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森田芳光監督 『家族ゲーム』 : 「昭和の家族」のリアル

映画評:森田芳光監督『家族ゲーム』(1982年)

森田芳光監督の代表作と呼ばれる作品である。
テレビで視るのは別にして、もともと私は、映画館で日本映画を見ることは、まずなかった。まして、この映画が公開されたのは、私が社会人になった頃で、本を読むために好きなテレビアニメさえ自制し始めた時期だから、いくら評判がよかろうと、わざわざ日本映画を見にいくような気にはならなかった。
しかしまた、そんな私の耳にさえ届くほど、評判も良ければ話題にもなった作品である。

で、どうしてそれを今ごろ見る気になったかというと、今回は「難解映画シリーズ」の第2弾みたいなものだと言えよう。
では、「難解映画シリーズ」とは何なのかというと、先日ネットで、「難解」だと言われている映画をシリーズで紹介している記事が見つけ、その中にレビューを書いたばかりだったスタンリー・キューブリック監督の『2001年宇宙の旅』もあったので、他にどんなものがあるのかとチェックしてみると、黒澤明監督の『羅生門』や本作『家族ゲーム』が挙がっていた。そして、それがきっかけで、『羅生門』の方はすでにレビューを書いたので、今回は「難解映画シリーズ」の第2弾というわけである。
もっとも、これをシリーズ化するつもりなど、もとよりないのだけれど。

 ○ ○ ○

さて、本作『家族ゲーム』は、1981年の第5回すばる文学賞を受賞した本間洋平同名小説を映画化したもので、同小説は何度かドラマ化もされており、「家族」の問題を扱うのに、ちょうどいい設定の物語だということなのかもしれない。
しかし、言い換えると、設定は同じでも「家族」というものの描き方で、語られるものはガラリと変わってくるだろう。私は原作小説を読んでいないから正確なことは言えないが、本作も、原作小説を下敷きにしつつも、原作に忠実というわけではなさそうである。

本作の内容を簡単に説明すると、集合住宅に住む、サラーリーマンの父、専業主婦の妻、高校1年の兄、中学3年の弟の4人家族。それに新たに雇った、次男のための大学生の家庭教師を加えた5人の、次男の高校受験をめぐる「日常」を描いた、一種のコメディだと言えるだろう。

この作品が「難解」だと言われるのは、これといった「筋の起伏も捻りもオチ」もなく「何が言いたいのかよくわからない」といったふうの作品だからであろう。
だが、本作を虚心に見れば、この作品は「訴えたいものなど無い」というのがわかるはずだ。もとから無いものを探したって、見つかるわけはなく、それを「難解」だというのは馬鹿げている、というのは、『羅生門』のレビューにも書いたとおりだ。

では、この映画は何を描いているのかというと、それは「家族」というよりも、家族を構成する一人一人を描いている。これは、同じように聞こえて、別の話だ。
本作に登場するのは、父親であれ母親であれ、長男であれ次男であれ、「こんな奴、よくいるよなあ」という「ありふれたタイプ」である。ただ、それが、ある意味で「個性的」に見えるのだとしたら、たぶんそれは「時代が変わったから」ではないだろうか。
この家族のメンバーは、それぞれがいかにも「あの時代」の、父親であり、母親であり、長男であり、次男なのだ。

父親は「俺が汗水垂らして働いて、お前らを食わしてやっているんだ」という「家父長意識」を強く持っており、「社会に出て出世するには学歴が必要だ。学生は勉強が本分なんだから、しっかり勉強しろ」というような、今となってはかなり古くて強権的な考えの持ち主であり、母親は「専業主婦」として家庭を守り、子供を育てるのが仕事であり、常に世間に恥じないよう無難に振る舞うことを考えているような、悪い人ではないが、極めて世間の狭い女性だ。また、長男の方は、長男的に癖のない性格だがマイペース。弟の方は、兄との比較で屈折を抱えており、変なこだわりを持って、自分の世界に生きている。また、家庭教師の大学生も、アルバイトとして引き受けた次男の中学生に、スパルタ式で勉強をやらせて成績をあげ、それで稼げれば良いという、それだけの、これも当時としては当たり前の青年。一一要は、全員「ありふれた人たち」であり、ありふれた行動をしているだけ、なのである。

(昭和の妻と夫)
(母と出来の良い長男)

