ロマン・ポランスキー監督 『テス』 : テスは、そこにいる。
映画評:ロマン・ポランスキー監督『テス』
『名匠ポランスキー&ナスターシャ・キンスキー/時代を超えた文芸ロマンの名作が、4Kリマスターで蘇る!』ということで、映画マニアではない私でも、タイトルくらいは耳にしたことのある名作映画だったので、この機会に観ておくことにした。3時間の大作である。
ロマン・ポランスキー監督の方は、名前に特徴があったので、耳には残っていたのだが、この監督の作品だと意識して観たのは、これが初めてだ。たぶん、子供の頃に、テレビでいくつかの作品を視てはいるのだろうが、もはやその記憶は定かなものではない。
私が、ロマン・ポランスキーという人を、映画監督としてハッキリと意識したのは、クエンティン・タランティーノ監督の2019年の作品『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』に、作中人物としてポランスキーが登場していたからであり、そのことによって、ポランスキーという人の存在が、にわかに身近なものに感じられたのであろう。「この人が撮った映画って、どんなものだったのだろう?」という感じである。
一方、ナスターシャ・キンスキーの方は、若い頃に、テレビで見たことのある「外国の美人女優」という印象が、ハッキリと残っている。たぶん、1982年の『キャット・ピープル』あたりの頃、日本でもかなり人気が盛り上がっていたのではないだろうか。
ただし、私は、ナスターシャ・キンスキーには、あまり興味がなかった。確かに美人だとは思うが、私の好みのタイプではなかったからだ。ナスターシャの、いかにもドイツ人らしい「彫りの深い鋭角な顔立ち」は、ボーイッシュにさっぱりした可愛いタイプが好きだった私には、合わなかったからである。
今回『テス』を観ても、その印象は変わらなかったし、ましてナスターシャの演じたテスには、独特の暗さと、それに由来する、本人の意識しない「運命の女(ファム・ファタール)」性が漂っており、その点でも、私の好みのタイプではなかった。
さて、肝心の映画『テス』そのものだが、これは、いかにも良く出来た「文芸映画」で、「その出自に由来する運命に翻弄されながらも、それに抗って生きた、一人の女性の生と死を描いた作品」とでも言えようか。
ストーリー的には、今の日本では、ほとんど読まれないであろう、トマス・ハーディの小説を原作とした作品らしく、いささか「古風すぎる」感じがしないでもない。少なくとも、ストーリーに驚かされるような要素はなく、いかにもオーソドックスな文芸映画だと言えるだろう。
ストーリーは、次のとおりである。
テスは「美貌と自尊心と意志の強さ」を併せ持った少女でありながら、その貧しい出自のために、運命に翻弄される。彼女は、どんなに苦しくても、弱音を吐くことなく、誇り高く生きようとするのだが、残酷な運命に弄ばれた果てに、その愛を成就させたとは言え、それもつかの間、不幸な死を遂げることになる。
つまり、本作は、正しく生きようとした彼女の努力が、ほとんど報われなかった物語として、観る者の胸に「悲しい切なさ」を残す作品なのだ。
無論、この映画を語るのに、「風景の美しさ」や「ナスターシャの美しさ」といったことに言及するのは「定番」なのだろうが、「美しいものを美しいというだけ」では、映画のおすすめ情報にはなっても、この映画が持つ「意味」を語ったことにはならないし、この映画を「今」観ることの価値を語ることにもならない。
だから私は、本作を「名作」として語るのではなく、あくまでも本作の持つ「今日的な意味」を、以下で考えてみたいと思う。
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まず、最初に指摘しておきたいのは、主人公テスの「不幸」は、はたして、この映画の描いた「19世紀末のイングランド、ドーセット地方の田舎」だから、起こったことなのか、という点だ。
たしかに、貧しいテスの仕事の内容は、時代を反映した「農作業」を中心とした「過酷な肉体労働」だと言えるだろう。それは、美人のテスには、いかにも不似合いであり、観る者に「痛ましさ」を感じさせ、彼女への同情を喚起する。
しかし、これが、現代の日本だったら、どうだろうか?
あるいは、現代の日本には、存在しないような「不幸」なのだろうか?
このように問うた場合、映画の中の主人公である美しい娘テスに同情するであろう私たちは、彼女とほとんど同じような「不幸を生きる娘たち」に、はたして同情できているだろうか? あるいは逆に、むしろ搾取する側に回ってはいないだろうか?
