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黒澤明監督 『羅生門』 : 「難解」と言う勿れ。

映画評:黒澤明監督『羅生門』1950年・大映)

ベネチア国際映画祭でグランプリを受賞した、黒澤明監督の国際的な出世作である。

先日、スタンリー・キューブリック監督の名作『2001年宇宙の旅』のレビューを書いたのだが、その後、この作品を「難解映画」として紹介しているネット記事を見かけたので、では他にどんな「難解映画」があるのだろうかと気になり、その記事の以前の回をチェックしてみた。すると、その中に黒澤明『羅生門』があったので、「ん?」と引っ掛かってしまった。一一黒澤の『羅生門』は、「難解」なのだろうか?

まず、答から書いてしまうと、黒澤明の映画『羅生門』は、決して「難解」ではない。
では、なぜこの作品が「難解」と呼ばれてしまうのか、という問題について考えるのが本稿の目的である。
しかしながら、映画そのものの出来不出来について論じないのも不親切なので、先にこちらを片付けてしまおう。

本作『羅生門』の何よりの魅力は、役者たちの「演技」である。
要は、役者たちの生き生きとした「演じ分け」を、1本の作品の中でわかりやすく楽しめるというのが、本作最大の魅力なのだ。

(本編そのままではない、スチール写真)

「周知のとおり」と書いても良いと思うが、本作『羅生門』は、芥川龍之介の短編小説「藪の中」に、別の短編「羅生門」のエピソードを加えた作品で、基本的な骨格は「藪の中」の方である。だから「原作」を表記する際には「藪の中」とされる。
ではなぜ、タイトルを「藪の中」とせずに『羅生門』としたのかといえば、黒澤に確認するまでもなく、『藪の中』では、タイトルとしてパッとしないからであろう。なにしろ「薮」である。
こう書くと、私の高校のクラスメイトにも「薮くん」というのがいたから、苗字が「薮」さんには申し訳ないのだけれど、あくまでも「映画タイトル」の話なので、ここは我慢していただきたい。クラスメイトの「薮くん」が嫌なやつだったから、「薮」姓を貶しているというわけではないのだ。
まあ、この文章だけでは、それこそ、私の「真意」も、「藪の中」なのだが……。

それはともかく、映画『羅生門』の骨格となっている、芥川龍之介の「藪の中」は、簡単に言うと、ひとつの殺人事件が起こって、検非違使(平安時代の、裁判官と警察官が合わさったような官職)がその事件関係者を取り調べると、それぞれの言い分自体はいちおう筋の通ったものではあれ、その言い分が、当人の都合に合わせて、見事なまでに食い違っており、事件自体の「真相」は「藪の中」だ、という、そんなお話である。

(いかにも粗野で太々しい盗賊・多襄丸
(お白洲で泣き崩れる真砂

で、こうしたお話というのは、ミステリー小説(推理小説)の世界では、ぜんぜん珍しくはない。
事件関係者というのは、要は「容疑者」でもあるから、自分に都合の良い供述をするため、それぞれの供述が食い違うというのは、いわば「当たり前」の話でしかなく、あくまでも本題は、その「矛盾をいかに読み解いて、真相を明らかにするか」ということになる。
したがって、芥川の「藪の中」の状況も、言うなれば、そうしたものに過ぎない「当たり前」の話だし、言い換えれば、芥川がこの小説で書きたかったのは、ミステリー小説のような「謎解き」ではなく、「知り得ない真相」という、現実にはいくらでも転がっている「認知の闇」であり、それを生み出す「人の心の闇」の方だったのだ。
映画『羅生門』の中でも作中人物が語るように、人間というのは、自己正当化のためには「嘘」をつくものだし、しばしば、自分のついた「嘘」を本気で、真実だと思い込んでしまう(信じてしまう)ものなのだ。そうした人間の「業」のようなものを描くのが、文学者・芥川龍之介の狙いだったのである。

だが、ミステリー小説の場合は、そうした「人間の業」なんてものには興味がなく、あくまでも興味の対象は「謎」であり、その「謎解き」である。
だから、事件関係者の意見は「食い違って当然」で、そうでないと「謎」が発生せず、「謎解き」もできなくなってしまう。そのため、ミステリー小説の関係者は「嘘つき」であることが前提であり、その「嘘」をいかに見破るかが「名探偵」の手腕として問われるところで、昔なら、よく「刑事コロンボ」を引き合いに出して、犯人を引っ掛ける見事な手際などの実例が挙げられたりした(今なら、杉下右京か)。
例えば、ある関係者に対し、事件発生時の状況なりアリバイなりについて、当たり前に詳しく質問する。すると、犯人であるその関係者は、待ってましたとばかりに「完璧に作り上げた嘘」をつく。だから、それだけでは、その「嘘」は突き崩せないのだが、コロンボは、そうした「当たり前の質問」を終えて、帰ろうとした際に、ふと、ついでのような質問を付け加えるのだ。「ああ、そうだ。うちのカミさんもね、テレビが好きでよく視るんですが、コマーシャルになると途端に音量が大きくなるの、あれは困りものですよねえ」などと振ると、その「テレビを視られないはずの犯人」が、尋問が終わって気を抜いていたために、つい「まったくですね。私も、あれが嫌でしてね」などと答えたりするのである。

