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黒澤明監督 『隠し砦の三悪人』 :巨匠の作品だろうと 受賞作だろうと、 凡作は凡作

映画評:黒澤明監督『隠し砦の三悪人』1958年)

『七人の侍』『用心棒』が面白かったので、同じ黒澤監督の娯楽大作として本作にも期待したのだが、まったくの期待外れだった。

本作は、公開当時『興行的に大ヒットし、第9回ベルリン国際映画祭で監督賞と国際映画批評家連盟賞を受賞した。』wiki)作品である。また、評論家からの評価が高いため「娯楽映画の古典」的な位置づけにもなっているようだ。

『配給収入は3億4264万円で、1958年度の邦画配給収入ランキングで5位となるが、東宝配給映画の年間興行成績(58年7月~59年6月)では1位を記録した。第32回キネマ旬報ベスト・テンでは2位に選ばれ、橋本忍が脚本賞を受賞した。さらに第9回ブルーリボン賞の作品賞に加え、第9回ベルリン国際映画祭の監督賞と国際映画批評家連盟賞を受賞した。
キネマ旬報が発表したオールタイム・ベストでは、1999年の「オールタイム・ベスト100 日本映画編」で49位、2009年の「オールタイム・ベスト映画遺産200 日本映画篇」で106位にランクした。
映画批評集積サイトのRotten Tomatoesには33件のレビューがあり、批評家支持率は97%で、平均点は8.48/10、観客支持率は93%となっている。』

(Wikipedia「隠し砦の三悪人」・「評価」より)

だが、端的に言わせてもらえば、このような「数字」や「評価」は、まったく当てにならない。その理由は、

(1)巨匠の作品は、下駄を履かせてもらい、過大評価を受ける。
(2)過大評価を真に受けた一般大衆が、その作品に詰めかけて大ヒットする。
(3)大ヒットした作品は、その結果によって、傑作だという評価が強化される。
(4)それによって、その作品は「傑作」だという評価が定まって、異論を唱えにくくなる。

おおよそ、このようなことだ。

つまり、それほど有名でもない時に作った「正真正銘の傑作」があり、それが高く評価された結果、その監督が、その後にいくつかそれなりによくできた作品を作れば、途端にその監督は「巨匠」に祭り上げられる。これは、なぜか?

それは「巨匠」の作品であれば「間違いなく面白い」という印象を与え、「巨匠の作品」というレッテルは、一般大衆向けには、きわめて宣伝効果が高いからだ。

ならば、「映画賞の受賞」「評論家の評価」は、どうだろうか?

これも「まったく当てにならない」と断じて良い。

まず、映画賞は、どういう「目的」で存在しているのか、それを考えたことのある人が、いったいどれくらいいるだろうか?

もちろん、公式には「優れた作品を顕彰するため」ということが言われる。
しかし、では「優れた作品が無ければ、受賞作なし」にするのかと言えば、そんなことなど「滅多にない」というのは、周知のとおりである。

つまり、「凡作」であったとしても、その年の作品の中で「相対的(比較的)によく出来た作品」なら(ましてそれが巨匠の作品なら)、賞の授けられることが多いのだ。一一これは、なぜだろうか? 

そんなことを続けていれば「賞の権威」が低下して、その信頼性を失ってしまうのではないかと、普通ならそう考えるだろう。
だが、もともと「受賞作だから面白いに違いない」と思い込めるような「見る目のない」人たちが大半なのだから、仮に見て「つまらなかった」と思ったとしても、謙虚な人なら「自分に見る目がなかったのか」と疑って、そうした評価を語らないし、逆に、そうした遠慮が一切なく「つまらなかった!」と声を上げる客の場合は、しかしその多くが、「つまらなさの根拠」を語ることもせず、ただ、自分の意に沿わない作品が一般に高く評価されるのが「気に食わない」という態度で「貶す」だけなので、そうした評価が一般の理解を得ることもない。そしてその結果、「権威主義的な高評価」が、そうした「低評価(否定的評価)」を、「雑音」として完全に打ち消してしまうことになるのである。

では、なぜ「映画賞」は、「本当に優れた作品」だけに与えられるのではなく、「その年の、比較的マシな作品」にまで与えられるのか?

