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北海道大学の研究室で受けた指導について(改)

概要

ここ最近、TwitterやYoutubeを用いた告発が盛んに行われています。なかには最終的に加害者から謝罪をもらったり、ついに退職まで行きついた事例もあり、インターネットの威力を感じます。

ただ、未だにハラスメントの類は軽視されがちで、被害者が泣き寝入りする事例は星の数ほどあります。特によく聞くのが教員から学生へのハラスメントで、私が現在進行形で苦しんでいる問題です。

そこで本記事では、2019年-2020年にかけて、私が所属している北海道大学医学統計学教室の横田勲先生(以下、Y先生)から受けた指導ハラスメントによって余計な苦痛を感じてからの心身の変化、休学、復学、そして現在へと至るほぼ一部始終を記します。

伝えたいこと

研究・教育の場が閉鎖的な環境に甘んじてハラスメントの温床にあることが画面越しのあなたに少しでも伝われば幸いです。

※注)当時を回想するだけで精神的に参ってしまいます。誤字脱字には気をつけますが、ところどころで文章や文脈が読み取りにくい箇所があることをお許しください。該当箇所は適宜直す所存です。

背景

自己紹介

私は2019年3月に都内私立大学の経済学部を3年次に卒業して、2019年4月に北海道大学大学院医学院に進学しました(応用経済学→医学統計なので、当然専攻も変えています)。後述の指導を受けたことをきっかけに精神を患い、病気療養の建前で2020年4月から2022年3月までの丸2年を休学しました。同年4月から学籍上は復学しており、2023年1月現在は修士2年次に在籍しています。来たる3月末日をもってハラスメント被害を理由に退学する見込みです。

研究室について

2018年10月にY先生が着任した新しい研究室です。2019年4月に私が入学してきた際はもう1人の同級生がいましたが、同年ゴールデンウィーク以降は彼の姿を見ていません。また、1人だけ博士課程の学生がいたようですが、挨拶すら交わしたことがありません。

Y先生のほか、秘書さんや研究員の先生がいました。とくに研究員の先生はたまにシュークリームをくれたりと、いずれも私に丁寧に接してくれました。たまに前任の先生が来てくれることもありましたが、機智とユーモアに富んでいて、とても話しやすい方でした。

進学する前の話

研究室訪問

北大に進学するにあたり、研究室訪問をすることは必須でした。研究室訪問とは具体的に、研究室でできることやできないこと、進学後の指導方針もろもろを教員と話し合う機会です。2018年の10月にY先生と初めて会いました。研究室訪問自体は大きな違和感も覚えず、何事もなく終わりました。以下に当時のメモを貼り付けます。

その際のY先生は多弁で親切というか、なんとなく気にかけてくれてる印象は伝わってきました。

それもそのはずで、実際に研究室訪問で指導教官の人格や思想を見抜くことは難しいです。面白い、楽しい、優しいなど、とにかく相手にポジティブな印象を植え付けて騙さなければ、人材は集まってきません。仮に退屈だったり辛くても、外部に対してはエキサイティングに振る舞う技術も、社会で生き抜くには必要なのでしょうね。

研究室訪問を終えた私は実際に大学院の入試を受けることを決意し、その後無事に合格しました。

ニンジンぶらぶら〜🥕

合格をメールで報告したときのY先生は(少なくとも文面上は)喜んでいましたし、私自身もこれからY先生と過ごす大学院生活が楽しみでたまりませんでした。しかしそこに暗闇が立ち込みます。以下のメールがそのきっかけです。

なんと、研究室訪問で聞いた話にはある種のポジショントークが含まれていた━━━つまり、飽くまで机上の空論で、実際にそうするかは別の話だということです。また理論やシミュレーションがメインとなる研究室なので、院生室の設備を確認するために以下のような質問をしましたが、

このように簡潔すぎる回答が返ってきました。ここまで短文でメールを返してくる人を見たことがなかった私は、思わず面を食らってしまいました。

当時、パソコンなどは研究室で用意するものだと思っていたのですが、まさかそれがないとは、いったいどうやって研究すればよいのでしょうか。どうやら思っていたスタイルの研究生活をさせる気はなさそうだと疑心暗鬼になりました。Y先生の返信からして準備する気配もないので、当時使っていた(画面がちらついて動作も遅いから実はあまり使いたくない)オンボロのラップトップを札幌に持っていくことにしました。新しいPCを家族におねだりするべきところでしたが、家族カースト最下位の私にそんな勇気はありませんでした。

