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ロマン・ポランスキー監督 『戦場のピアニスト』 : ワルシャワの地獄に立って

映画評:ロマン・ポランスキー監督『戦場のピアニスト』2002年、フランス・ドイツ・ポーランド・イギリス合作映画)

本作は、第二次世界大戦の最初期に、ナチスドイツに制圧されたポーランドの首都ワルシャワで、ユダヤ人のたどった悲惨な運命を、ユダヤ系ポーランド人のピアニスト、ウワディスワフ・シュピルマンの体験記を脚色して映像化した作品である。

(シュピルマン役で、アカデミー賞主演男優賞を受賞した、エイドリアン・ブロディ

私は子供の頃、プラモ作りが好きで、特にドイツ軍の戦車が好きだったから、その関連資料として、ドイツ軍の「戦史」に関連する本を買ったりしていた。
といっても、当時は活字の本は読まなかったので、ひたすら掲載されている写真をながめるだけで、目に入ってくる文字とは、章題だとか見出しだとか、写真のキャプションといったものに限られていた。また、それでも、そういうものから、第二次世界大戦におけるドイツ軍の「歴史」的なものを、断片的ではあれ知ることになった。

そうした知識として知ったのが、大戦初期のドイツ軍の「電撃戦」による東方への快進撃であり、その最初の犠牲になったのがポーランドだということであった。
また、そんな関係から「ワルシャワ・ゲットー」という言葉にも接し、そこでの悲惨な歴史を知った。ユダヤ人たちが「ダビデの星」の腕章をさせられ、ごちゃごちゃした狭い地域に押し込まれて生活し、道端には飢えやペストの流行などによって倒れたユダヤ人の死体が転がっているという写真、あるいは、大きなカバンを下げて着膨れしてたユダヤ人家族が、絶滅収容所への列車移送のために、おおぜい列をなして駅まで移動させられている様子の写真とか、そういったものだ。
まだ、歴史的な全体像を持たなかった私の中では、こうしたものが、絶滅収容所のユダヤ人たちの姿や、山をなす死体などの写真と、前後の脈略も判然としないまま、渾然一体となって残ったのである。

(ゲットー内へ移住させられたユダヤ人たち)
(ゲットー内の最下層の惨状)

本作『戦場のピアニスト』は、2002年に、カンヌ映画祭で最高賞であるパルムドールを受賞し、アメリカのアカデミー賞では7部門にノミネートされ、うち監督賞、脚色賞、主演男優賞主要3部門で受賞した傑作である。

長らくアニメかハリウッドの娯楽映画しか観なかった私は、この作品の評判こそ耳にしてはいたものの、どんな内容の映画かまでは、今回じっさいに観るまでは、ぜんぜんわかってはいなかった。
前記のとおり、戦車プラモが好きだったから、戦争映画というのはけっこう観た方なのだが、タイトルに「ピアニスト」が入っているので、観ようとは思わなかったのだろう。少なくとも、派手な戦車戦が描かれるような作品ではないとは分かってはいたからである。

したがって、今回観ることにしたのも、(これが初めてではないのだろうが)「デジタルリマスター版」が劇場公開されるというのを知ったからで、「この機会に観ておくか」というだけの、ごく軽い気持ちからであった。
とにかく「戦争映画」であり、名作なのだから、私向きの作品ではなくとも、少なくとも「歴史の勉強にはなるだろう」とは思ったのである。ただ、それが「ワルシャワ・ゲットー」を中心とした、ドイツ占領下のユダヤ人の運命を描いたものであろうとまでは、まったく予想もしていなかったのである。

 ○ ○ ○

前述のとおり、本作で描かれるのは、実在の人物であるユダヤ系ポーランド人ピアニスト、ウワディスワフ・シュピルマンが体験した「地獄」である。

本作の「あらすじ」は、次のようなものだ。

『1939年、ナチスドイツがポーランドに侵攻。ワルシャワの放送局で演奏していたピアニストのシュピルマンは、ユダヤ人としてゲットーに移住させられる。やがて何十万ものユダヤ人が強制収容所送りとなる中、奇跡的に難を逃れたシュピルマンは、必死に身を隠して生き延びることだけを考えていた。しかしある夜、ついにひとりのドイツ人将校に見つかってしまう。』