それは「映画賞」の真の目的とは、「優れた作品を顕彰するため」などという「抽象的なもの」ではなく、端的に言えば「映画の宣伝」のためなのだ。
「映画賞」を作って、派手なセレモニーをやって、いくつかの作品を選んで「素晴らしい!」と大宣伝すれば、それを知った人は「そんなに面白いのなら、ちょっと見てみるか」と、こうなるからである。

つまり「映画賞」とは「映画業界あげての、宣伝セレモニー」なのである。

周知のとおり、映画というのは「とても金(制作費)がかかる」ものである。だから、ヒットさせないと「大赤字」を出すことになって、次が作れなくなる。したがって、当然のごとく、嘘に近いまでの「大げさな宣伝」をする。

しかし、多くの作品が「歴史的大傑作あらわる!」「大ヒット上映中!」などと個々に宣伝していれば、さすがに一般客も、そうした宣伝を真に受けなくなってくる。
「また、言ってるよ」「そんな宣伝文句を真に受けたら、すべての作品が大傑作の大ヒットってことになってしまうよ(笑)」ということになってしまうのである。
そして、宣伝の効果がなくなってしまい、映画業界全体としても、その信用を失ってしまうのだ。

だが、それでは、身内どうしの「つぶしあい」による「共倒れ」にしかならない。だからそこは、映画人気を盛り上げるという共通目標を掲げ、「業界」をあげて協力し、「年間ベストワン作品」を決めるお祭り騒ぎをすることで、業界全体を盛り上げようと考えたのだ。
言うまでもなく、過剰宣伝によって共倒れになり、本当に良い作品までが見てもらえない状態になるのは、映画業界内の誰のためにもならないので、せめて良い作品は正しく評価し、それを宣伝してヒットさせようというのが「映画賞」設置の趣旨であり、「撮影賞」だの「音楽賞」だの「外国作品賞」だのといった賞が、やたらと多いのは、受賞作を増やすことで、より多くの作品に興味を持ってもらおうという狙いに他ならない。
また、「主演男優賞」「助演女優賞」といった出演俳優が対象となる賞があるのも、その賞によって「スター」を作り、そのスターの出演作に注目してもらうために他ならないのだ。

(ベルリン映画祭)

では、そういう「受賞作」を選ぶ側はどうなのか?
選考委員は、映画制作サイドの大立者か以前の受賞者である「巨匠」と呼ばれる映画監督などだが、言うまでもなく、これらの人は「映画業界の身内」だから、映画には金がかかり、ひとまず客に来てもらわなければならない、ヒットさせなければならないというのを、我がこととして痛感しているので、本心では「今年は、あまり良いのがないな」と思いながら選んだ作品でも、選考理由を聞かれれば、何としてでも美点をさがし、そこを挙げて「絶賛」して見せるのである。

したがって、こういう「映画制作サイド」の選考委員だけでは「客観性に欠ける」という意見も、やがてはおのずと出てくるから、次は「映画評論家」などが選考委員に入ったりするのだが、彼らも所詮は「映画業界人」であり、映画業界が下火になれば、彼らの仕事も無くなるのだから、基本的には業界を盛り上げる方にしか動かない。
つまり、「可能なかぎり褒める」のであり、仮に「あれもこれも凡作駄作ばかりだ」と思っても、それをそのまま口にすることはない。そんなことをしたら、彼は「業界に貢献する気のない裏切り者」扱いにされて、「干される」のが関の山だろう。
したがって、「評論家」だといっても、「客観的な評価」「正直な評価」を語ることなど、ほぼ皆無なのだ。

