中原俊監督 『櫻の園』 : 少女たちの〈永遠の刻〉
日本の劇映画に興味のなかった私の耳にも、あちこちから「傑作」だという評判が入ってきたせいで、「機会があれば見てもいいな」とそう思いながらも今日に至ってしまった、そんな作品の一つが本作である。
つまり『家族ゲーム』(森田芳光監督・1982年)、『ジョゼと虎と魚たち』(犬童一心監督・2003年)に続く、名づけて「気になっていた日本映画」シリーズの第3弾というわけだ。
今回も、本作を見るにあたって、予備情報的なものは、いっさい入れなかった。ただ、ぼんやりとだが、漫画家の吉田秋生が原作だったか、漫画化していたかした作品だというくらい記憶はあった。あとは、女子校のお話、つまり「女の園」の物語だというくらい印象だろうか。
こう書くと、今ならすぐに「百合もの?」と思いつくところだが、当時は、そんな言葉も無かったから、「女の園」の物語を言えば、「女子の青春友情物語かな?」という程度のイメージでしか、私にはなかった。
で、実際見てみると、それは当たらずとも遠からずという感じだろうか。
それこそ今なら「百合映画」だなどというガサツな評判の飛び交うところだろうが、本作で描かれるのは、もっと繊細微妙なもので、「友情以上恋愛未満」と言うか、どちらかに決めなければ気が済まないというような、そんなガサツなレッテルを拒否するような作品であり、そうした美質においてこそ、好感の持てる作品だったのだ。
しかしこう書くと、「それはある意味で、女性同士の性愛を不浄視する、男性の精神主義的な純愛妄想の一種ではないか」と言われそうだが、確かにそういうところもあるかもしれない。
この作品に描かれる少女たちは、リアルなようでいて、やはりどこかで「理想化」され「抽象化」されている部分も、たしかに窺えるのだ。だが、しかしながら、そもそも原作者が女性なのだから、この物語に「純愛」的な「精神性」の美しさを見たからといって、モテない男の妄想だとは決めつけられないはずだし、「そっちの方が差別的な偏見なんじゃないの」と逆捩じをくらわすことも可能だろう。そうした意味で、もともとこの作品は、リアルな描写を通しながらも、なにか「象徴的なもの」を描いているような作品なのである。
ところで、後先になってしまったが、このレビューを書くために「Wikipedia」を確認したところ、本作はやはり、吉田秋生の同名漫画を原作とする作品だった。
はっきりと確信が持てなかったのは、たぶん私が吉田秋生に興味を持った頃の吉田の代表作は、「男同士」を扱った『BANANA FISH』だったからだろう。そのイメージが強かったから「女子校ものなんか描いていたのだろうか?」という疑問が残り、記憶に自信が持てなかったのである。
私が吉田秋生に興味を持ったのは、たぶん、竹宮恵子や萩尾望都といった「花の24年組」と呼ばれた少女漫画家たちによる「少年愛」漫画の代表的な作品をひととおり読み、そのあと読むとしたら、評判の『BANANA FISH』ではないかと、そんなことを考えたいたからだと思う。
たしか古本で全巻まとめ買いをしたような記憶もあるのだが、『BANANA FISH』は、全11巻という長さと、吉田の少女マンガらしからぬ絵柄に若干の抵抗があったので、結局は積読の山に埋もれさせて、そのままになってしまった。そして、今日に至るまで、吉田秋生の作品は、1冊も読んでいない。
ここで、備忘録がわりにその頃の、吉田秋生をめぐる周辺記憶を書き残しておきたい(※ 興味のない方は飛ばしてください)。
いま思い返してみると、結局、私が接した吉田秋生がらみの作品は、吉田原作の劇場用短編アニメ『悪魔と姫君』(1981年)と、吉田がキャラクターデザインを手がけた、片岡義男原作の劇場用中編(?)アニメ『ボビーに首ったけ』(1985年)の2本だけだと思う。