監督のロマン・ポランスキーは、彼の制作した映画『吸血鬼』に出演した女優シャロン・テートと結婚したが、シャロンがその後、チャールズ・マンソン率いるカルト教団に襲われ惨殺されたというのは、「シャロン・テート事件」として、あまりにも有名である。
彼女の死にショックを受けて、ポランスキーが一時期、相当に憔悴していたというのは、言うなれば「当然」のこととして、その後のポランスキーは、
という運命に見舞われる。
ポランスキーが、実際に「やったのか、やらなかったのか」は、無論、事実は藪の中なのだが、少なくとも、彼が人並みに「若い女」が好きであり、人並み以上に「若い女に手を出す機会」に恵まれていたというのは、間違いない事実であろう。
日本の芸能界でも「枕営業」などという言葉で語られる事実が、どの程度のものであるのかはわからないものの、文字どおり「人間の性(さが)」として、それが「行われている」という事実を、全否定する者はいないと思う。そして、それを自ら「やりました」と名乗り出るような者は、皆無に等しいという事実もある。
だから、ポランスキーが、如上のような事件を起こしていたとしても、言って見れば、なんら不思議ではないし、それが事実だとしても、彼だけが殊更に「ロリコン野郎」というわけではないだろう。
近年、「#MeToo」運動のきっかけとなった、映画プロデューサー、ハーヴェイ・ワインスタインによる「一連の性的暴行事件」も、新聞記者の調査報道をきっかけにして明るみに出てきたものであって、決して、被害女性の主体的な告発や、ワインスタインの「私はやりました」という主体的な「告白」によって、明るみに出たものではない。
したがって、このような「隠蔽された、下半身の犯罪」というのは、今もまだ完全には無くなっていないだろうし、ましてや、昔ならば、もっと「当たり前」に行われていたはずで、ポランスキーだけが、唾棄すべき「ロリコン野郎」というわけではないはずだ。
そもそも、そんなふうに言って、ポランスキーを非難している側の人間が、裏では何をしているかなど、バレるまでは誰にもわからないのである。
例えば、常習的な性的暴行がバレる前のワインスタインに「ポランスキーの未成年者に対する性的虐待事件は、あったと思われますか? あったとすれば、どうお考えになるでしょう?」と質問すれば、ワインスタインはきっと「そんな忌まわしいことが、このハリウッドであったとは信じたくないところですが、もしも仮にそれが事実であったとするならば、決して許されないことだと思いますし、私はそうした、立場を利用した卑怯な振る舞いには、怒りを禁じえません」くらいのことは言ったはずなのだ。
同様に、もしも、本稿の読者である「あなた」が、ポランスキーの立場にあり、向こうから13歳の美少女がすり寄ってきたら、はたして「その気」にならないでいられるだろうか?
一度や二度なら自制しても、そうした行為が、周囲でも当たり前に行われているという「噂」を耳にしていたりすれば、最後は「つい」欲望に流されてしまい、あとは、行くところまで行ってしまう、なんてことにはならないという自信が、本当にあるだろうか?(無論、男女を入れ替えて、問うても良い)
今回の「4Kリマスター」版『テス』の映画パンフレットに、日本ハーディー協会の会長で、西南学院大学教授である金子幸男が、「ポランスキー映画『テス』と原作『テス』のナショナルな意義 「緑なす心地よき大地」という田舎のホームに抱かれて」という文章を寄せており、両作は、書かれ作られた時代は違えど、両作はともに、イギリス国民にとっての「心の故郷としての田舎」を描いたという点で、同様の有意味性を帯びたものであり、その点で映画版『テス』は、「危機の時代」のイギリスにおける、同時代性に裏付けられた作品であり、しかも、その「危機の時代」が今なお続いていることを考えれば、この作品は「今日的な意義」を失ってはいないはずだ、という趣旨の指摘をしている。
で、金子のこうした指摘の趣旨と、大きくズレているとは言え、私が本稿で指摘したいのも、本作の「今日的な意義」であり、その「問題提起」性であると言えるだろう。
金子は、上の文章の中で、原作にはあった「宗教性」や「暴力性」が、映画版では排除されており、私には、十二分に「強い女性」だと感じられた映画版のテスが、しかし、原作と比較すれば「かわいらしい女性」になっていると指摘している。
このあたりは、映画評論家も含めて、「原作」を読まずに語っている論者には、よく為し得ない興味深い指摘なのだが、しかし、この指摘が事実なのだとすれば、どうしてポランスキーは、「宗教性」や「暴力性」や「女性の強さ」といったものを、この映画から排除したのだろうか?