このようなメールのやり取りを経て、果たして本当にこの研究室に行ってよいのかと自問しながら実家を離れました。思えば、このときからY先生に対する違和感や不信感は芽生えていたのかもしれません。ここまでが2019年3月末までの出来事です。

入学直後の話

ひとつの悩みのタネ

実験系と違い、理論系の研究室のいいところは紙とペン、それからパソコンさえあればいつでもどこでも勉強や研究活動ができてしまうことです。

学部時代は質問があれば教授の研究室にお邪魔するだけで、そこに自分の机があるわけではありませんでした。しかし大学院では違います。研究室に所属して、さっそく自分の席と機材を貸与され、講義、ゼミをこなしながら院生室で研究を始める…少なくともそんな印象を持っていました。

しかし入学を果たした時点で、自分の席と専門の和洋書はあれど、パソコンやモニタの用意はなかったので、初っ端から研究室でバリバリ研究活動を始めるのは難しい状態でした。そしてY先生の面倒くさがりな性格からコアタイムやゼミもなかったことが、「なぜ研究室に行くのか問題」をより色濃くしました。加えて研究室訪問時から一貫して、Y先生から「研究室にはいつでも来ていいよ」と言われていたからこそ迷うのです。

例えばこんなことを考えていました。

  • どのタイミングで研究室に行こうかな。

  • 勉強や研究活動は大学図書館や自分の部屋で完結してしまうけど、果たして研究室に行く意義は先生に質問する以外はどこにあるんだろう。

  • コアタイムがないということは、真夜中や早朝でもいいんだよな。

いろいろな思いや迷いが頭をよぎりました。

ただし先述の通りコアタイムやゼミがないので、先生は研究室に行く時間は自分の裁量でしっかり考えろということを伝えたかったんだろうなあと割り切ることにして、入学初日からの予定を決めていました。

ところが大学院の日程は不規則で、入学初日からいきなり夜間、土日までかけてみっちり講義があり、少なくとも4月半ばまでは平日の日中と休日の午後以降しか研究室に行けないことがわかりました。

また北大の施設や設備を使うのは初めてなので、まずはひと通り回ってみたいという気持ちがありました。そして、もし研究室に行っても文献を読むためのパソコンはありません。図書館ならば比較的新しくて使い勝手がいいパソコンが置いてあったので、入学してからしばらくの間、平日の日中は図書館で勉強して過ごしていました。また4月初旬は引っ越しが片付いているわけでもなかったので、自室で過ごす日もありました。

結果的に研究室の優先度は低くなってしまいましたが、全く行っていなかったわけではありません。平日の夜や休日の講義が終わったあとに立ち寄って、本棚に置いてある初見の本を開いて読んだり、私物を置きに行ったりと、少しずつできることをやっていました。ただし運が悪いことに、私が行ったいずれの時間も先生は不在のようでした。

研究室で最初に手に取った本はArmitageの和訳でした。

先生から受けたおもな指導

以下のことは4月初旬のとある1日にY先生から受けた指導ハラスメントです。

①理不尽な叱責

ある日、Y先生が学部生向けに講義をやるようなので、その話を聞くためにその教室に入ったところ、Y先生にギロッと一瞥されました。

また、その講義が終わったあとに研究室のメンバーで雑談をしていると、Y先生は私にだけやたらとアタリが強いことに気づきました。

そんな先生の態度を受けて私は「なんか悪いことでもしたのだろうか…?」と戦々恐々としていました。

そして不機嫌な様子のY先生と私で2人きりになって研究室へ歩を進める最中、突如として先生が激昂したのです。

Y先生「研究室に来い!!」
りす🐿「そういえば、引っ越したてで部屋にまだ家具が届いてないからもの寂しいんd…」
Y先生「わかってねぇな、だから研究室に来いってんだよ!!」

うんともすんとも言わせない、見たこともないすごい剣幕でY先生が迫ってきました。てっきり「なぜ研究室に来ないんだ」とか「何か悩みがあるのか」とか疑問形で訊かれると思いましたが、一方的に言われ放題。さすがにこれは予想外。