で、話を戻すと、ミステリー小説の場合「関係者は嘘をつくもの」であり、そのために発生した「謎」を解くのが探偵役の役目なのだが、当たり前に「供述の論理的矛盾を突く」ことで謎を解くだけでは、読者の方も飽きてくる。そこで近年流行っているのが「多重解決」というやつである。
つまり「矛盾した供述」の謎を、「論理的に解いた」かのような「推理」が、複数の探偵役から次々と提出され、どれも同等の「真相」のように見えてしまい、余計に「謎」は深まってしまう、というパターンである。
この後に「本命の名探偵(真打)」が登場して「最終的な真相」を明かす、という作品が多いのだが、中には、それが無いものもある。どれが真相なのかわからないままなのだ。

(崩れかけた羅生門の下で、事件のことが回想として語られる、雨宿りのシーン。言うなれば、物語の「外枠部分」)

で、こうした「結論」を出さない作品を「リドル・ストーリー」というのだが、単純に「関係者の供述が矛盾して、真相が不明」という、芥川の「藪の中」も、「関係者の矛盾した供述の謎を、論理的に解明した推理が幾つも提示される」という「多重解決ミステリ」も、共に「リドル・ストーリー」だと言える。なぜなら後者は、「藪の中」的な「決定不可能性」を、凝って複雑化し「多重化しただけ」だと言えるからである。

言い換えれば、「前座探偵によるいくつかの推理」が開陳されて、再び「真相」が藪の中になった後に、真打の「名探偵」が登場して「最終的な推理」によって真相を解明し、事件を解決したような体裁の物語になっていたとしても、しかし「論理的には」この物語のあとに、さらに別の名探偵が現れて「さらに深い真相」を明らかにしないという保証は、どこにもない。ただ、物語がそこで終わったから、そう見える、というだけ。
つまり、物語を形式的に「決着させる」ことは出来ても、それで「真相」自体に完全な決着がついたという保証は、物語の中では与えられないのだ。
そしてこれが、ミステリー小説の世界で言われるところの「後期クイーン的問題」ということにもなるのである。

ともあれ、そんなわけで、本作映画『羅生門』は、殺人事件関係者が、それぞれの視点からの「回想シーン」として、事件の「(その人なりの)真相」を語るわけで、その事件関係者は限られた3人(または4人)しかいないのに、それぞれの「回想」で描かれるそれぞれの「人物像」がまったく食い違うものになってしまっている。
つまり、映画上での「一人の人物」であっても、演技としては、「視点人物」の「都合」によって、微妙に、あるいは大きく、その「性格」が変わってしまう。同じ人物であっても、「回想シーン」によってキャラクターがガラッと変わってしまい、その変化を役者たちが生き生きと演じ分けて見せるので、役者たちの「演技力」も、目に見えるかたちでわかりやすく楽しめる作品になっているのである。

(相変わらずの怪演ぶりを見せる京マチ子

一一つまり、映画『羅生門』の、中心的な魅力は「役者たちの演技」であり、「リドル・ストーリー」としての「複雑さ」などは、じつのところ、芥川の「藪の中」にも、モデルがあったように、それほど驚くべきことではないのだ。
ただ、映画の歴史は、この映画が作られた当時で、やっと半世紀ほどと、きわめて浅かったために、本格的な「リドル・ストーリー」の作品が、それまで作られていなかったから、当時の映画関係者には「斬新だった」に過ぎないのだ。(だから、今どき驚いているようでは、不勉強と言わざるを得ない。若い人は別にしてだが)

もちろん、映画『羅生門』の魅力は、それのみではなく、黒澤らしい迫力のあるセットだの、凝った「絵作り」だの、「救いのあるラスト」などといったこともあるのだけれど、そうしたことだけなら、黒澤の他の作品でも、他の映画作家の作品でも、容易に見ることは出来るだろう。

