

という「問題意識」の強調も、事実それはそれとしてあったのかもしれないが、しかし、本作公開後に模倣犯が続発したことに対する「負い目」的なものが少なからずあったためなのではないか、とも考えられる。

『映画は興行的には成功を収めたものの、公開された3月以降、吉展ちゃん誘拐殺人事件など都内を中心に誘拐事件が多発した。映画の公開は中止されなかったが、国会でも問題として取り上げられ、1964年の刑法一部改正(「身代金目的の略取(無期または3年以上の懲役)」を追加)のきっかけになった。』

(Wikipedia「天国と地獄」

『この映画で用いられた「走っている電車等から現金等を落とす」という手法は、1955年の内川清一郎監督の『悪魔の囁き』のなかで使われたものであるが、この後のフィクション作品だけでなく、現実の現金受渡し目的の犯罪で数多く模倣されている。1963年9月の草加次郎事件、1965年の新潟デザイナー誘拐殺人事件、1984年のグリコ・森永事件、1993年の甲府信金OL誘拐殺人事件、2002年の新城市会社役員誘拐殺人事件、2004年の大阪パチンコ店部長誘拐事件などの例がある。手法の模倣ではないが、映画の影響を受けて身代金誘拐に及んだ者もおり、1963年の吉展ちゃん誘拐殺人事件、1980年の名古屋女子大生誘拐殺人事件などの例がある。』

(Wikipedia「天国と地獄」

つまり、黒澤としては「われわれがこの作品を作ったから、このような事件が増えたということではなく、むしろ私は誘拐罪の刑罰の軽さに対する問題意識があって本作を作り、その結果として法令が改正されるに至ったのだ」と、そのように考えたから、「初めから問題意識があった」というような言い方になったのではないか、ということだ。

したがって、私の推理するところでは、黒澤の上のコメントは、誘拐罪の改正がなされた後で、黒澤の記憶が過去に遡って改変された結果、あのようなコメントになったのではないか、ということである。

(お馴染みの、脅迫電話の傍聴シーン)

だが、無論これは、黒澤を責めて言うのではない。
彼としては、純粋に「誘拐サスペンスもの」として面白いものに仕上げようとあれこれ工夫した結果が、模倣犯を多発させるという「望まない結果」を招いてしまったので、そうしたジレンマから、無意識に「観念的自己回復」をしたのだろうと、そのように私は読んだのだ。
言い換えれば、「前々から、誘拐罪の罰則が軽いと思っていた」というのは、いささか出来すぎではないかと、感じられたもしたのである。

 ○ ○ ○

ともあれ、本作『天国と地獄』は、『キングの身代金』に『罪と罰』を重ねて、テーマを『罪と罰』の「人間にとっての、罪と罰とは何なのか?」という、いささか「抽象的・哲学的」な問題に対し、もう少し「社会性」や「リアリティ」を持たせようとした結果、テーマを「人間にとって、天国と地獄(幸不幸)とは何か?」というふうにズラしたのが本作だと、そう考えれば、わかりやすいのではないだろうか。

『罪と罰』の場合、「強欲な金貸し老婆と貧しい学生」という「貧富の問題」はあるにせよ、テーマの中心は「貧しき者の正義という動機は、殺人という罪をも贖いうるものなのか」という、あくまでも「抽象的・観念的」なものであった。
そして、そんな『罪と罰』の主人公ラスコーリニコフが、いささか「抽象的にすぎる人物」だったとしても、それがあまり問題にならないのは、そもそもこの作品のテーマ自体が、キリスト教的な「魂の救済」という、徹底的に「抽象的」なものだったから、そこで「テーマと人物設定」の統一性が担保されて、読者に違和感を与えなかったのではないだろうか。

ところが、本作『天国と地獄』の場合「貧富の差」というものが、高度経済成長期の日本」という「リアル」ともリンクして、きわめて「社会問題」的にリアルなものとして描かれてしまった。

そのため、「貧しい医学生」竹内銀次郎という人物の持つ「ラスコーリニコフ的な抽象性」は、今ひとつ説得力を持たず、一種の「実存主義的不条理劇」、つまりカミュ『異邦人』における殺人犯の口のした動機「太陽がまぶしかったから」にも似た、「腑に落ちなさ」を、見る者に残すものとなってしまったのではないだろうか。

またこの点は、ドラマ内的には「顔を隠す」という意味はあったにせよ、竹内が外出時にはサングラスを常用して、可能なかぎり目を見せないようにしていた(演出されていた)点でも、その「内面性の窺い知れなさ」は、黒澤自身にも意識されていたものと思われる。

(医学生である竹内は、覚醒中毒者2人を共犯として使い、事件後、純度の高い覚醒剤を与えることで、ショック死による事故死に見せかけたつもりであったが、アリバイ工作のため共犯らのショック死の現場には立ち会ってはいなかった。そこで警察がその死亡を隠して泳がせると、竹内は殺害方法の有効性を確認すべく、新たに覚醒剤中毒者を探して、これに実験台にして殺害してしまう)

つまり、黒澤としては、「リアルな『罪と罰』」的な味を加えようとして、そんな「リアル」と「『罪と罰』の抽象性」が齟齬をきたしてしまった、ということなのではないだろうか。

また、その結果として、犯人の竹内は、最後まで「金持ちを恨んでいるのはわかるけど、どうしてあそこまで?」と観客に思わせてしまうような、「何を考えているのか、今ひとつ理解に苦しむ人物」造形になってしまったのではなかったか。