では、「映画業界」と直接関係ない、利害関係のない「外部の有識者」を選考委員に招けば、「客観的な評価」「正直な評価」が得られるのかといえば、無論そんなことはない。
彼らも、この機会に、「映画業界」の意向を忖度して、業界が期待するようなことを口にしておけば、またお座敷がかかって、有名監督やスターたちともお近づきになれ、自身の本業の宣伝にもなるのだから、「業界」に迎合するというのは、理の当然なのだ。
無論、中には「へそ曲がり」もいて、馬鹿正直に「あれもこれも凡作駄作」だという人も、ごく稀には出てくるかもしれないが、そんな人は、二度とお呼びがかからないし、次から「外部選考委員」を選ぶ場合には、そういう「馬鹿正直な者はあらかじめ外して、物分かりの良い人を選ぶ」ということになるので、いよいよ「異論」が出ることなどなくなってしまう。
こうしたことは、例えば日本政府の諮問機関である「有識者会議」などに何度も選ばれるような学者は、おおむね「御用学者」だというのと同じことである。

以上のとおりで、「映画賞」というのは、「より多くの映画を、より多くの人に見てもらうための、宣伝イベント」に他ならず、「優れた作品を顕彰するため」というのは、あくまでも「タテマエ」にすぎない。だからこそ、「受賞作なし」は、ごく例外的なものでしかなく、おおよそ、賞の設置されて間のない時期に限られた現象なのだ。
というのも、賞の設置当初は、本気で「優れた作品を顕彰するため」という「タテマエ」を信じている人が相対的に多く、正直に「該当作なし」を出してしまうのだが、それが続くと「何のために賞を設置したのか」という議論が必ず起こってきて、「業界を盛り上げるためには、絶対的な傑作ではなくても、相対的な傑作を顕彰するのも意味があるんじゃないか」という話になり、業界的には「背に腹は代えられない」ということになって、毎年「多数の受賞作」を生み出すことになるのである。

そして、こうしたことは、何も「映画賞」だけの話ではなく、多くの「賞」で言えることだ。つまり「文学賞」でも「美術絵画賞」でも同じことなのだ。
例えば、学校などで与えられる「優秀賞」などだって、「頑張って、良い成績を上げた人の努力を顕彰する」というのは、あくまでも「タテマエ」で、ホンネは「良い成績を上げたら、このようにみんなの前で褒めてもらえて、良い気分になれますよ」ということで、要は勉強意欲を煽るため。
オリンピックの「金メダル」だって、それは同じで、「金メダル」を取れば「国民的スター」になって、テレビにも出演できて、みんなからチヤホヤされるだけではなく、そのおかげで、金を稼げるようになるし、うまくやれば「一生、食いっぱぐれがない」からこそ、みんな、すべてを投げうってまで、スポーツ競技に勤しむのだ。
言い換えれば、「純粋な競技」や「純粋な競技者」というのは、誰にも注目されない競技であり、それをやっている人だけなのである。

そして私の場合は、こうした「現実」を、主に「文学賞」の方で見てきた。

例えば、「ミステリー小説」の世界で、「公募新人賞」としては「江戸川乱歩賞」が最も有名で、その初期には「受賞作なし」が、ままあった。だが、それがやがて無くなってしまっなわけなのだが、その理由とは、勧進元である出版社が「受賞作なし」では、「商品」にならないので、投資する意味がない、となったからである。

また、「受賞作」とするには、あまりにも弱く、「こんな作品を受賞作にしたら、かつての本当に優れた受賞作に失礼だ」という話になっても、それでも「商品」を生み出す必要があるなら、その方便として「大賞受賞作なし」だが「優秀賞受賞作」なんて、紛らわしい「受賞作」を出したりする。
しかし、そうした誤魔化しも、やがては読者から「大賞受賞作じゃないのなら、大したことないんだろう」などと見透かされて「売れない商品」にしかならなくなると、やはり、あくまでも必要なのは「大賞受賞作」であり「優秀賞受賞作」はおまけということになってしまい、その結果「大賞受賞作なし」という事態は無くなってしまうのである。

