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あなたのしにたいは、どこから?

海と山に囲まれた田舎の中学を卒業してすぐ
僕は東京に行きひとり暮らしを始めた。

中学は引きこもっていてほとんど行っていない。
人と話す機会もなく、コミュニケーション能力が小学生で止まったままひとり上京して生活費と通信制高校の学費を稼いだ。

思春期に誰とも関わらずにプライドだけがめきめきと育ち、そのまま現在に至る。

友達が出来ては距離感をおかしくさせて縁を切り、
仕事を始めては群れのノリに耐えきれずほぼ全て1年以内にバックれ
恋人には負の感情を出すことができず、結局誰とも1年以上続いたことがない。

人と深く繋がることができない。

心の中で人に多くを求めるが、思い通りに動いてくれない。
それを見て勝手に裏切られた気分になり、自ら関係を切ってしまう。

メンヘラの教科書のようだ。


原因は自分にある。
シャットアウト癖、被害妄想癖。
相手を信じることができずに、勝手に感情が暴走してしまう。


「この自分のシャットアウト癖のルーツはどこからきてるのだろう?」


僕が誰かに過去のトラウマを話す機会があるとき、
出来事を淡々と喋ってる自分にふと気が付いた。
「昔の話だからね」というように。

「エピソード」だからスラスラ言葉は出てくるし、気を使わせても嫌だからサラッと言うようにしていた。

自分で喋っていて、あるときそこに強烈な違和感を感じた。

「今でも小学生のまま時が止まってる自覚がある。思春期が終わってない感じがしている。それほど中学のときに大きな何かがあって、浄化されていない何かがある。なぜ僕は、乗り越えたようにサラっと話している?」

「こうやってトラウマを人に聞いてもらっている。
それなのにいつまでたっても浄化しないのはなぜ…?」


「…あぁ、そうか。」


「感情を置き去りにしている。
そのときに傷ついた気持ちを話していない。
なかったものにして蓋をしている。」

今の僕を作り上げているのはあの頃の僕だ。

孤独を感じていて、辛い。
自分の価値がわからないから、誰かに認めてもらっていないと不安でたまらない。
思い通りに人が動かない怒りが爆発しそうになることが多々ある。

それはあの頃だって同じだ。
今と同じことを思っていた。

ふと死にたいと思うこともある。
今のぼくの「しにたい」はどこからきているのか?

あの頃に決まってる。

あの頃ぼくは、何に傷つき、何に悲しみ、どんな信念をつくったのだろう。
あの頃のぼくの望みはなんだっただろう。
誰に、何をして欲しかっただろう。


毎日のように自問自答するわりには、過去のトラウマの感情にふれてこなかったことに気が付いた。


過去にどんな出来事が起きて、何を感じたのかを書いてゆく。

いまからは自分語りの時間だ。

イタい文章を、読んでもらいたい人達がいる。
その人に届けばいいと思う。

僕の最初のわがままな文章だ。




僕は3人兄弟の末っ子で、7歳上の兄と5歳上の姉がいる。
父は中学の教師で、めちゃくちゃ怖い。
家でも学校でも支配的で、母もDVを受けていた。

父にはもともと恐怖政治の才能がある。
それは声の質が特徴的だからだ。

父はかなりノイズが混じっていて、しゃがれたガラガラ声をしている。
その声を通すために喉を力ませてとても大きな声を出す。
声には常に力がこもっていて、近くにいるときの音圧がとても不快だ。

聴覚の刺激は感情が動きやすい。偏見を抜きにしても生物的な恐怖を感じやすい声だと思う。赤ちゃんに話しかけるといつも泣かれている。

3歳の頃、父と2人で風呂に入っていた。
その日はお母さんが帰ってくるのが遅く、僕は「お母さんはまだ帰ってこないの、お風呂はお母さんがいい」と泣いて駄々をこねていたらしい。