研究室にはいつでも来いと言われたのでその通りにしただけなのですが、先生が急にそのような態度をとった理由が当時の私にはわかりかねました。それよりも、冷静に指摘する前に感情に任せてキレるだけのロックな大学教員を初めて見ました。

しかしここで「Y先生が不在の時間に行っているし、いま研究室に行って何ができるんですか??」などと変に口答えしてもいいことなさそうですし、この調子だと何を言っても耳を貸さない雰囲気だったので適当に流しました。ひよっこな私の事情など微塵の興味もなさそうだったので、これ以降は積極的に自ら話すことは控えました。Y先生の目論見通り、私は彼の前で萎縮しはじめたのです。

②表情を見て察することを求める

すると次に彼は「俺の顔を見てどうすべきか判断しろ」という旨を要求し始めました。しかし、それは絶妙な信頼関係の下で成り立つようなもののはず。それこそ、今後少しずつ醸成していくようなことをすぐやれと言われたのです。

今の状態はまるで信頼関係などサバンナ状態。つまり、先生の要求は他人の顔を伺いながらヘコヘコ動くことを強要されたも同然なわけです。さすがにこれにはびっくりしましたが、すごい形相で命令されたものだから、その場だけでも従うしかありませんでした。それでも先生の顔がトラウマになって直視できず、今後先生と話すときは地面を向いて俯いていることが多かったですが。

③ゴミ箱を蹴って声を荒げながらゴミ捨てを強要する

研究室の中で、先生と私だけでなんだか凍りついた空気になっていました。ただ、とりあえず小腹が空いたのでおやつのバナナを食べて部屋のゴミ箱に捨てたところ、鬼の形相でゴミ箱を蹴りながら

「ちげぇよ!お前がゴミ箱に捨てるんだよ!!」

と声を荒げて、ゴミ捨てを強要されました。

捨てて欲しいのならシンプルにお願いすればいいのになあと思いながらも、逆らったら面倒なことになりそうなので渋々ゴミを捨てに行くのでした。

ゴミ捨てから戻ってくると先生はそのまま鬼の形相で突っ立っているままでした。さすがに恐怖を感じたので、私は研究室からそそくさと退散して、夜の講義があるまで自室で一旦落ち着くことにしました。律儀ながら去り際に「お先に失礼します」といったところ、恨めしそうな目つきで「…いいよ」って返事をもらえたのですが、一度帰宅してから研究室のSlackを見てみると、「夕方の講義が始まる前に一度研究室にきてね」と伝言があり、また何か怒られるのかと冷や汗をかきました(従順に行ってみたところ、ただ講義の準備を頼まれただけでした)。

④酒癖が悪い先生のサンドバックにされる

その日の講義が終わったあと、大学近くの飲み屋に誘われ、そこでもお説教は続きました。私はまだ学生の身分しか経験していないのですが、「学生気分でいるな」なんて上司が新人に使いがちな常套句も言われました。

仕事のつもりで取り組めと伝えたかったのでしょう。給与をもらっている新卒の労働者なら理解できますが、私は無給の学生です。雑用を押し付ける魂胆なのか、それとも勉学と研究活動に邁進せよ(現時点で研究する環境ではないというツッコミはさておき)という意味なのか、その真意は分かりかねました。

また、なぜ大学院に進学したんだと聞かれて正直に答えたところ、「お前モテねぇだろ」って暴言を吐かれたのも覚えています。

しまいには研究室の同期の名前を「○○ね、あいつぁもうだめだ!」と挙げて、「〇〇と仲良くしろとは言わないが、嫌っているのを顔に見せるな」など、訳がわからない忠告までもらいました。先生は感情を顔に見せてるのは指導なので許されるのでしょうか。

ちなみに、途中から同席していた他の研究室の先生から、「あの人(先生)やべぇよ〜?」って耳打ちされましたが、実際にその通りだったので少しも驚きませんでした。

不愉快になったので、これ以降は2度と先生と酒の席に着かないと決めました。ただ幸いなことに私の薄っぺらな反応がつまらなかったのか、それともバツが悪かったのか、先生から声がかかることは2度とありませんでした。

ちなみに研究室の同期も先生に声をかけられていたようですが、適当な理由で断っていたようです。私も最初からそうすればよかったのですが、彼ほどのリスク回避術を持ち合わせていませんでした。

