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世界の果てのギャラクシー(S21+ 5G)

ヘーゲルの形而上学的なキノコは科学の庭ではなく、太鼓持ちの肥溜めで育ったのだ。
(Hegel’s metaphysischer Pilz ist ja nicht in den Gärten der Wissenschaft, sondern auf dem Misthaufen der Kriecherei aufgewachsen.)

Hegel in Berichten seiner Zeitgenossen, hg. v. Günther Nicolin, Hamburg 1970, p. 221.
1821年1月6日にフリースがローディガーに宛てた手紙。Allen W. Woodの英訳を参考に拙訳。

キノコが菌糸体から発生するように、夢願望はこのネットワークの密な部分から発生する。
(Aus einer dichteren Stelle dieses Geflechts erhebt sich dann der Traumwunsch wie der Pilz aus seinem Mycelium.)

Die Traumdeutung, Sigmund Freud, 1900, p.307. 
A. A. Brillの英訳を参考に拙訳。

6日間のポルトガル旅行(リスボン・シントラポルト)を終えてロンドンに戻った私を待ち構えていたのは、私の想像力の範疇を遥かに超えた驚くべき風景の変容
であった。惑星的な規模で展開されるスマートフォンのモビリティ(移動性)は、私をよりスリリングで知的興奮に満ちた旅へといざなった。


海外旅行先でスマホを盗難されてしまった後の荒廃した生の可能性について

世界が崩壊し始めたとき、あなたなら何をする?私ならネットを徘徊し、運が良ければ盗難されたスマートフォンを見つけ出すことに成功したいと思う。まだ盗難ではなく単なる紛失だと思っているその時の私は、Googleの'Find My Device'を人生で初めて開き、私のスマホを探し始めた。その最終位置はロンドン行きのフライトに乗ったリスボンではなく、その午前中までいたポルトで宿泊していた私のホテルを示していた。ただ、最終更新時間がチェックアウト時の午前11時頃だったのであやしいとは思ったが、とりあえずホテルにメールだけ入れておいた。
私は混乱していた。どこを向いても同じ方向を向いているように思えた。私のスマホを見つけるために、どの方角に行けばいいのか見当もつかなかった。落ち着け、私。疲れていたので翌日にしようと思っていた荷解きをしながら、くまなくスマホを探した。やっぱりなかった。ここでポルトガルの昼の暖かさを懐かしみ、ロンドンの夜の寒さを思い出す。巨大な蜘蛛の巣の中で、手ぶらで道に迷っていることに気がついたのは、まだ明けもしそうにない暗い朝方だった。寝よう。明日また考えることにしよう。見えてきたのは、そう、海外旅行先でスマホを盗難されてしまった後の荒廃した生の可能性についてである。

不安定な生活は常に冒険である

翌朝、ふと目覚めると朝7時過ぎだった。寝れてない。夢だったりなんかして、とか、ひょっこりどっかからスマホが出てきたりして、なんて思ったが現実はそんなに甘くなかった。もう一度だけ、旅行カバンや衣類のポケット探す。ない、ないのだスマホが。
午前10時からの授業に出席。すると途中休憩で1本のメールが届く。ホテルからだった。2択、2択だ。ありました!!!とありませんでした。の2択だ。ふと、その時からちょうど1年ぐらい前にもらった大学院合格通知のメールを思い出した。行ける、行けるかもしれない。バカラぐらい絞りながら覗いたメールには「今清掃員が清掃中だから何かあれば、連絡する」みたいな返信があった。落ち着け、私。二択になった瞬間、その瞬間に、忘れ去られただろう第三項の存在を疑うことこそが哲学の本質ではなかったか。
お昼過ぎ、落ち着いてきている自分に気付く。Googleの'Find My Device'では、(動画、音楽やラジオの視聴のために使っていたサブのスマホだったので)そもそもデータローミングを切っているスマホを見つけられるはずがない。Samsung純正の'SmartThings Find'ならオフラインでも見つけることができることが分かり、「端末リモート追跡」サービスをSamsungアカウントで利用してみる。しかし、場所はGoogleのそれと変わらずリスボンのままだ。ああ、もう。一応、'Notify me when it's found'(見つけたら通知する)をオンにしておく。
リスボンのホテルから「探したけど見つからなかった」というメールをもらう。不確定性はかなり高いがもう仕方がない、自分の番号に電話してみよう。まだ紛失だと思っていたかった私は、それを見つけた者が善きサマリア人であれ、と願った。第八戒、汝、盗む勿れ、と祈った。電話が鳴りだす、7回目のベルの途中で音が途切れる、Hello?と聞く。反応はない。切られた。あぁ、切られた。もう一度かけてみる。次はベルも鳴らない。電源を切られた。あぁ、電源を切られた。これで終わった。もう、これで終わった。