こうした事態の端的な事例が、次のレビューで紹介した、「第10回 ハヤカワSFコンテスト大賞受賞作」の場合である。

公募新人賞である、この「ハヤカワSFコンテスト大賞受賞作」というのは、「選考委員の全会一致」でなければ出せない、というのが「決まり」になっていた。
だが、この時に最有力候補であった、小川楽喜による最終候補作『標本作家』を、選考委員の一人である、評論家の東浩紀が、一人だけ評価しなかった。
だから、「全会一致」を旨とするこの新人賞ならば、当然「大賞受賞作なし」になって然るべきだったのだが、選考委員たちの「話し合い」が持たれた結果、東浩紀が他の選考委員たちから「説得されて、意見(評価)を引っ込めた」結果、この作品が「大賞受賞作」になったのである。
要は、「日本のSF界の未来のためにも、才能が認められる作家は、現時点で多少の難があっても、積極的に後押ししていくべきだ」ということで、「それなら」と東は妥協したのである。
一一だが、一見聞こえの良いこうした理屈も、所詮、要は「読者不在」の「無責任な推薦・品質保証」でしかないというのは明らかだろう。「全会一致」などという、聞こえの良い「タテマエ」は、あっさりと反故にされ、読者を裏切ったに等しい東浩紀は、それでもなお、今も「思想家」だの「批評家」だのと名乗っていられるのである。

これは、日本の出版界の最大のイベントである、半年に一度の芥川賞直木賞」も同じだ。
日ごろ本を読まない人でも、「芥川賞・直木賞」の名前くらいは知っており、それがニュースにもなって、しきりに宣伝されれば、面白そうだと買ってみるのだが、その結果は「特別おもしろいわけでもない」というのが、通り相場である。
なぜ、そうなるのかと言えば、本物の傑作というのは、年に2冊も3冊も生まれるわけはないからで、あくまでも「相対的によく書けた作品」でしかないものを、出版業界を盛り上げるために、作家や評論家などの業界人が、本音を隠して「褒めまくる」からである。
また、そんなことだからこそ、受賞直後には「大ベストセラー」になった作品でも、5年後10年後まで読み継がれることなど、皆無に等しい。
それこそ、そんなロングセラーの傑作は、5年10年に一度しか生まれてこず、あとの作品は、すべて「古本屋の肥やし」になるのである。
また最近では、エンタメ小説が対象である「直木賞」とは違い、純文学作品を対象とする「芥川賞」の場合だと、新しい「芥川賞作家の賞味期限は、次の受賞作(受賞作家)が登場するまでの半年」だと、受賞者自身の口から、自虐的に語られたりする「現実」もあるのだ。

だが、こうしたことは、「日本の出版界」や「日本の映画界」に限られた話ではないし、「最近の話」ですらない。

つまり、本家アメリカの「アカデミー賞」はもとより、「カンヌ映画祭」であろうと、本作『隠し砦の三悪人』が受賞した「ベルリン映画祭」のであろうと、そこで与えられる「賞」というものは、昔から、そういうものでしかなかったのだ。
要は、「受賞イベント」で、作品に「箔をつけて(権威づけして)」、その「宣伝効果によって、多くの客を呼び込もう、「業界を盛り上げて、みんなで稼ごう」ということでしかないのである。一一だから、業界内部の人間は、それを知っていても、決してその事実を口にはしないのだ。そんなことを口にしたら「業界追放」は、間違いなしだからである。

また、「映画賞」を伴う「映画祭」が大小どんどん増えるのは、要は、できるだけ「身内」に賞を与えたいからに他ならない。「賞が欲しくても、なかなかくれないのなら、いっそ自分たちで賞を作ってしまえ!」というのが、この手の「賞」の本質なのである。