背の高い巨人に見下ろされながらギロッと睨まれて

「うるさい!!!!」

と怒鳴られた。
密室に2人だけ、声がよく響く風呂場。
叱りでもなんでもない純粋な怒りを向けられて、幼い僕は

「あ、殺される」と思った。


感じたのは「敵意」だった。
それが僕の最も古い記憶で、その恐怖から僕の人生はスタートした。

そこから僕の抑圧が始まったのでわりと歴史は深い。
その後父親に同じように怒鳴られたり、階段から引きずり下ろされたりする兄姉を見て、恐怖政治をいち早く理解し、保育園の年中になる頃にはもう自分のわがままを言わないようになっていた。
父に気に入られるように振る舞い、子供らしい遊びをし、無邪気な子供を演じた。


中学に入学してまもなく、反抗期がきて僕は初めて父に逆らった。
説教を無視した僕に近づく父に、暴れて抵抗した。体格が違いすぎてすぐ取り押さえられたがそれでもバタバタと暴れ、振り解いて家を飛び出て日帰りの家出をした。

兄と姉は、父に反抗することが出来なかった。
だからまさか、一番従順で末っ子の僕が反抗すると思わなかったのだろう。ガラスのハートが割れたらしい。

「今のアイツにとって俺はいないほうがいい」と思ったらしく、次の日から父は家から居なくなった。
メンヘラの親はメンヘラである。結局1年以上帰ってこなかった。僕のためと言いながら、結局のところ僕と向き合うことをしなかったのだ。

今思えばここで反抗のストッパーがいなくなったことが僕の人生の岐路だった気がするが、当時の僕は「やった嫌いな奴がいなくなった!自由だ!」くらいに思っていて、父のことは大事に捉えていなかった。


僕は母のことが好きで母といられればよかったから。


兄も姉も上京していたので、ほとんど関わることのないジジババを除けば家には母しかいない。
実はその頃こういうゴタゴタのせいで不登校になっていた為、中学1年の夏休みからはずっと母と家で過ごしていた。

母のことは好きったが、反抗期にそんなことは関係なかった。むしろ好きだからこそ、親離れしたくてもできずに苦しんだ。

状況が父と違うのは、父がいなくなって全ての反抗の矛先が母に集中したことだ。それに加え家には母と僕だけで、当の本人は不登校。母には逃げ場がなかった。

抑圧の原因の父がいなくなったことで、抑えが効かなくなった。
今まで我慢していた態度、今まで言えなかったわがままを全部吐き出そうとしたら、悲しみや寂しさも全て怒りに変換された。

毎日母に向かって罵倒と暴言を繰り返した。
あれもこれも買ってこいと理不尽を言い、モノを投げつけたことも何回かある。


母は僕の奴隷になっていた。

その背中を見ると悲しさと怒りが無性に湧いてきて、それを怒号に乗せて吐き出した後は、虚しさに襲われた。

なんでも言うことを聞かれると、理不尽を言った身でありながら気持ちが悪くなった。
無償の愛を受けたい気持ちと、1人の独立した大人として扱ってほしい気持ちの両方が混ざっていた。

反抗期のテンプレートではあるがこの不安定さを友達と共有することもできずに、離れたい親とは距離が近すぎることで余計に心はぐちゃぐちゃになった。


でも、幼い頃言えなかったわがままは言いたい。幼少期の自分の為に抑圧を解放したかった。
「ゲームを買ってこい!!」と僕はわざと偉そうに怒鳴る。
幼少期の自分が言えなかったことをそのまま言っただけで、そこまでゲームが欲しいわけじゃなかった。新作のソフトを4本買えば、もう2万だ。