だが、『羅生門』の場合は、三船敏郎の演技がとくに素晴らしく、同じ「盗賊・多襄丸」の扮装をしているのに、まったく別人のように見えるところが、いかにも面白いのだ。
それだけ、メリハリをつけやすい役だったとも言えるだろうが、観客が驚くような、新鮮な演じ分けがなされていたというのは事実であり、「意外性」ということで言えば、「事件の真相の意外性」よりも「三船敏郎の演技の意外性」の方が、よほど「驚き」だったのである。

(盗賊・多襄丸らしからぬ、微妙な表情)

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さて、映画『羅生門』という作品が、どういう作品なのかを縷々説明したわけだが、ここまで来れば、この作品が「リドル・ストーリー」であることをもって「難解な作品(難解映画)」だと評することが、いかに「間抜け」なことだかが、お分かりいただけよう。

要は、「リドル・ストーリー」というのは、最初から「特権的な真相=最終的で決定的な真相」を与えられていない作品であり、言うなれば「解くことのできない謎としての作品」なのである。
そして言うまでもなく、「解くことができない(不可能)」というのと「解くことが難しい」というのは、まったく別のことなのだ。

「難解=解くことが難しい」とは、言い換えれば「解き得る(解くことが可能)」というのが前提となっており、その上で「それが、容易ではない」というだけの話なのだ。「容易ではないが、解けないものではない」というのか「難解」なのである。

ところが「リドル・ストーリー」とは、そもそも「正解が存在しない=(構造的に)正解が与えられていない」物語なのだから、これは「解読不可能」だということになる。だから、これを「難解」と表現するのは、「言葉の誤用」なのである。
例えて言えば「抜け道のある袋小路」みたいな、間抜けな表現だということになるのだ。

そんなわけで、「リドル・ストーリーの映画」を「難解映画」と言ってしまうような「安直な言葉遣い」は、多分に「不正確な通例的表現」だということになる。
しかし、にもかかわらず、こうした「通例」を無反省に使っていると、人は「論理的に引っ掛かるべきところに、引っ掛かれなくなってしまう」という問題が出てくる。

「それは難解映画だ」と言われれば、それが「リドル・ストーリー」であるにもかかわらず、その「現実」を見ないで、「正解」が存在するものと思い込んでしまう。ありきたりの「真相究明(単純な謎解き)」の段階で思考が停止してしまって、「解き得ない謎」といった「高次の問題」へと思考の深まることがない。例えばそれは、「無いとは無いだ」で終わってしまって、「無いとは、どういう意味(状態)か」といった、メタレベルの思考ができなくなる。

こうした「思考の退化」をもたらすのが、例えば、「奇跡(奇蹟)」といった言葉だ。
「謎」が存在すれば、人間は、その謎を解こうと頭を使うのが当たり前なのだが、そんな「謎」を「奇跡(奇蹟)」だと呼ぶことで、そこで思考がストップしてしまう。
「なぜ、それが起こったのか」を、論理的に考え読み解こうとはせず、「神のみわざだ」とか「人間には解き得ないものだ」といって、安直に片づけてしまう。だから「馬鹿」になる。

つまり、「難解映画」という表現も、この手のものだということになのだ。
「作品そのもの」を見極めようとはせず、誤って(あるいは、安直に)貼られた「レッテル」にそって、その作品を理解しようとし、それで十分だと思い込んでしまう。

しかしこれは、「血の涙を流すマリア像」という謎の真相を「奇蹟」だと言って済ませているような人たちと同じ「愚かさ」でしかない、ということになる。

たしかに「簡単には解けない謎=作品(難解な作品)」というのは存在するけれども、それに対して「既成のレッテル」を貼り、その「枠内で理解しようとする」ことは、間違いなのだ。
それが、如何に「難解」なものに見えようとも、まずは「対象を正しく観察して」から、その謎の「究極的解明」を目指すことが、人間を理性的な存在たらしめているのである。

映画『羅生門』のラストは、一般には「救いのある、ヒューマニズムあふれるラスト」として評価されているけれども、もっと「深読み」するならば、このラストは「人間の可能性を諦めない」ということを語ったラストだとも言えるだろう。
「人間とは、自分勝手で嘘つきばかりだ、とは言えない。一方で人間とは、無私の善性をも秘めた存在でもある」といった、いささか「薄っぺらい綺麗事」ではなく、もっと抽象化されたテーマとして「人間は、どんな困難な思考にも耐えて、真相を求めていく意志を持った存在である」と、そういう「希望」を最後で語った作品だと理解した方が、よほど「意味」があるのではないだろうか。

(やがて雨が上がり、杣売りの男は捨て子を拾って帰る。無論、赤子は
「希望」と「可能性」の象徴である)



(2024年3月8日)

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