例えば、家庭教師の次男に対するビンタ(平手打ち)や「俺を舐めんじゃねえぞ」なんていう威嚇的なセリフも、当時としては、さほど珍しいものでもないだろう。松田優作が言うから、異様に迫力があるだけなのだ。

(家庭教師のビンタを食らって、鼻を抑える次男。本編中2回ほど殴られるが、リアクション芸的な誇張が感じられる)

ただし、前述のとおり、こんな家族やアルバイト家庭教師が「ありふれた存在」だったのは、「あの当時」つまり1970代半ばから1980年代半ばの時期であり、「現在」の話ではあり得ない。

現在では、父親は「外へ出て稼いでいるから、家長だ」などと威張ることは許されないし、そのような意識は、すでに「常識的なもの」ではなくなった。家事も子育ても、やって当たり前なのが、今の父親である。
同様、母親も「家庭」のことだけやっていればそれで済むという時代ではなくなった。そもそも「専業主婦」という身分は、今や希少なものとなってしまった。
息子たちも息子たちで、かの時代には「携帯電話」が無かったから、現在のような「常時接続」の人間関係とは違い、例えば、いじめに類することがあっても、それでも時間的空間的に、そこから離れる「余白」が残されていたため、どこか「マイペース」でいることができた。もちろん、家庭教師によるビンタなど、今では考えられない話だ。

このように見ていくと、この作品についてよく言われているらしい「それぞれが、自分のことしか考えていない」という趣旨の「感想」も、ある意味では「今から見ると」の感想なのだ。たぶん当時は、こういうのが当たり前だった。今に比べればだが、良かれ悪しかれ自分のことを考えているだけで済んだ時代なのだ。

だが、そんな「当たり前」を描いているにも関わらず、公開当時としてもこの映画が「個性的」であり得たのは、森田芳光監督が、こうした当時としての「当たり前」に納得しておらず、「憎しみ」すら抱いていたからではないだろうか。
「こんなの当たり前だろう」ということでスルーすることなどできず、森田監督は、こういう、自分のことしか考えていないのに「自分だけは全体を見渡せている」みたいな「愚かな独りよがり」に、相当苛立った人だったのではなかったか。
だから「当たり前の人間(家族像)」を描いているにも関わらず、それに対する、ドス黒い悪意が、(ユーモアでコーティングされつつも)滲み出しており、そこが映画としての「個性」であり「迫力」にもなっていたのではないかと感じられる。

したがって、本作は、「筋」で楽しませるようなものでもなければ、特に何か「訴えたいこと」があるわけではない。
ただ、自分が、嫌で嫌でしかたなかった「家族の面々」的なものを、悪意を込めて「リアルに描きたかっただけ」なのであろう。

実際、本作についてというわけではないけれども、「Wikipedia(森田芳光)」によると、森田監督は『母親の実家のある神奈川県茅ヶ崎市にて生まれ、東京都渋谷区円山町で育つ。実家が料亭で、芸者や客を見ていて、子ども心に「人間っていうのは体裁ばかりなんだ」と思っていたという。』人だから、「家族」に限らず、そういう「実のない人間」に嫌悪感を抱いていた、というのはほぼ間違いないことなのだ。
また、本作に関する「自分のことだけしか考えていない」家族を描いているという評価も、森田監督のこうした発言を受けてのものだったのではなかったろうか。

よく指摘される、まるで「最後の晩餐」のごとき「横並びの食卓シーン」も、基本的には「視線が交わらない」ということで、本来なら「視線が交わって、感情の行き来があるはずの食卓」においてすら、それぞれが「自分の世界」の中だけにとどまっているということを象徴しているのであろう。これは、夫婦が自家用車の中で横並びに座り、共に前を向いて話すシーンも同じである。

(有名な横並びの食卓シーン)
(子供に聞かせたくない話を、駐車場の自家用車の中で話す夫婦)

そして、最後の(合格祝いの)食卓乱闘シーンでは、家庭教師の大学生が徐々に暴れ出すというかたちを採っているけれども、それはたまたま彼がそれをやらせやすいキャラクター(弟息子を志望校に合格させ、謝礼の支払いも受けて、あとは同家を去っていくだけの立場)であったから、監督は彼に、自身の怒りを託してやらせただけで、あれは端的に「気に入らない奴ら」をリアルに描いてきた結果として、最後に、すべてぶち壊してやりたいという破壊衝動を解放しただけなのではないだろうか。最後だから、プツンとキレてやった、ということなのだが、家庭教師自身には、それをやるほどの理由など、まったく無いのである。