でももう母は、僕が何を言っても拒否しなくなっていた。

どんな理不尽な要求をしても、「ごめんね」を繰り返した。それが僕には突き刺さった。

わがままを通せて嬉しいのに、悲しい。
わがまま言っても何も怒られなくて、自由なはずなのに息が詰まる。
奴隷になった母を見て、言葉にできない感情に襲われた。



母親にボールを投げようにも、母と僕の間には見えない壁があって、必ず跳ね返ってきて僕にぶつかる。母はそんな僕を見てうろたえながら、別の場所に移動する。でも透明な壁は僕を360℃囲んでいて、どこに投げてもボールは跳ね返って僕を傷つける。やり場のない怒りと悲しみにやけくそになって、泣きながらボールを投げては、傷を増やした。
僕は絶望し、そんな僕を見て母も絶望した。
突破口が見つからなかった。


母は、病的に優しい。
仕事も辞めて、僕を一番に考え、自分の感情より僕の気持ちを優先しようとした。
でも、父からDVを受けていた母は服従することがクセ付いてしまったのだろう。どうしていいのか、僕にとって何をするのが正解なのかわからなくなっていたらしい。

パニック障害も抱えていて、僕が小さい頃から常に寝たきりでいるほど体がとても弱く、思考停止することも多々あった。
それでも、暴飲暴食する僕のことを想って栄養を摂れる料理を作ってくれたし、理不尽な買い物も、深夜を回ろうと嫌な顔ひとつせず車を走らせてくれた。



ある日の夕方、いつものように僕はお菓子を買ってくるように言った。母は「ごめんね、早く買ってくるからね」と僕の言うことを聞いて買いに行ったきり
そのまま帰ってくることはなかった。

夜になっても

次の日も

その次の日も。



死んだか。



もしくは、捨てられたか。


いずれにしても、原因はわかりきっている。
僕のせいだ。



その日の感情は思い出せない。おかしくなっていた。



警察に捜索願を出してからはとにかく不安でいろんなことをぐるぐると考えて、その間は落ち着かなくて学校に行った。

実は母が失踪する少し前から、僕は少しずつ学校に通うようになっていた。友達は元からいたので、家に遊びに来たり、仲良くやっていた。

母がいなくなったことで、少しでも気を紛らわしたくて学校へ行ったのだがそのタイミングでその友達を中心にのクラス全員に囲まれて、イジメにあった。

胸に穴が空いてポキっと心の折れる音がした。
無表情なのに涙が流れたのは初めてで、変な感覚だったが涙は止まってはくれなかった。
イジメられた原因はよくわからなかったが、そんなこと気にもならないくらい深く傷ついた。

母に対しての複雑でモヤモヤした痛みとも、突然いなくなった時の痛みともまた違う、スパっと刃物で切られたような傷だ。
混じりっけの無い純粋な悪意だからか、切り口は鮮やかで、とても傷が深い。初めて友達に向けられた露骨な悪意に悲しみが止まらなくて頭を抱えて毎日泣いた。

そうしてまた引きこもったけど、母はもういない。

襲ってくるフラッシュバックは、わめきちらしながら部屋中の物を蹴ってごまかすしかなかった。目を閉じたら鮮明に映像が流れてきて、焼き付いてすぐには離れない。

悲しさを打ち明けることも、八つ当たりをすることもできない。
もしかしたら、もう一生そんなことできないかもしれない。僕のせいで。
不安でたまらない毎日を過ごした。




1週間たって警察から連絡がきた。



母は生きていて、病院にいるらしい。

しばらく帰れないとだけ伝えられた。

これは最近知ったのだが、失踪した当日はノイローゼになって病院に行き、そのまま入院したのだという。


とにかく安心した。帰ってくるまでに、元気な姿を見せられるように、なんとか僕も落ち着こうとした。

まずは、母がいなくなって2ヶ月ほど、ジジババのカップラーメンと冷凍食品しか食べていなかったので飯を作らせに父親を呼び戻した。

1年ぶりに帰ってきた父親は、恐怖政治の見る影もなく、人が変わったように僕に媚びるようになっていた。母のようにオドオドはしていなかったが、僕の言うことはなんでも聞いた。叱ることは一切なくなり、僕のご機嫌を取るようになった。