午後9時過ぎ、FMM.noreply@samsung-mail.comというメールアドレスから「あなたのギャラクシー(S21+ 5G)が見つかりました!」というメールが届いた。早速リンクを開いてみると、それによると私のスマホは、スペインのブルゴス(Burgos)というマドリッドとビルバオのビルバオ寄りの間にある都市の近くの、高速道路のサービスエリア(ガソリンスタンドの休憩所?)にあるという。その約1時間後、同じメールが届く。そのまた約1時間20分後、同じメールが届く。そして、いずれもそのスペインのブルゴスという都市の近くの高速道路のサービスエリアにあるという。バグってんだな、GPSも機械もそして人間も。こんなの決してスマートでもなんでもねえ、と思って寝た。久々にぐっすり寝れた、翌日から長い冒険が始まるとも知らずに。

いわゆるレッドピル的メールだ。私はその時「不思議の国の門前」にいた。

ギャラクシー(S21+ 5G)の約3,500kmの旅路

翌日、授業が始まる直前ぐらいだから午前10時前だったと思う。前日のブルゴスの件が気になり、もう一度だけメールのリンクを開くことにした。そしたら、私のスマホはフランスのポワチエ付近にあるとそれは示していた。「動いてる!昨日から動いてる!」、そう心が高鳴った。別に盗難されたスマホが戻ってきたわけでもない、戻ってくる確証が得られたわけでもない、何一ついい方向には進んでいない。しかしなぜか私は興奮していた、私のスマホが移動していることに。そして直感した、「私のスマホはパリに向かっている!」と。
午後の授業が始まる直前か直後、つまりは午後2時あたりだ。落ち着け、私。興奮を抑えられないままリンクを開く。すると、私の直観通り、私のスマホはパリに到着していた。私が2011年から2012年にかけて約1年と少々住んでいた、あのパリに私のスマホがいるのだ!私が1番大好きで1番大嫌いな、あのパリに私のスマホがいるのだ!場所はパリ19区、19世紀にロシア帝国が連合国に敗北したクリミア戦争に因んで名付けられたクリメ通り付近だ。リスボンから約1,700km以上もの距離を、車で17時間以上かけて移動し、私のスマホはパリに到着したのだ。

パリ19区、クリメ通りで弱いシグナルを送る私のスマホ(13時14分)
パリ19区、クリメ通りで弱いシグナルを送る私のスマホ(同日16時27分)
パリ19区、クリメ通りで弱いシグナルを送る私のスマホ(同日18時56分)

14時からの5時間、私のスマホは少しの移動はあるものの、決してクリメ通り付近を離れることはなかった。そしてその日の19時の位置、つまり上の最後の写真の位置で動きが止まった。調べてみると、そこはホテルだということがわかった。無意味だと知りつつも、とりあえず紛失届をFrance Objets Trouvés, Lost Property Office, Prefecture de Policeに出し(2024年3月8日に取下げ。)、そのホテルにもメールを入れておいた。親切にも、そのホテルはすぐに対応してくれた。

紛失届のスクリーンショット(氏名、リストナンバー、携帯電話番号は黒塗り)
レセプションにもホテルバーにも届いてないとのこと。
もしパリにいるなら来てベルを鳴らしてみてチェックしたら的な。

本気で週末にでもパリに行こうかとも思った。でも、私がパリに移動している間にまた私のスマホが移動してしまったら?とか考える。旅をするスマホ、逃避するスマホ。モバイルフォンから進化を遂げたスマートフォンは新たなモビリティ(移動性)を獲得した。その彷徨えるスマホの身体性はその移動に合わせて新しいリズムを創造しているのかもしれない。
そんなことを考えている間に、いつの間にか1週間が過ぎていた。その間ずっと私のスマホは新しい都市での生活に満足したかのように、ピクリともパリ19区のクリメ通り沿いのホテルを離れることはなかった。
3月8日、つまりは盗難されてから約10日後、私のスマホはアルジェリア北西部にあるモロッコとの国境近くにある都市、トレムセン(Tlemcen)に移動していた。リスボンからパリを経由してトレムセンへ。合計3,500km以上の長旅である。また、直前までの位置情報から鑑みると、パリからトレムセンへは陸路や海路を使ったとは考えにくく、空路を利用したと思われる。
地図をズームインしてみると、とある電子機器小売・修理店で私のスマホはそのか弱いシグナルを出していた。ここからは想像の域を出ないし、また位置情報が間違っている可能性もあるため、その場所が特定できてしまう具体的な修理店の位置情報を写真で見せることは控える。しかしその翌日から、これまで何の問題もなかったはずの'SmartThings Find'での位置情報の把握ができなくなっていた。

トレムセン(Tlemcen)では皮革や絨毯などの繊維産業が発達しており、
ラシュグーン港からそれらを国内外に輸出している。
位置情報を教えてくれなくなった'SmartThings Find'