『悪魔と姫君』の方は、竹宮恵子の少年愛マンガ『夏への扉』を長編アニメ化した作品との併映で、どちらかと言えば「おまけ」的な作品だったと記憶する。また、私自身も竹宮の『風と木の詩』のファンだったから、お目当ては『夏への扉』の方だったし、さらにこの作品に注目したのは、その頃すでに漫画家と呼んだ方が良かった、往年のアニメ演出家・真崎守が演出を務めるという点であった。どんなものになるのかと、心配半分にだが。
では、肝心の『悪魔と姫君』の方はどうだったかというと、こちらは楽しいファンタジーコメディーだったように思うが、内容まではよく憶えていない。ただ、いかにもちょっと捻くれながらも楽しい主題歌の「ゴーインにマイウェイ」という歌詞が、今も耳に残っている。また、Wikipediaで確認してみると、この作品の演出を担当したのは、のちに『装甲騎兵ボトムズ』などで、先行した大ヒットアニメ『機動戦士ガンダム』に対抗する「リアルロボットもの」を確立し、一世を風靡した高橋良輔だと知って、ちょっとビックリ。『ボトムズ』は「1983年」の作品だから、高橋には、まだ代表作と述べるもののなかった、アニメ監督としてブレイク前の、演出作品だったということだろう。
一方、『ボビーに首ったけ』の方は、キャラクターデザインだけだから、どうってことはないのだが、しかし、たしかこの頃は「角川映画」がやたらに元気で、しかも片岡義男は、角川が当時つよく推している作家だったから、劇映画が何作も作られたその上での、片岡作品のアニメ化だったはずだ。つまり、言うなれば、日本映画界を席巻していた角川が、アニメにまで、その勢力圏を拡げようとしていた時期の意欲作だったわけだ。
だが、この作品も、SF作家・矢野徹の時代冒険小説を原作とした同名長編アニメ『カムイの剣』(りんたろう監督)との併映で、私の興味は、むしろこちらだったから、『ボビーに首ったけ』の方は「吉田秋生のキャラクターが動いているな。なかなか似せている」と感心したくらいの記憶しかない。たぶん、今の目で見れば、まだまだ似せきれていないだろうが(ついでに書いておくと、アニメ『カムイの剣』で、強く印象に残ったのは、同作でキャラクターデザインを担当した、すでに漫画家になってひさしかった、元アニメーター村野守美による「池田屋事件」のパートの、殺陣の作画だ。村野はかつて、石ノ森章太郎原作の時代アニメ『佐武と市捕物控』の演出や作画を担当していたから、その関係での起用だったのであろう。なお村野は、私の敬愛するアニメーター、杉野昭夫の師匠にあたる人だった)。
ともあれ、『BANANA FISH』のテレビアニメ化は、ずっと遅れて2018年になったが、いずれにしろ吉田秋生は、各方面(実写映画・アニメ・舞台)から長らく注目されている人気漫画家だということである。
さて、ほとんど完全に個人的な脱線はこれまでにして、『櫻の園』に話を戻そう。
本作『櫻の園』は、そんな人気マンガ家・吉田秋生の「全4章からなるオムニバス漫画」を、長編に編み直して映像化した作品である。
実際、今回、本作を初めて見て驚いたのは、私が知っているのは、杉山紀子役のつみきみほだけで、それ以外は、名前は無論、顔さえも知らない女優ばかりだったということ。
それは、主演の中島ひろ子も同様で、しかも主役でありながら、特に美人というわけでもないところにも驚かされたのだが、Wikipediaを見て「そういう事情だったのか」と、初めて納得させられたのだった。
本作の「ストーリー」は、次のとおりである。
このように、今なら確実に「百合もの」呼ばわりされてしまう内容だが、Wikipediaにあるとおりで、当時は『「少女達の友情」という、あまり注目されなかった題材』だったのであり、しかもそれを『20人以上の部員を全員オーディションで選出し、極々普通の少女達』を使って『派手さを抑えて繊細に静かに描ききった』ところで、この作品には「誠実かつ押さえた爽やかさ」とでも呼ぶべき魅力が宿ったのである。