 ○ ○ ○

そんなわけで、本作『隠し砦の三悪人』は、『興行的に大ヒットし、第9回ベルリン国際映画祭で監督賞と国際映画批評家連盟賞を受賞した。』作品だというのは事実だが、覚めた「見る目」を持つ私からすれば、数ある「凡作」のひとつに過ぎない。

その理由を、これから縷々説明していくが、ここまでの「前提的議論」が、そっちこそ重要だとは言え、長くなってしまったので、できるだけ簡単に片付けたいと思う。

まずは、本作の「あらすじ」だ。

『百姓の太平と又七は、褒賞を目当てに山名家と秋月家の戦いに参加したが、何も出来ないまま秋月の城は落ち、山名の捕虜になって焼け落ちた秋月城で埋蔵金探しの苦役をさせられる。夜、捕虜たちが暴動を起こし、それに紛れて二人は脱走する。二人は谷で、薪の中から秋月の紋章が刻まれた金の延べ棒を発見する。そこに屈強な男が現れる。

男の正体は秋月家の侍大将・真壁六郎太で、落城後、大量の金を薪に仕込んで泉に隠し、秋月家の生き残りである雪姫や重臣らとともに、山中の隠し砦に身を潜めていた。秋月家再興のため、同盟国の早川領へ逃げ延びる方法を思案していた六郎太であったが、秋月領と早川領の国境は山名に固められている。しかし太平と又七が口にした、一度敵の山名領に入ってから早川領へ抜けるという脱出法を聞いてこれを実行に移すことと決める。六郎太について隠し砦に行った二人は、そこで女に出会う。六郎太はその女を「俺のものだ」と言うが、その女こそ雪姫だった。彼女の落とした櫛から姫だと目星をつけた又七は、恩賞欲しさに町へ出かけるが、姫はすでに打ち首になったと聞く。しかし、それは雪姫の身代わりとなった妹の小冬だった。

六郎太は、気性の激しい雪姫の正体を百姓二人にも隠し通すために唖(おし)に仕立て、太平と又七を連れて早川領を目指す。彼らが出立した後、重臣らが残る隠し砦は追っ手に攻められて燃え落ちてしまう。最初の関所でさっそく一行は怪しまれるが、六郎太は隠している金を逆に見せて、番卒に突き出す。そして「褒美をくれ」と駄々をこねるうちに、関所を通される。夜、山名の城下町にある木賃宿に泊まり、人買いに売られた百姓娘を見た雪姫は、彼女を買い戻させ仲間に入れる。

道中、六郎太一行を怪しんだ騎馬武者に発見される。六郎太は武者を斬り捨てるうちに、かつての盟友にして宿敵である山名の侍大将・田所兵衛の陣に駆け込んでしまう。二人は槍で果たし合いをし、六郎太は兵衛を打ち負かす。(以下略)』

(Wikipedia「隠し砦の三悪人」・「あらすじ」より)

要は、三船敏郎演ずる「秋月家の侍大将・真壁六郎太」が、百姓姿に身をやつして、姫と財宝を守って敵中を切り抜ける、というお話だ。
つまり、途中で何度も、正体がバレかけ捕まりそうになるが、そのたびに、いろいろ工夫して、その難関をくぐり抜けていく、そんなエピソードの積み重ねによる「すごろく」的な構造の作品だと考えれば良い。
そして、この一行とは、秋月家の再興を担うべく落ち延びた雪姫と、彼女を目的地である同盟国の早川領に送り届けるべく付き従う真壁六郎太、それに「金の延べ棒を仕込んだ薪」を運ばせるために雇った百姓の太平と又七の2人、さらに途中で助けた百姓娘が加わる、ということになる。

(左から、雪姫、真壁六郎太、太平、又七)