必要なのは翻訳ではない、Translationそれ自体である

ベルベル語で「泉、水飲み場」を意味するTilmasに由来するというトレムセン(Tlemcen)というこの都市は、まさに「名は体を表す」という言葉通り、アフリカとヨーロッパの商人を結ぶ交易都市として栄え、そのため文化的にはベルベル人、アラブ人、アル・アンダルス、オスマン帝国、そして西洋からの影響が混じり合っている。サハラ砂漠の南で採れたアフリカの金はこのトレムセンを経由してヨーロッパの手に渡っていき、また東方(日本語でいう東洋)からの毛織物や絨毯や地中海で獲れた海産物がトレムセンのスークでは売られていたという。こうした異文化の交錯地点として「アフリカのグラナダ」や「西のメディナ」とも名付けられている。
その商業都市的な性格から、難民や移民、そして入植者たちを寛大に受け入れてきた歴史を持つ。一方でスペインを逃れたユダヤ人やイスラム教徒を受け入れ、他方でフランス人入植者たちにとっての保養地、そして隠れ家的な役割を担うようになる。あのアルジェリア戦争の最中も、首都アルジェと比べると比較的静かだったとされている。政治から隔離された商業都市。血みどろの政治的平和より穏やかな経済的暴力を優先した都市。
そんなトレムセンという都市に私のスマホはリスボンからパリを経由して渡った。私が行ったことのない都市、いや名前すら知らなかったような都市、つまりは私の中に存在すらしなかった都市。そのトレムセンという都市のスマホ修理屋さんで整形手術(Plastic Surgery)を受けることで、その所有権は私の手から離れ、死後の生、つまり中古品としての新しい生を授かった。私は落ち着いてきた。私に必要なのは翻訳ではない、Translationそれ自体である。
おそらく、私のスマホはポルトのホテルをチェックアウトしてからリスボン空港への移動の間、つまりポルトからリスボン・オリエンテ駅、そしてオリエンテ駅からリスボン空港への移動中に盗難されたことが事実から推測できる。どう盗難されたのかは想像もつかない。しかし、確かに私のスマホはその運び屋によって車で17時間以上かけてパリに向かった。その運び屋は途中でサービスエリアで休憩を取っている。それがスペインのブルゴス近くの高速道路のサービスエリアである。パリではマッチメーカー(Match Maker)が盗難したスマホを仕分けしていたのではないだろうか。最新機種はヨーロッパの大都市でさばき、古めの機種はアフリカの都市でさばく、といった感じで。
そのコストに見合った分の商品が揃ってから空輸作業に移る。その間もヨーロッパの各都市で盗難されてきたスマホが運び屋によって仕分け屋の手に渡る。仕分け屋が手際よく市場価値を見定め仕分け作業を繰り返す。空輸用の盗難されたスマホが揃ったところで、別の運び屋が大量のスマホを持ってシャルル・ド・ゴール空港かオルリー空港に向かう。目指すはトレムセンである。約2時間20分の直行便だ。
トレムセンに着くと、運び屋は久しぶりに馴染みの床屋に顔を出す。「どうだい、パリでの仕事の方は?」なんて聞かれて「まぁまぁだよ」と答える。しっかりと刈り上げたサイドと整えられたヒゲのせいもあり、その運び屋はいい気分でスマホ修理屋に向かう。「最近、こっちへの量が少ないんじゃないか、ちゃんと公平に仕分けできているのか」などと嫌味をその修理屋から言われたりしても気にならない。なぜならサイドとヒゲが完璧に整えられているからだ。「修理」が終わり、運び屋のヒゲのように整えられたスマホの顔は、埃がつかないうちに透明なビニールケースに入れられ、値札をつけられた後にスークの中古屋ショップの店頭に並ぶ。
今度中学校(コレージュ)に入学する娘にその入学祝いとしてスマホを買ってあげる約束をした母親が、その娘と一緒にスークの中古屋ショップに立ち寄る。そこの店主が「割と安くてカメラの性能がいいのはこのSamsungのGalaxyだよ」とすすめる。娘はいくつか試し撮りをした後、「ママ、これがいい」という。値札を確認した後「ちょっとまけてよ」と母親。結局、店主は値札から10%ほど割引してあげる。「ちゃんと勉強するんだよ」と母親。娘はそんな母親を何枚か撮り、その中で1番綺麗に撮れた写真を1ヶ月ほど待ち受け画面にした。