それだけではない。この映画では、テスがアレックによって強姦されるシーンも、一見したところは「和姦」にしか見えないソフトな描写だし、そのシーンで、テスが裸体を晒すこともない。
また、テスが、彼女を囲いものにしていたアレックを殺害して、愛するエンジェルのもとへと走るシークエンスでも、テスがアレックを殺すシーンは直接描かれず、「テスが2階の部屋から出て行ったあと、一階の天井に滲み出た血に気づいた家政婦が驚く」という、暗示的な描写になっている。
つまり、「宗教性」や「暴力性」や「女性の人間らしさ」だけではなく、「性的なもの」や「人の死」も、本作では、抑圧隠蔽または排除されているのである。
ならば、この「事実」は、いったい何を意味しているのであろうか?
オーソドックスな「説明」としては、ユダヤ人のポランスキーは、幼いころに母をナチスの「絶滅収容所」で失っており、後には愛する妻シャロンを惨殺されたりしたから、「その影響」ではないか、といった感じになるようだ。
ホロコーストの被害関係者や、犯罪により家族を失った被害関係者が、多かれ少なかれ何らかの「精神的な傷」を負っているというのは、間違いのないことだろう。
しかしながら、だから、その人が「宗教性」や「暴力性」や「女性の人間らしさ」や「性的なもの」や「人の死」というものを、遠ざけて生きるようになるかと言えば、そんな単純な話ではないだろう。
もちろん、中にはそうなってしまう人もいるだろうが、多くの人は、心に傷を負いながらも、それなりに当たり前の生活を続けているはずで、例えば、セックスができなくなった、しなくなったなどという人の方が、むしろ少ないはずだと、私は思うのだ。
実際、ポランスキーが、どこまで「女遊び」をしたのかは定かではないものの、私生活において、ことさら女性を遠ざけたという事実はなさそうなのだから、そんな彼が、自身の作品の中から、そうと分かるほど、「宗教性」や「暴力性」や「女性の人間らしさ」や「性的なもの」や「人の死」を遠ざけたというのは、むしろ、彼の中にも、そうした「忌まわしいもの」が生きていると感じられたからこそ、それをことさらに忌避したと、そう考えることも、十分に可能だろう。
つまり、性的虐待を行なっていたワインスタインだからこそ、そうした行為がバレるまでは、そうした行為に対しては「ことさらに倫理的な態度」を示すことになっていたのではないかと、私はそう推察する。
自らの犯罪行為がバレていない段階でのワインスタインが、「ポランスキーの未成年者に対する性的虐待事件は、あったと思われますか? あったとすれば、どうお考えになるでしょう?」と問われた場合、彼は決して「いや、そのくらいのこと当たり前で、みんなやってきたことだよ」とは、決して言えなかったと思うのだ。
そして、これはポランスキーだって同じことで、彼に「不幸な過去」があったとしても、それだけで彼が、過剰なまでの「聖人君子」になったという保証など、どこにもないのである。
しかし、勘違いしてもらっては困るのだが、私はここで、ポランスキーを疑い「責めたい」わけではない。
そうではなく、テスを見舞った「不幸」や「搾取」は、決して「映画の中だけでのこと」でもなければ「過去のもの」でもなく、まさに「今ここ」の問題であり、そして多くの場合、私たちは、そうした問題について、「第三者」的に「同情」したり「論評」するだけの立場ではなく、実際のところ「加害当事者」なのではないのかと、そう指摘したいのだ。
例えば、来日外国人女性に対する「性的搾取」といったことだけではなく、派遣労働者を低賃金で酷使する「労働搾取」などについて、私たちは、それを半ば「当たり前の光景」として、気にもしていないのではないだろうか。
言い換えれば、この現代の日本社会にも、テスはそこかしこに存在するはずなのだ。
彼女は、外国人の場合もあれば、日本人の場合もある。さらに、女の場合もあれば、男の場合もある。
だが私たちは、映画の中もテスに心を痛めはしても、身近に実在するテスには興味がなく、きわめて冷淡に振舞っているのではないか。
テスの不幸は、テスの悲劇は、決して「映画の中」でのことだけではないし、「過去」のこと、「外国の話」ということでもないだろう。
映画『テス』への、「風景が美しい」「ナスターシャが美しい」「映画としてよくできた名作だ」というような「客観的」評価も、決して悪くはない。
しかし、映画鑑賞として素朴なものではあれ、本当の意味で「テスの不幸に心を寄せる」こともまた、基本的な、忘れてはならない態度なのではないだろうか。
(2023年3月25日)
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