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「心の毒になる」と知っていてわざわざ口にし続けることはない

自分の心の「毒」になること。

――まあ、確かに「毒をもって毒を制す」という言葉はあるし。

あるいは、一番初めなら、「それが毒とは気づかずに、」ということもありうるけれど。
(一度口にしてみたおかげでようやくそれが「毒」と気づく、というようなこと。)


しかし、「触れたら自分の気持ちが毒される」と知っている(または、気づいたその後)ならば。

そのことが「毒になる」と知っていて、その上でまで、わざわざ、それを吸収し続けることも、触れ続けることもないであろう。
(と、私は思うようになりました。笑)

自分の心(と、あとはそれに自ずと繋がっている自分の身体も)、それを守るために、「毒」には近づかないに限るわけである。



自分の「心」と「身体」を守るのは、自分自身の勤めであると思う。
(場合によっては、これがなかなか――そう、「簡単な勤め」ではなく、いろいろと工夫が必要になったりはしますけれども!笑)



人として生きている限り、自分に与えられた(あるいは現世にて自分に貸し出された)それを、自分自身で守るのが、一番大切な仕事ともまたいえるかもしれない。

――とはいえ。

「心を汚す毒」というのは、どこか、気体・液体に似た性質だったりもして。
漂ってくるそれを、「触れない」とか、「逃げる」「避ける」「除ける」とかが、難しい場合も多くある。


が、しかし。

「そういうものは自分の『内側』には入れ(たく)ない、近づけ(たく)ない」
という、「明確な防御意識」があるだけでも、相当違うと思う。



まあ、その「毒」が、どの位置にあるのか、どんな見た目をしているのか、その「位置情報」は把握しておかないと危険だから、「完全無視」というのもまた、なかなかできないものだ。

が、しかし。

「毒の存在」を、一度キッチリ「目視」だけしたなら、その後は。

「精神」「心」のエリアを、その「毒」に浸食させないように努める、ということは、少なからず、できると思う。
(その気にさえなれば。)
(逆に言うと、「その気にならないと」難しい、ということでもある。)
(または、「そう意識しないと」、気づかぬうちに「毒され(続け)ている」ものだということでもまたある。)

それには、
「自分の『感情』は、毒に反応させない。」
「自分の『気持ち』自体は、その毒に呼応させない・繋げない。」

更に言えば、
「毒を、自分の精神・心の域に立ち入らせない。」
「毒と、自分の精神・心のエリアを完全に切り離す。」

という意識も、更に持つことが、肝要なのだろうと思ったのである。