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雑記・随筆も、書くのが楽しいですね。いや、雑記や随筆こそ、書くのが一番楽しいかもしれません。
そしてこの誰に宛てているわけでもない文章が、漂流して、まったく見知らぬ(かもしれない…
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#心の健康
「痛い」と感じられるのはまず自分自身なのだから
痛いと感じるべき時に痛いと感じられるのは、 心身ともに健康な証拠。
痛いはずなのに、それを感じられなくなったら、 もう相当ヤバいと思う。
――だから、痛いと感じられるうちに、ちゃんと「対処」すべきなのだ。
自分の感じるべき痛みは、誰かが替わりに感じてくれることはない。
共感とか同情はあっても、 「リアルに」痛いのは自分自身。
痛いときに、痛いと感じる、それを認める――「誰より自分で真っ先に
今日の笑いにつられて未来も笑っていられるといいな
「笑い」もまた、
つられやすい感情であると思う。
で、他人のそれだけではなく。
「今日の自分」についても
できれば笑っているほうが、
「明日」とか、
何なら「未来」の自分も、
つられて笑っていられるような
そんな気もするのである。
運とは、
固体状のものではなく、
気体や液体に近いのではないか、
というようなことは、
いくつか前の記事に書いたことだが、
そう考えると、
「今の感情」は「未来の
「上機嫌」は自分のために(そのほうがいい)
以下は、昨日の記事の最後に書いたことなのだが。
但しこれ、「自分の周囲にいる人の『ために』」となると、ちょっと違ってくる気がする。――それでは「顔色窺い」になってしまって、余計な所に力が入り、余計なものが混ざってくる気がするのだ。
最終的に上機嫌は、「演じるもの」ではない。――「周囲に気を遣って、上機嫌でいましょう」というのでは、「機嫌とは別物」になってしまう。
「自然とその人の内側から湧い