まただからこそ私は、本作を「百合もの」などという手垢にまみれた言葉で評してほしくないと感じて、最初に、あのように牽制してしまったのでもあろう。
そんなわけで、本作の魅力とは、エンタメ的な意味で「面白い」とか「美しい」とかいったものではなく、男女さえ問わず、過ぎ去った自分の「若い日」を思い出させるようなところにあるのではないかと思う。
本作では、思い人に思いの届く少女と、言うなれば失恋する少女もいるが、それをひっくるめて「いつか過ぎていく若い日」だったのだなあと、そんな感慨を見る者に抱かせるのだ。
「百合」と同様、「青春」などという言葉さえ使いたくなくなるほど、「自然な」「どこにでもある」若い日。
本作の中でも、毎年、何事もなかったかのように咲き乱れる校庭の桜について、少女たちが、だから好きだとか嫌だとかいって、姦しくおしゃべりするシーンがあるけれども、そこで語られた桜は、流れながらも繰り返す「時間」というものの象徴なのであろう。
紀子の喫煙という不祥事によって、上演が危ぶまれる事態になってしまった、伝統の舞台「櫻の園」について、ある2年生部員は「3年の先輩たちにとっては、今年の舞台は今年きりで、来年なんかないのに、中止なんてことは絶対に許されない」と、つよく訴えるシーンがあったのだが、私はこのシーンを見て、思わず、コロナ禍で中止になった全国高校野球大会を想起した。あきらかに両者には相通ずる感情があったはずなのだ。実際、高校野球だって、つい最近までは、一部部員の不祥事のために、出場辞退といった話になっていたのである。
ともあれ、教師をはじめとした大人の目からすれば、それは毎年開催される恒例行事でしかないものであり、たしかに、これまでもこれからも、つまり来年も再来年も、創立記念日の「櫻の園」の舞台は続くのだけれど、その舞台に立つ少女たちにとっては、それは決して「同じ舞台」ではないのである。
だからこそ、毎年同じように咲き誇る桜が憎らしくもあり、しかしその一方で、毎年変わらずに咲き誇ることへの嬉しさもありといった気持ちが交錯するのである。
そして、そうした「一度きりの時間」の中で、実った思いも、実らなかった思いも、彼女たちがいずれ必ず卒業して学校を去っていくように、「そのまま」ということはあり得ない。
だから、案外ちかい将来に、ちょっと切なくも甘酸っぱいような感傷やら懐かしさをともなって、「そんなこともあったなあ」と、彼女たち自身が「今この刻」を思い起こすことだろうことを、本作を見る私たちも、自分の学生時代のあれこれを思い出しながら、しみじみと想像してしまうのである。
本作での、主たるキャラクターは4人で、その4人は、それぞれ別々の「今」を経験しているのだけれど、しかし、そこでの何もかもが、「記憶の宝石」として、いつかは「大切な時間だった」と思い起こせる日が来るのだということを、本作を見る者は感じ、そしてそれは「たぶん、今この時もそうなんだ」と気づかされるのである。
だから本作は、「少女たちの青春を描いた」と言うよりも、私としては「人生における今この時の、気づきにくい大切さ」を描いた作品なのではないかと、そんなふうに考える。
もちろん、ある意味では、十代後半というのは、最も「美しい」時間だし、だからこそ最も「苦しい」刻なのかもしれない。
それでも、その時その時を精一杯生きれば、きっとそんな過去の自分を慈しむことができる時が来るんだと、この作品は語っているように思うのだ。
あまりうまく言語化できなかったようだが、この作品の魅力は、紋切り型の言葉では表現しきれない、ある種の「永遠性」のようなものを描いていたように、私には思えたのである。
(2024年6月26日)
○ ○ ○
○ ○ ○
○ ○ ○
○ ○ ○
・
○ ○ ○
・
○ ○ ○
・
○ ○ ○