「映画.com」・「解説」より)

この紹介文の、最後の部分「しかしある夜、ついにひとりのドイツ人将校に見つかってしまう。」というのは、もちろん「映画」におけるサスペンス的な「惹き」場面だが、当然シュピルマンは、この危機をも「幸運」に脱して、戦後まで生き残るのである。

本作において重要なのは、いわゆる「ストーリー」ではない。ストーリー的には、上の「あらすじ」程度のシンプルなものでしかない。要は、シュピルマンだけが、極めて「幸運」な数々の巡り合わせによって生き残ったというもので、本作において肝心なのは、彼の目を通して描かれる「ユダヤ人たちの悲惨な歴史的事実」の方であり、その「ディテール」であろう。
所詮、シュピルマンは「視点人物」であり、言うなればが「カメラ」であり、「証人」であって、決して「映画の中のヒーロー」ではないのである。

前述のとおり、私はポーランドが、開戦早々にドイツ軍に制圧占領されたことを知っていたし、ワルシャワ・ゲットーというものの存在と、そこでのユダヤ人の悲惨な生活、そして絶滅収容所への移送といった経緯も、なんとなくなら知ってはいた。
けれどもそれは、バラバラに目にした写真と同様に、まとまりのある「歴史」として理解していたわけではなかった。ワルシャワでのユダヤ人の悲惨な運命を、知ってはいたのだけれど、理解していたわけではなかったのだ。

だが、本作を観ることによって私は、ワルシャワで起こったユダヤ人たちの悲劇に、具体的なパースペクティブを与えることができた。もちろん「劇映画」という「再現映像」によるものだとしても、生きて動く人間によって描かれた「歴史」は、歴史から切り取られて前後の脈略もなく、また動くこともない「写真」では理解することできないものを、私に教えてくれた。そこには、たしかに、生々しい「生」が描かれており、「もし私が、この場にいたら」と考えずにはいられなかった。
私が、この場にいる「ユダヤ人だったら」「ポーランド人だったら」「ドイツ軍兵士だったら」、どのように振る舞っていたことだろう?

例えば、私が進駐していたドイツ兵だったなら、少なくとも積極的にユダヤ人を差別したり、理不尽な暴行を加えたりはしなかっただろうし、同情もしただろう。その程度の自信は、歳をとって、これまでの自分の生き方を確認できるようになった今ならば確言できる。
けれども、自分の命がかかるようなことまではできなかっただろう。つまり、ユダヤ人を助けることまではできなかっただろうし、ユダヤ人を射殺しろと命じられた時に、私はこれに抵抗し得なかっただろうと思う。つまり、目を瞑って射殺したであろう。

また、私がそうしたドイツ軍下級兵士ではなく、上級将校だったとしたら、なおさら、さらに上から降りてくる指示に、公然と逆らうことなどできなかったであろう。
前記の「あらすじ」にもあるとおり、シュピルマンは、ワルシャワ・ゲットー蜂起のあと、徹底的に壊滅させられた後のゲットーの廃屋に潜伏していたところを、とうとうドイツ軍の高級将校に見つかってしまう。

(壊滅させられた、ワルシャワ・ゲットーの実景)

しかし、その時、彼を見つけたのは、ドイツ軍の将校ヴィルム・ホーゼンフェルト大尉、ただ一人であった。しかも、この時期はすでに戦争も末期で、ドイツの敗色が濃厚となり、東からのソ連軍の反転攻勢によって、ドイツ軍がポーランドから撤退するのも時間の問題という状況にあった。だからこそ、ホーゼンフェルトは、シュピルマンを見逃してやるだけではなく、食料まで恵んでやったりもしたし、「あと2週間もすれば、自由になれるだろう」と励ましてもやれたのである。

(壊滅させられたワルシャワ・ゲットーをさまようシュピルマン)

つまり、ホーゼンフェルトにこのような「人間らしい行い」ができたのは、ひとつには彼がもともとは「教育者」であり教養もあり、また人格の高潔な人だった、ということがあるだろう。
しかし、シュピルマンを見つけた際に、彼のまわりに他のドイツ軍将兵がいたとしたら、彼の一存でシュピルマンを匿うことなど、とうてい不可能であったろうから、その場で射殺はしないまでも、別の場所での射殺を命じざるを得なかったのはないだろうか。

