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記憶次第-人生の「いいところ」だけが残ったなら-
個人の脳内の「記憶して置ける容量」には、限りがあるだろう。
ならば、「良い事だけ憶えておく」ができたらいいのになあ、と思う。
――が。
それはやはり「理想論」ではある。(笑)
に、しても。
何故、「悪い記憶」を、わざわざ憶えておく必要があるのか??
――何かしら「意味」がないと、何だかその機能部分、ムダでしかない気もするのだが??
うーん。
どうしても忘れられない悪い記憶は、多分、いずれ使うことが予測される「実用書」みたいなもので、「今後に向けての教材」なのかと。
――そう理解しておくのが、吉なのかもしれないぞ、と。
その代わり。
「教材」として何かにある程度役立てられたと感じたなら(それには、悪いことのその繰り返しを「未然に防いだ」ということもまた含まれるだろう)、「お役御免」と考えて、意識的にでも断捨離してもいいのかもしれない。
――ま、狭い家の中に、延々と「紙の本」を増やしていくことはできないのと、それは一緒だ。
そういうことならば。
本当に、「紙の本」を束ねて捨てるみたいに。
「悪い記憶」も、「もうこの教科書を参考にする場面はないだろうな?」と感じたら、ヨイショって、捨てるイメージをする。
(一気に捨てられない重たいものは、少しずつ、捨てていくイメージで。)
(ふっと、図らずもそれを思い出してしまった時とか。――そういう時があるいは「捨て時」なのかもしれない。
それは例えば、呼気や、涙や、あるいは場合によっては言葉といっしょに、少しずつでも、内から外の世界へと、吐き出していっているということなのだろうと思う。)
すると。
それだけで実際、(少しずつだとしても、)心は軽くなっていくような気もする。
我々の、身体中の細胞すら、すべて入れ替わり続けているのだから。
記憶も、「握って離さない」自分のその掌を開きさえすれば、「新陳代謝」は自ずと行われていくものだ(と、信じてみる)。
あとはもう、「使わなくなったもの」「いらなくなった(と、持ち主から判断された)もの」は、「時の経過」と共に必ず風化し、「今という時間」に浸食されていくはずだ。
――それが自然の摂理だから。(と、信じてみる。)
自分の掌を開く。
「用が済んだから捨てる」とイメージする。
そうすれば、「日にち薬」は必ず、効き目をあらわしてくれる。(これは経験則。)
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最後の最期には。
「記憶の本棚」にはやはり、「大好きだから」という意味での「これだけは捨てられない本」ばかりを、ずらーっと並べられたらいいなあ。
――どれもが、手に取って読み返したくなるような、そんなコレクションになったらいい。
背表紙のどのタイトルをみても、うれしくなるような、そんな記憶のライブラリーを、いずれは完成させたい。
と、いうような、そんな心づもりで、今の日々をまた送ろうと、私は思う。
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