前述のとおり、本作のラストは、「財産を捨ててでも、他人の子供を救うことを選んだ、権藤金吾」と「金持ちを妬み、完全犯罪を目論んで失敗した、竹内銀次郎」の、「拘置所での面会による対決」において、実質的に竹内が自らの敗北を認める絶叫で終わっている。

だが、シナリオ段階では、そのあと権藤と(拘置所に付き添ってきた捜査主任である)戸倉警部の二人が、拘置所を去っていくところで終わることになっていた。
それがカットされて、竹内の絶叫で幕を閉じることになったわけなのだが、こうした変更も、黒澤の、竹内銀次郎「理解」の迷いに発するものだったのではなかったろうか。

(カットされたラストシーン)

つまり、黒澤としては、最後の最後まで、竹内銀次郎の「動機のリアリティ」を掴みきれず、物語の決着の付け方に苦慮していたのだが、面会シーンでの竹内銀次郎役の山崎努の熱演と、特に最後の「迫力のある絶叫」によって、言うなれば「強引な力押し」で、物語の幕を下ろしたのではないか。
竹内が絶叫したので、拘置所職員2名が竹内を面会室から連れ出すと同時に、権藤と竹内を隔てていた面会室の窓に、ビシャっとシャッターが降りるのと同じような、いささか強引な「幕引き」だったとも言えるのではなかったか。

 ○ ○ ○

そんなわけで、本作についての私の評価は、「刑事もの」「誘拐もの」の「エンタメ作品」としては十分に楽しませてもらったものの、黒澤が込めようとしていた「天国と地獄」のテーマは、竹内銀次郎の造形が曖昧であったために、今ひとつ成功していなかったのではないかと思う。

ただ、本作に描かれる、人間にとっての「天国と地獄」とは、「社会的・経済的な地位に、比例即応するものではない」という、いかにも黒澤らしい「庶民の側に寄り添ったヒューマニズム」であったことは確かだろう。

しかしながら、その「弱者」であったはずの竹内銀次郎が、「子供という弱者」を狙った犯罪を犯した段階で、彼の「正義」は、すでに破綻していたと言えるだろう。

つまり、「被差別者」であるならば、「何をしても許される」というわけではない、ということだ。

だからこそ彼は、相応に断罪されねばならず、同情を惹くことも叶わなかった。
まただからこそ、「哀れみなどいらない」と、そう強がるしかなかったのではないか。

そしてこれは、「社会的弱者」としての「少数民族」「貧乏人」「女性」などなどについても、基本的には同じことであろう。

彼ら彼女らが、その「社会背景」や「権力関係」において犯罪を犯す場合、そこには「考慮されるべき点(情状)」が多々あるにしても、それだけで、その行為が「すべて免責されるわけではない」ということである。

書評『男はクズと言ったら性差別になるのか』アリアン・シャフヴィシ著

「不平等を考える良い手引き」
 2024年9月28日 2:00
差別の問題を考える時にまず頭に置かなければならないのは、社会における権力関係で一般的に優位な立場にあるのはどちらか、ということだ。たとえば女性より男性のほうが、少数民族よりも多数派の民族のほうが、同性愛者よりも異性愛者のほうが優位な立場にあることが多い。これを頭に入れずに差別を考えると、混乱したり、おかしな結論が出たり、場合によっては差別の存在そのものを否定してしまったりするようなことにつながり(以下略)』

(「日本経済新聞」掲載の、北村紗衣の書評より)

つまり、この書評の例のように、「男性が女性をクズ呼ばわりする」のは、その「社会的な権力関係」における「男性の優位性」にあぐらをかいてのものだから「問答無用に許されない」が、「女性が男性をクズ呼ばわりする」場合は、その背景にある「権力関係」に注目して、それが「社会的弱者」としての「止むに止まれぬ行為」だったのではないか、といった「配慮」が是非とも必要だ。一一というような考え方は、書評子の指摘を待つまでもなく、もはや「常識」に類する話ではあろう。

だが、問題は、考慮されるべき「権力関係」とは、なにも「男性社会だから」といったこと「ひとつだけではない」という現実である。

(変装をして竹内を尾行する、戸倉警部以下の警視庁捜査1課の面々。
「権力」と言えば「国家権力」だという発想は、「政治的」にすぎよう。「権力」とは、あらゆる社会的な人間関係に存するものと認識すべきである。あらゆる人が、多かれ少なかれ「権力主体」なのである)

例えば、「男女(性別)」に限らず「年齢」「職業」「経済状況(貧富)」「知名度」「社会的な肩書き(階級)」等々も、すべて考慮の対象としなければならない「権力関係」なのである。

したがって、彼や彼女の犯した「罪」について考慮されるべき「背景」として、当然「権力関係」の問題があるにせよ、考慮されるべきそれは、決して「単純・単相的もの」ではなく「複雑・多層的なもの」だ、ということをも、決して忘れてはならない。

それはちょうど、本作『天国と地獄』の犯人である竹内銀次郎が、「貧乏人という弱者」ではあったけれども、その一方で「子供の対する大人という強者」であったがゆえに、その犯行は、完全に「免責されうるものではなかった」というのと同じことである。

本作『天国と地獄』が、どこかすっきりしない作品になってしまった原因は、そんなリアルにおける「多層性」を、「天国と地獄」という「両極二層性」の図式に還元してしまったことによるものだったのではなかったか。

「現実」とは、そう単純に「図式化」できるものではない、ということである。



(2024年10月6日)


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