また、本作の中でも描かれているとおり、ワルシャワ・ゲットーの治安維持にあたったのは「ユダヤ人ゲットー警察」であった。
ポーランドを占領していたとはいえ、数においては少数者でしかないドイツ軍は、ワルシャワ・ゲットーの管理を「ユダヤ人評議会」に委ね、その指揮下にある「ユダヤ人ゲットー警察」が、ドイツ軍の意を受けて、強制的かつ差別的に、ゲットー内の「下層ユダヤ人」たちを管理していたのである。

『1940年11月16日にゲットーは封鎖され、自由な出入りはできなくなった。ゲットーの入口には両側に警備が配された。内側はユダヤ人ゲットー警察(ユダヤ人評議会指揮下)、外側はポーランド人とドイツ人による民警組織によって警備されていた。ゲットー住民は、ゲットーの外へ出る事が絶対的に必要である事を証明できた場合にのみ、通行許可証を与えられて、そこを通過することができた。ゲットー内にはドイツ国防軍、親衛隊、ドイツ警察などドイツの行政機関は駐屯しておらず、ドイツ人の姿はまれに視察に訪れる時ぐらいにしか見られなかった。』

(Wikipedia「ワルシャワ・ゲットー」

『ワルシャワ・ゲットーのユダヤ人評議会の自由主義的な統治は経済にも及び、完全にユダヤ人評議会の統制経済下に置かれていたウッチ・ゲットーなどとは異なり、「市場原理主義」的な経済体制で運営されていた。そのためワルシャワ・ゲットーには私企業も多数存在していた。その弊害としてワルシャワ・ゲットー内は貧富の差が顕著であった。ゲットー官僚・商人・投資家などが「上流階級」として君臨し、彼らはナイトクラブに通い、高級レストランで食事し、人力車に乗って移動していた。ドイツ当局はゲットー住民が裕福に生活していることを示すため、この一握りの「上流階級」の人々や彼らの通う施設を頻繁に撮影した。しかし大多数のゲットー住民の生活は全く裕福ではなかった。』(同上

ワルシャワ・ゲットーも、当初は「ユダヤ人評議会」の管理下に置かれていたから、その内部においては、比較的自由が利いたのだ。少なくとも、一部のユダヤ人には。
しかし、配給される食料などの物資をめぐって、管理する側のユダヤ人と管理される側のユダヤ人に、極端な経済的格差が生じたというのは、市場主義経済の必然なのかもしれない。我が国でも近年には「上級国民」などという言葉が、皮肉な意味合いにおいて流行ったりもしたが、その極端なかたちが、ワルシャワ・ゲットーで発生していたのである。

だから、少なくとも、ユダヤ人の絶滅収容所への移送が始まるまでは、ユダヤ人どおしの中にも「差別」があったと言って良いだろう。占領軍の手先となって、ゲットーの中での恵まれた地位と権力を握って、当初は甘い汁を吸った者もいたのである。

「本作」の中でも、温厚かつ一廉のピアニストであったシュピルマンに好意を抱いている「ユダヤ人ゲットー警察」の勤務の男性が、もとは裕福だったシュピルマン一家の家を訪れて、若いシュピルマンやその弟に「警官になれ。そうすれば生活も楽になり、家族を飢えさせなくても済むぞ」と、好意から誘ってくれるシーンがある。
その際、弟の方が激怒して、彼を追い払うのだが、その結果として、シュピルマンを除く一家の全員(両親、姉、妹、弟)が、トレブリンカ強制収容所への列車に乗せられることになるわけだが、その乗車の瀬戸際で、以前シュピルマンを警察に誘った、かの男性が、シュピルマンだけを逃がしてくれるのである。それがせいぜいだったのだ。

(右の人物が、のちにシュピルマンを、移送列車への列から逃してくれる)

それにしても、私が「ユダヤ人」であり、もしもこうした「警察」への誘い(恵まれた立場への誘い)を受けたとしたら、その時にキッパリと断れただろうか?
シュピルマン一家の場合、この誘いをうけた際にはまだ、「占領が長く続くことはないだろう」という楽観的な希望があったから、その誘いを断ることもできた。だが、仮に、飢えで家族が死にかけていたとしたら、それでも断れただろうか?