このように考えていけば、この映画もまた、何も「難解」なところはない。言うなれば「見たまま」の映画なのである。

ただし、前にも断ったとおり、今の若い人が見たら、こうした家族や個人は、もしかすると「理解不能」なのかもしれない。
「あの頃の当たり前」が、すでに「当たり前」ではなくなって、「何なんだ、この人たちは?」となってしまい、そこに「何か特別な意味があるのか」と誤解してしまう怖れもあろう。

だが、そうではないのだ。簡単に言ってしまえば、「あの当時」は「自分勝手でいられた」時代だったのだ。みんながそうだったから、それで大きな問題にはならなかった。
無論、森田監督のように、それが「我慢ならなかった」という繊細な人も当然いたわけだが、多くの人は「そんなものでしょう」という感じだった。

だが、時代は徐々に変化していって、今では「そんなもん」ではなくなったので、「そんなもん」では済まされなくなった。要は「他人に配慮せよ」という時代になったのである。だから、今の時代は今の時代で、昔とは違って「窮屈」になってしまった。
昔は、悪く言えば「自分勝手」だったが、よく言えば「おおらか」だった。それに対して今は「他人への配慮を求める、思いやりの時代」になったが、その分、それが義務化して「息の抜けない」時代になってもしまったのである。

無論これは一長一短で、どっちが良いというものではないのだが、人間というものは、無いものにこそ憧れ、それを過大にイメージしてしまうから、たとえば「昭和ノスタルジー」だの「昭和レトロ」などということにもなってしまう。

(渡船でバイト先へ向かう家庭教師)
(和解する次男と彼をいじめたクラスメート)

今の時代は、たしかに誰もがみな「優等生」であることを当然のごとく求められるので、メンタル的にしんどい時代だと思う。
しかし、では「昭和」の頃が良かったのかといえば、そうも言えない。この映画でも描かれているとおり、親父は威張るし、休みの日は家でゴロゴロしているだけ。学校の先生でも、ずいぶん威張っているのがいたし、私が子供の頃は、学校の先生とは「怖い」ものだったのである。

だから、父親であれ、先生であれ、子供の側からすれば、ずいぶんマシになったはずなのだが、しかし、今の子供たちは、当然、昔のことを知らないから、それが「当たり前」だとしか感じず、良くなったという意識を持ちようもないため、ありがたみもない。
まあ、こんなことは、それこそ「当たり前」であり、言っても詮なきことなのだが、しかし、それでも本作を見て、学べることはあるし、その意味で「面白い」と感じることはある。それは、人間や社会というのは、変わるようで変わらないし、変わらないようで変わる、ということだ。

この映画が始まって、私が最初に驚いたのは、次男の通うの中学校の教室のシーンで、女子生徒の髪の毛が「真っ黒」だったことである。「日本人の髪というのは、こんなにも真っ黒だったのか」と感心させられてしまったのだ。

だから、どうだと言われても何なのだが、これはとても「面白い」ことなのではないだろうか。

たぶん森田監督は、自身の感じていた「当たり前」な人間を、当たり前にリアルに描いただけなのだが、それが、それをそんなふうには見えていなかった他人には、「異様」に映って「面白い」とされた。
また、当時は「当たり前」であったことが、今ではそうではなくなって、何か「異様」なもののように感じられるようにもなった。

ということは、結局のところ、自分個人の「リアル」をしっかりと描き出せたならば、殊更に凝ったストーリーやテーマらしいテーマなどなくても、それはそれだけで「面白い作品」になるということなのではないだろうか。

それを妙に「面白いと言われるパターン」を採用してしまうから、かえってつまらないものになってしまうのではないか。

本作『家族ゲーム』を見ていて思ったのは、「当たり前の人間」というものも、きちんと捉えて描くならば、それはきっと「異様なもの」であり、その意味で「面白い」のではないかということだ。
もともと「他者」とは、「異様なもの」なのだから、「面白くもおかしくもないもの」というのは、「当たり前の人間」にすらなっていない(撮れていない)ということなのではないだろうか。

殊更に「深い意味」などなくても、「他者」というのは、それだけで「尽きせぬ意味を抱えた存在」であり、だから「面白い」はずなのである。
そして、そうした意味において、本作は昔も今も「面白い」作品だと言えるのであろう。



(2024年3月17日)

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