こいつも奴隷になったか・・と思ったが、あまり父親には関心がないので特になんとも思わなかった。

ちなみに両親ともに帰ってきた時、自分達が出て行った時の話は一切しなかった。僕の反抗についても全く触れなかった。話を聞こうともせず、何事もなかったかのように帰ってきた。
本当に臆病な親である、俺によく似て。



母が帰ってきたのはそれから半年後だ。


時が経ち、僕はほとんど反抗しなくなっていた。



何事もなかったかのように帰ってきた母に対して僕はこう言った。

「俺、反抗期終わったよ。距離が離れたことと、時間が経過したことが上手く作用したんだろうな。今まで本当にごめんな。これから自立するからな。」

僕は落ち着いたトーンで喋った。
母は安心し、納得したように見えた。




我ながらよく一つも本音を言わなかったなと思う。
ぼくは嘘をついた。

反抗期なんて、ひとつも終わってない。今でもだ。

今ぼくが痛みと、苦しさと、悲しさと、寂しさを人に伝えられないのは、適切に助けを求められないのは、あのときあんたが話を聞いてくれなかったからだ。あんたが俺のそばからいなくなったからだ。傷ついた。悲しかったし、寂しかった。もう終わったと思った。

その気持ちを、この歳になるまで忘れていた。
しばらくは、恨むことさえしてこなかった。

あのとき、僕は嘘をつかなきゃいけなかったからだ。役に入り過ぎた俳優と同じで、虚構を信じすぎると現実世界と区別がつかなくなる。当時の僕は自分が嘘をついているとは気付かなかった。役者になるしかなかったのだろう。大人になるしか、なかったのだろう。


「もう、お母さんに酷いことしないよ。
もう、わがままなんて言わないよ。
お母さんがいなくなったから、僕は反省できたよ。
お母さんが僕を置いて消えたことは、僕らにとって良かったことだったよ。
お母さんは間違ってなんかいないよ。
僕はたくさん反省したよ。
僕はもう子供じゃないよ。
僕はもう成長したから
もう大人になったから

お願いだから
もういなくならないで」

もうあんな怖い思いはたくさんだ。

母を家に居続けさせる為の整合性のある嘘を並べて、できた大人を演じた。

人に多くを求めない、とか
悲しい辛い寂しい痛いという負の感情を人に話さない、とか
わがままを言わない、とか

「成熟した大人であるべき」を信念にして、今まで生きてきた。
でも、心の中では違う。10年以上熟成された感情が、今にも腹を食い破る勢いで出てきそうだ。今にも吐き出したい。頼りたい。求めたい。
自分が作り上げた信念に殺される前に。

ぼくの「しにたい」のルーツはここにあった。


母親は相変わらず僕の言うことは何でも聞いたが
僕は僕でそこまでのわがままは言わなくなって、「関係は」良好になった。

実際に自立を証明する為にも、一人暮らしをすることを決めた。母は何も否定せずに「頑張ってね、気をつけてね」とだけ言った。

両親は、僕のことをもう叱らない。何があっても僕の言うことを受け入れてしまう。彼らの弱さはここにあると思っている。じゃあどうすれば良かったのだろう。


【僕が本当に母親にしてもらいたかったことは何か】


最近、ぼくは仲の良い友人を傷つけてしまった。僕のコンプレックス、琴線に触れて僕の怒りを買ってしまったのだ。

友人は、僕を強く否定した。
それと同時に、僕の痛みに触れたことを謝った。

僕の傷みに配慮してくれて、同時に自分の意思を主張した。
心の内の何かが癒やされるのを感じた。


母親にしてもらいたかったことは、これだと気付いた。「要求の拒絶」と「感情の受容」だ。

例えば僕が夜遅くに「ゲームを買ってこい!」と言ったときに、

「お金も高いし、夜は寝る時間なくなるからいかない。その偉そうな態度も傷つくからやめて。」とキッパリと拒絶してほしい、ということだ。大人が、大人に対してとる態度と同じように接して欲しかった。そして話ができるくらいに落ち着いたとき、「急にあんな言い方されて驚いたよ。何かあったの?」と、対話をしようとしてほしかった。

