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本能寺の変1582 重要Point ◎第72話 天正十年六月二日、明智光秀が織田信長を討った。その時、秀吉は備中高松で毛利と対峙、徳川家康は堺から京都へ向かっていた。甲斐の武田は消滅した。日本は戦国時代、世界は大航海時代。時は今。歴史の謎。その原因・動機を究明する。『光秀記』

重要Point ◎第72話 

11光秀の年齢 3光秀と土岐氏 1/2 

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その一因 
見えてきたもの 目次 
*◎=重要ヶ所 P=重要Point ✓=チェック済 
 72 ◎ 73 ◎ 
*以下は、重要ヶ所◎のみ抜粋したものです。
*加筆修正 

◎P72   ◎第72話

時代の風潮  土岐氏の跡目争い。
       頼武と頼芸。
       守護の座をめぐる兄弟の戦い。

       テーマ別 光秀の年齢 第72話 ◎P72 ◎第72話
       *時代の風潮 持たざる者→持てる者

光秀の人物像 土岐氏の跡目争い。
       頼武と頼芸。
       守護の座をめぐる兄弟の戦い。
       光秀の明智氏は、土岐頼武の家臣だった。
       長井新左衛門(父)と若き日の斎藤道三(子)は、頼芸派。

       光秀は、土岐頼純の家臣。
       頼武の後を継いだのが頼純である。

       斎藤道三による下剋上が始まった。

       天文十六年1547。
       頼純は、道三に殺害された。
       光秀は、主君を失った。
       以後、牢人となる。
       光秀は、越前へ逃げた。
       光秀は、まだ、独身だった。

       天文十九年1550。
       道三は、土岐頼芸を追放した。
       道三の下剋上、成る。

       弘治年間1555~1557頃。
       光秀は、妻木氏を妻に迎え。
       永禄元年1558頃、長女が生まれ。
       永禄六年1563に、三女が生れた。 

光秀の年齢  土岐氏の跡目争い。
       頼武と頼芸。
       守護の座をめぐる兄弟の戦い。
       光秀の明智氏は、土岐頼武の家臣だった。
       長井新左衛門(父)と若き日の斎藤道三(子)は、頼芸派。

       光秀は、土岐頼純の家臣。
       頼武の後を継いだのが頼純である。

       斎藤道三による下剋上が始まった。

       天文十六年1547。
       頼純は、道三に殺害された。
       光秀は、主君を失った。
       以後、牢人となる。
       光秀は、越前へ逃げた。
       光秀は、まだ、独身だった。

       天文十九年1550。
       道三は、土岐頼芸を追放した。
       道三の下剋上、成る。

       弘治年間1555~1557頃。
       光秀は、妻木氏を妻に迎え。
       永禄元年1558頃、長女が生まれ。
       永禄六年1563に、三女が生れた。



 ⇒ 次へつづく

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 「本能寺の変」
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