で、こうした、物語の構成というのは、次々と降りかかる苦難を、どのようにして切り抜けるのか、そのアイデア勝負が基本となる。

『脚本は案を出した菊島が第1稿を書くことになったが、30枚ぐらいしか書いていない段階で招集がかかり、黒澤、小國英雄橋本忍が加わって4人で共同執筆した。敵中突破などの方法は、黒澤が次々と困難な状況を設定し、その解決方法をみんなで考えながら書き進めた。』

(Wikipedia「隠し砦の三悪人」・「製作」より)

つまり、敵中を少人数で行くという圧倒的な不利な状況の中、苦難を切り抜けてという話なのだから、基本は「知略的アイデア」ということになる。正面切って戦うわけにはいかないから、いかに頭を使って、敵の裏をかき、出し抜くか、そのアイデアの面白さが勝負になるのだが、まず、これが「イマイチ」というか「平凡にご都合主義的」で、「そううまくはいかないよ」程度の「危機回避アイデア」に過ぎないのだ。

次に問題となるのは、こうした話だと、基本は「知略」だから、主演の三船敏郎の「見せ場」が少なくなるし、無理に入れれば、その無理が目立つということにもなり、事実、そうなってしまっている。

三船敏郎という俳優に向いた役柄というのは、基本的には「陽性」のキャラクターだろう。
もちろん、『蜘蛛巣城』のように「陰性」のキャラクターを演じることもあるし、演じられないというわけではないのだが、しかし、三船という俳優の個性が生かせるのは、やはり『用心棒』だとか『七人の侍』でのそれのような「陽性」キャラクターなのではないだろうか。

だが、本作の場合は、「知略型」でなければならないので、どちらかと言えば「陰性」で、普通に作ったのでは、「切った張ったの見せ場」を与えにくい。
それで、襲ってきた敵に逆襲しての「乗馬での斬り合い」だとか、「槍での正々堂々の立ち合い」といったシーンもあるにはあるのだが、前者の「乗馬での斬り合い」は、三船自身が演じて迫力のあるシーンにはなっているものの、顔がハッキリ見えない、動きの激しい、退きのカットだから、スタントマンがやっても良かったものであり、言い換えれば、スタントマンがやっているなら、特に驚くほどでもないといったシーンになっているのだ。つまり、映画そのものとしては、三船自身がやる必要のなかった、話題性だけはあるシーンだということだ。
また、後者のシーンは、立ち合いに変化をつけるために、槍を使うことにしたのだろうが、やっぱり、刀での立ち合いに比べると、槍での立ち合いは迫力に欠けるのである。相手との距離が遠いし、目の前で斬りつけるというのではないから、案外、見た目に地味なのだ。

(本当に、このシーンのすべてを三船が演じていたとすれば、驚くべき身体能力である)
(山名家の家来に発見されて応戦し、逃げ出した相手を追いかけて仕留める六郎太)
(かつての盟友にして宿敵である山名の侍大将・田所兵衛。六郎太に、槍で
の一対一の尋常の勝負をして敗れるが、殺し合いではなかった)

つまり、本作の欠点の、一つ目は、

(1)主演である三船敏郎の魅力を生かせていない。

ということ。

次の欠点は、

(2)「映画の花」となるべき雪姫役が、新人で「大根」だということ。

(この作品を代表する、少々ワンパターンな雪姫の立ち姿。
年配の人は「ゾル大佐か!」と突っ込み、若い人は「白木芽衣子かよ!」と突っ込む)

『ヒロインの雪姫役は、若くてお姫様らしい気品と野性味があるというイメージに合う人物を探すため、全国から4000人もの応募者を集めてオーディションをするが候補者は見つからず、全国の東宝系社員にも探させ、ようやく社員がスカウトした上原美佐が抜擢された。応募者の中には若林映子樋口年子もおり、樋口は本作で百姓娘役に抜擢された。黒澤は上原にエリザベス・テイラーのようなメイクを施そうとしたが、最終的に能面「喝食」の表情に似せるようにした。上原は演技経験のない素人であり、あまり喋らせないようにするために口が利けない設定になっている。』

