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「仕方なくしてあげる」感はゼロでいきたい
100%純粋に「自分がそれをしてあげたいからそれをするのだ」 ならいいのだが。
そうでなければ、何についても、「してあげる」って感覚から動くのは、なるべくならナシにしたほうがいいのかもな。
「してあげる」行為に「見返り」求めた挙句、「それがない!」とか、「こんなにしてあげているのに!」とか、怒るのも無駄だし、そこにもまた「消耗」があるし、あるいはそこから「徒労感」「疲弊感」「虚脱感」「孤独感」も発生もするし、何より、なんだかみっともなくもなるしな。
(「100%純粋に自分がしてあげたいからしてあげる」だったら、そういうことはなくなる。)
向こうからしてみれば「別に頼んでねーし」とか「嫌なら無理してまでやってくれなくても」とかあるかもだしな。
そこら辺の、双方の完璧な意思疎通、意思確認なんて、もとから(たとえすごく親しかったとしても)難しいわけだし。
「できない」「やりたくない」という「お断り上手」になりたいものだ。
「気遣い」「遠慮」って、美しい側面もあるけど、 過度になると害になる。――割と「害になる」パターンのほうが、 多いんじゃないかな、なんて思えてきた、最近。
「遠慮」も「気遣い」も、「自分がしたけりゃしたいようにする」 ってそれまでだ。
――そっから先、「じゃ、今度はこちらにも」なんて求めると、「かえってよろしくないこと」を、わざわざ発生させてしまう可能性があるわけだから。
そして、価値観というものは千差万別、人の数だけあるし、 どっちが善とか悪とか判らん言いきれん部分もいっぱいあるなら、 「(他人じゃなくて自分の感覚・善悪で)したいことをしたいようにする」のが、なんだかんだ言って結局一番いいような気がする。
「誰からもやさしくされない・誰からも気にかけられない」 というのは確かにツラいが。
「誰にもやさしくできない・誰をも気にかけられない」 というのも、実はツラいことだと私は思う。
そして。
「どちらがツラいことなのか」っていう問いには、「後者のほうが、圧倒的に実はツラいんじゃないかな」とも、この頃思うのである。(あくまで自分の場合は、だけど。)
自分から思う気持ちのほうなら、 それが本物ならば少なくとも「絶対本物だ」って信じられるしなあ。
「不確か」なものより、そんな「確か」な「本当のもの」に基づいて、行動したいじゃないですか。