これは、要求を拒絶して、気持ちを受容する行為だと思う。嫌なことには嫌と言って、同時に「あなたの痛みを知りたい、あなたの怒りや悲しみを教えて」という態度をとって欲しい、ということだ。能動的に、傾聴してほしい。その態度は人を癒す。

僕は「ワガママ」を受け容れてほしかったんじゃない。ワガママを言う「気持ち」を受け容れて欲しかっただけだ。

なんなら、「ワガママ」に対しては否定して欲しかったんだなとすら今は思う。叱ってもらいたかったのだ。

母の度を越した優しさや弱さはあるが、結局それは自分も子離れできずに僕を子供扱いしてしまった、ということだ。

だから僕は苦しかった。子供扱いをされて。
一人の、独立した大人として扱われたかった。

母親は気持ちの対話をしようとはしなかった。
母も臆病だったのだ。

ハッキリと厳しいことを言ってくれた友人と、それに耐えうる健康を作り上げた自分に感謝する。



ちなみに、1年前に僕は対話しようと試みて家族のライングループを作った。傷つき、傷つけあう為に。
そのとき本noteに書いた感情を初めて伝えてみたのだが、変わらず両親は僕に当時のことを謝り倒してくるし、なんなら金をいくらでもくれてしまうし、なんでも言うことを聞いてしまう。


子離れできない親とは、今距離をとっている。
もう還暦過ぎた人間に変わることは期待していない。恨みすぎて疲れたので、僕はもう親を諦めている。

とあるDVカウンセラーの著書に「妻が初めて暴力を受けたときにNOといえるか、いえないかがDV問題に発展するかどうかの分かれ目になる」と書いてあったが、母は長年父からのDVで僕が反抗期に入る頃にはもうNOと言えなくなっていたから、仕方のないことだとは思う。

でもこうやって、1人の大人として扱われる体験を繰り返さないと僕はいつまでも思春期のままだ。それを親に求めることはもうやめた。

いたいのいたいの、聞いとくれ

僕の心を具現化すると、おそらく包帯ぐるぐる巻きのミイラみたいな男が出てくるだろう。

どこに触れても、痛い。
ほんの些細な出来事でも痛みは大きいのだ。大多数の人と同じように触られると千切れてしまうほど痛みの強い個所がある。
僕が信頼しようとしてる人にそれを伝えると真っ先に「そんなに強く触ってないよ」「私は悪くないでしょ」「そんなつもりで言ってないよ」「あなたの考えすぎだよ」と言われ、僕の痛みを受け止めてはくれない。

それが何より虚しくて、怖いことだ。

それが怖くて悲しさも、寂しさも、痛みも全て溜め込んで、恋人にもずっと言えずにいて、自爆していた。



最近は健康が溜まってきて、体力が回復して、人と関わることが増えてきた。今まではそんなこと言ってる場合じゃないくらい重症だったけど今は「平穏」のフェーズが終わったように感じる。

傷つかなきゃ、得られないものを僕は求めている。
僕が大人になる為に、僕は痛みを伝えなきゃいけない。適切な方法で。
受容は自分1人で生成できない。僕は欲張りだから。でもそれがないと生きていけないから。

「しにたい」のルーツを知った。現実と区別がつかなくなるほど、「大人」という役に入り芝居をした。
嘘をつく人が信用されるはずがない。

自分語りはイタい。でも、その痛さも、知って欲しかった。それは「いきたい」のルーツでもある。

人と深く繋がる為に。愛される為に。
いつかは人を愛せるように。

痛みを覚悟して今日も人と出会ってゆく。


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