もちろん、全てが私の想像を通り越した妄想である。しかし、私はカントの構想力(Imagination)とその自発性について、この想像を通り越した妄想を経験することにより腹落ちした(私のカント『純粋理性批判』の自発性の役割についてはこちらを参照下さい。)。感性と悟性の架け橋である構想力(Imagination)。感覚的データによって確かに私の感性は刺激されているのだけれども理解(悟性)が追いつかないのだ。なぜリスボンで盗難にあった私のスマホがパリを経由してトレムセンという私が知らなかった都市に移動したのか。その感性と悟性のギャップは、やはり想像力で埋めるしかないのだ。自発的な想像力を駆使して、感性から悟性へ橋渡しをしてやる。認知のギャップを埋めてやるのだ。本を読んで理解した気になっても、それについて書いて理解した気になっても、それは全く悟性ではない。悟性とは腹落ちする力である。私の感性が受け止められなかった現実を私の想像力が自発的にその架け橋となり、悟性によって処理することができるようにする。この惑星的モビリティ(移動性)とでも言うべき盗難されたスマホが作り上げる現実を受け止め、腹落ちすることができたのである。

境界的自由のポリフォニーが奏でる世界の神秘

ヨーロッパの大都市で繰り返されているスマホの盗難。それは法の境界線上に滑り込み、一瞬だけ法を無力化し、ハプニングという異物を混入させ、人の生をかき乱す。危険なピカっと光る一瞬に現れる「境界的な自由」の下で、協調的な集まりが生まれ、それぞれがそれぞれの翻訳に取り組み、変容した風景を生み出す。それは、偶発的な秩序、あるいは管理されたアナーキーとでも言うべきグローバル資本主義に対する両義的な態度を内包している。不安定で不確定性の高い現代において、最も価値が安定的で最も取引が確定的なスマートフォン。私はこの一連のハプニングを経験し、単純化された物語では回収できないような物語の複数性を垣間見、異なるリズムで奏でられたポリフォニーを聴いた。いや、正確に言おう。垣間見せられてしまい、聴かされてしまった。
私は完全に落ち着きを取り戻した。いかにして私は盗難されたスマホを取り戻すという本来の目的を忘れて、一連のハプニングを楽しむようになったのか。私は、それがたとえ一瞬だったとしても、いつの間にかどこかに置き忘れてきた好奇心、いやセンス・オブ・ワンダーを取り戻したのだと思う。私の想像力の範疇を超えたこの世界の神秘さや不思議さに感動してしまっていたのだと思う。
それはかつて山口昌男が論じていた、物語の祝祭性とそのエクスタシーだろう。彼の映画『カッコーの巣の上で』評で取り上げたワンシーン、精神病棟から逃げ出した主人公とその患者仲間らは、失われた自由を魚釣りを通じてひとときだけでも取り戻そうと試みるも、巨大な魚との格闘を機に、その船が方向を見失い海上を円を描くように回転する。本来目的であったはずの自由や逃走といった目的を忘れ、その単なる手段であったはずの魚釣り(これまた世界の神秘さである)に没頭し、それにのめり込んでしまう。その祝祭的な状況を説明するように、前へ進まずに同じ場所を回転し続ける方向感覚のない船が象徴的に描かれている。
私は、現在進行中の潜在的な現実の中から、その祝祭性とそれによるエクスタシーを取り出したかったのである。中古で売ったところで4万円もしないスマホは運び屋、仕分け人、修理業者、スークの店主、そして元締めにその売り上げが分配される。それと引き換えに、私は力強く動く惑星的なもの、その「何か性」を探求する準備が整ったような気がした。


この盗難によるSIMカードの紛失により、LINEの引き継ぎが失敗し家族や友人と連絡が取れなくなったり、インターネットバンキングアプリが使用できなくなったりする経験をもとに書かれることとなる「二段階認証的不安(Two-Factor Authentication Anxiety, or 2FA Anxiety)」や、後にペテンの配達人本人にとっての最大のテーマの一つとなる「惑星的な、越境的な(Planetary, Transboundary)」(グローバル(Global)を上書きするための惑星的(Planetary)をさらに上書きするための越境的な(Transboundary)もの)といったアイディアがここから加速度的に発芽していくのだが、ペテンの配達人自身がそれに気づくのはもうちょっと先のことであった。


【参考文献】

  • 山口, 昌男(2004 [1990]), 知の遠近法, 岩波書店, 東京.

  • Durand, Rodolphe and Vergne, Jean-Philippe(2013), The Pirate Organization: Lessons from the Fringes of Capitalism, Harvard Business Review Press, Boston.

  • Latour, Bruno(2013 [2012]), An Inquiry into Modes of Existence: An Anthropology of the Moderns, translated Catherine Porter, Harvard University Press.

  • Tsing, Anna Lowenhaupt(2015), The Mushroom at the End of the World: On the Possibility of Life in Capitalist Ruins, Princeton University Press, Princeton.

そのサポートは投資でもなく、消費でもない。浪費(蕩尽)である。なぜなら、それは将来への先送りのためでも、明日の労働のためでもなく、単なる喪失だからである。この一瞬たる連続的な交感に愛を込めて。I am proud of your being yourself. Respect!