(Wikipedia「隠し砦の三悪人」・「製作」より)

実際、私が見ても、男まさりの雪姫が男装で登場して、いきなり真壁六郎太を叱りつけるシーンなどは、「男まさり」というより「怒って、怒鳴っているだけ」で、とても好感の持てるものではないし、そもそも「怒鳴っているだけ」の「一本調子」だから、そのセリフ回しが聞くに堪えないのである。
それだけでもう、黒澤監督の苦労は、察するに余りあるものがあったのだ。

(写真なら悪くはないのだが、表情やポージングやセリフの抑揚がワンパターン。)

また、本作のリメイク作品『隠し砦の三悪人 THE LAST PRINCESS』(2008年・樋口真嗣監督)は、サブタイトルに「THE LAST PRINCESS」と入れているとおりで、本来であれば、この『隠し砦の三悪人』の主役は、雪姫なのだ。

(リメイク版)

もちろん、黒澤オリジナル版では、雪姫役は新人俳優だから、「主演」は三船敏郎となってはいるが、本来ならば、三船敏郎は「姫を守るお供」であり、言うなれば「牛若丸弁慶」の役回りなのだ。
だから、弁慶が大太刀回りをするにしても、やはり主役は、雪姫であり、彼女が魅力的でなければならなかった。なのに、その女優が新人とはいえ「大根」だったというのは、致命的な欠点だと言えるだろう。

本来ならば、雪姫は「男まさりの、少年めいた活発な美女」として自由闊達な魅力を見せ、逃げ延びた後のラストでは「美しいお姫様」姿になって登場し、太平と又七の二人をびっくりさせるという、言うなれば「ギャップ萌え」キャラでなければならなかったはずなのだが、新人女優が大根であったために、美人ではあれ、最後まで「気性が荒いだけの変な女」で終わってしまったのである。

(一行が無事早川領に着いて、しばらくして太平と又七が早川のお城に呼び出されてみると)

次に、「お笑い担当」の太平と又七コンビだが、これは「まずまず」といったところ。
本作『隠し砦の三悪人』が紹介される場合、必ずと言っていいほど、ジョージ・ルーカスが、この二人をモデルにして、『スターウォーズ』で、R2-D2C-3PO」のロボット凸凹コンビを生んだ、というエピソードが語られる。
だが、『スターウォーズ』における「R2D2とC3PO」の存在というのは、あくまでも「息抜きのためのお笑い」担当であって、物語の主筋を支えるキャラクターではないのだから、この二人の「楽しさ」がいちばん印象に残るようでは、「冒険活劇」としては、やはり失敗しているとしか言えないのである。
つまり、

(3)太平と又七コンビの好演は光ったものの、そこが注目されるようでは、作品としては弱い。

ということになるのである。

(物語の前半。たまたま拾った薪から金の延べ棒を見つけて驚く、又七と太平。そのあと何度も分け前をめぐって喧嘩しては、その後すべてを失っては仲直りをするというパターンの、お約束ギャクを演ずる)

以上のような、2つまたは3つの「明らかな欠点(弱点)」がある以上を、本作を「傑作」などと評するのは、明らかに誤りである。

言い換えれば、本作を本気で褒めるような者は、「鑑識眼のない権威主義者」に過ぎない。
そういう人は「巨匠の受賞作」なら、ただそれだけで「傑作に見える」ような「アキメクラ」で、まさにそれが「凡庸な大衆」というものなのだが、しかし、その「アキメクラの大衆」の中には、結果責任も含めて、「映画関係者」としての「有名監督」や「映画評論家」なども含めるべきなのだ。

ちなみに、本作の主たる舞台は「隠し砦」ではないし、「三悪人」と呼ぶほどの悪人など、一人も登場しないという事実を、最後に申し添えておこう。
本作は、タイトルのイメージとは、だいぶ中味の違った作品なのである。



(2024年4月7日)

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