実際、シュピルマンも、トレブリンカへの列車の前で、乗車待ちの列から一人だけ引き抜かれて「逃げろ!」と言われたのだ。当然、他の家族はそのまま収容所送りになるし、死の運命が待っている公算の高いことも知っていた。だから、彼も一度は家族のもとへ戻ろうとするのだが、再度ひきとめられ、逃げるように促されると、彼も覚悟を決めて、その場を立ち去っていくのである。
つまり、やむをなかったとは言え、自覚的に、家族を「見捨てた」のだ。

(シュピルマンの一家)

彼のその後の逃亡生活を手助けしてくれたポーランド人の友人や、抵抗組織のポーランド人たちも、シュピルマンに手を貸せたのは、ポーランド人には、まだ人間並の扱いが保証されており、その意味で自由と余裕があったからに他ならない。
ユダヤ人と同じような境遇にあったなら、他人を救うどころではなかったろうし、まして抵抗運動を組織することなど不可能だっただろう。

もちろん、ポーランド人の中にも、もともとのユダヤ人に差別感情を持っていた者は、少なからずいたはずで、この映画でも、少数ながらそうした人物を描いている。抵抗組織が準備したアパートの空き部屋に潜伏していたシュピルマンを発見して、「ジュウだ! 警察に連絡しろ!」と騒いだ、隣人のポーランド人女性である。
「ジュウ」とは、もちろん「ユダヤ人の蔑称」であり、日本で言えば、かつては朝鮮人のことを、陰で「チョン」とか「チョンコ」などと呼んだのと、まったく同種の言葉である。

このように考えてくると、自身が自覚的に「殺されるユダヤ人」の立場に止まらないかぎり、多かれ少なかれユダヤ人虐殺に加担せざるを得なかっただろうというのが、この映画を観て、初めて生々しいものとして感じることができた。単なる「歴史的な知識」ではなく、私個人にとって意味のある「生きた知識」となったのだ。

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結局のところ、シュピルマンが生き残れたのは、「幸運だった」の一言に尽きるだろう。
本作は、実話をもとにしているから、シュピルマンの運命をめぐる数々の「幸運」も、それがあったからこそ生き残れた、実際にあったこととして認めざるを得ないのだが、これが完全なフィクションとして作られた作品だったなら、少々「ご都合主義的」という印象を、観る者に与えたのではないだろうか。

無論、シュピルマンだけが恵まれた「幸運」とは、まず第一に、彼がもともとそれなりに知られた「ピアニスト」だったからというのが大きい。
彼を、トレブリンカ収容所への列から逃がしてくれた「ユダヤ人ゲットー警察」の知人がそうだし、最後に彼を見逃してくれたドイツ軍大尉のホーゼンフェルトも、彼を見つけた際、シュピルマンの職業を問い、ピアニストだと知ると、シュピルマンにピアノを弾かせて、その音に聞き惚れている。つまり、シュピルマンがピアニストではなかったら、もしかすると、目の前の、乞食のようなユダヤ人潜伏者を見逃そうとか、食料まで与えようという気にはならなかったかもしれない。ホーゼンフェルトの中には「芸術を解する、同じ教養人として、この男を殺すには忍びない」という「差別的な意識」のあった蓋然性は、十二分に高かったのである。

この、ある意味では、歴史の流れを再現しただけの「単調な物語」が、それでも150分にわたる緊張感を保ちうる作品になった理由とは、結局のところ、この映画で描かれている人々が、全員、多かれ少なかれ私たちの「似姿」であり、そこに描かれていることが「他人事」ではなかったからではないだろうか。

そしてこれは、なにも「過去」の話ではない。

今も、ウクライナでの戦争が続いており、パレスチナガザ地区ではイスラエル軍によるかつてない侵攻と虐殺が続いているのだが、それにも関わらず、私は、遠くからそれを手をこまねいて見ていることしかできず、相変わらず、自分一人の平穏で安楽な生活を送っている。

これが、平均的な人間の姿なのだとすれば、人間など全員一緒に、絶滅収容所に送られる運命にあった方が、まだしもマシなのかもしれないと、そんなことを考える私は、やはり人並みの「偽善者」なのであろう。


(2023年12月7日)

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