⑤挨拶を無視する(おまけ)

これだけは別の日ですが、Y先生を見つけた際に挨拶をしたところ、お決まりのギロ眼で一瞥されました。ぶっちゃけ大学教員相手に挨拶を返されないことって日常茶飯事なので、あまり気にしてないんですけどね。

研究室を変えるときの相談先

結果的に、Y先生に威圧的な指導を受けたショックで、4月いっぱいはほとんど研究室に行けない状態になりました。

進学して10日余りで、私は彼のことを一切信用できなくなってしまったのです。確かに研究室の件はこれからそうすればいいんだなと猛省しました。しかしそれを差し引いても、気さくな印象のY先生が強い態度に豹変したのがトラウマになって襲い掛かりました。もしここで私が研究室に行けば、Y先生による怒鳴られまくり蹴られまくりの激詰め指導が待っていそうだと考えると、腰を据えて学生の本分を果たすことは困難だと感じました。

つまり、この時点でもう研究室に行くどころの話ではなかったのです。早く研究室を移動したい、これ以降はその一心でした。決意するまでは遅くてもいいが、実際に行動するのは早い方が吉です。それにY先生を信用できなくなった以上は、彼の下で研究して修士論文を書くことは至難の業です。

そこで色々調べているうちに保健センターの存在を知り、私が抱えている悩みについて打ち明けることにしました。

保健センター

北大には精神科医やカウンセラーが常駐している保健センターがあります。さっそく抱えている悩みを相談したところ、医師とカウンセラーの両者から「研究室を変えることは可能で、意外といろんな人が途中で変えているのでよくあることだ」という旨の返事をもらいました。ただし保健センター主導で研究室を変えられるわけではないので、教務や移動先の先生にも相談せよとのアドバイスをもらいました。

教務

当時、教務に送ったメール

教務の方にメールを送ったところ、後日に研究室移動の手続きを説明されたあと、すんなり移動願を渡されました。あとは移動先の研究室を探して署名をもらえたらO.K.です。

ほかの研究室の先生

ちょうどその日の夜は修士課程の進学パーティーで、ほかの研究室の先生方と話せるタイミングがありました。そこでN先生に研究室を変えたい理由を打ち明けたところ、「まだ1ヶ月も経ってないのに早いなあ」と驚かれたあと、「でもそれは君が悪いよ」と宥められました。

どうやら先生方の連携は強いようで、少なくともY先生が研究室にいる間に私が姿を見せていないことが問題視されていた(?)ようです。(コアタイムがないとはいえ、)確かにそれは事実なので何も言い返せませんでした。せめてY先生がいない時間にちょくちょく研究室に行っていたこととか、パソコンがないことを言えたらよかったのですが、当時はそれよりもY先生が私にした指導の仕方が許せない気持ちの方が大きかったのです。それを訴えたところ、「まあYくんの言い方は棘があるけど、信用できないなんてそこまで…」と、ひとまず考えてやる旨の返事をもらえました。

とりあえず方向性としては、N先生の研究室で徐々に作業して慣らしていきながら、やがては研究室を移ろうという話で落ち着きました。まずは毎日朝8時から始まるセミナーに参加することから始めました。そのほぼ全てが英語でのディスカッションでしたが、リアルタイムの内容ばかりで、しかも「今を生きている」実感が湧いたので関心を持って参加できました。

しかし、本当に興味のあることは統計であることを背景に、夏が近づくにつれてその足も少しずつ遠のいてしまいました。

こうして私はうつ病になった

研究室は放置主義

先述の通り、4月いっぱいはほとんど研究室に行けない状態が続きました。その間は図書館にいたのですが、さすがにこのまま連絡を取らずに時間が過ぎるのはマズいかなと反省し、GW明けからは机しかない研究室に少しずつ通うようになります。先のことがあって最初は居心地が悪かったのですが、通い慣れるまでそこまで時間がかかりませんでした。

札幌は5月初旬まで桜が咲く

気づけば率先して研究室に通っては情報をくれていた同期ですが、これ以降、彼の姿を見ることは講義を含めてありませんでした。

ただし、研究室に行ったからといって、Y先生からなにか特別な指導やお話が聞けるわけでもありませんでした。研究室での過ごし方は本を読んでノートを取るくらいでした。先輩も同期も後輩もいないだけにみっちり厳しい指導をしてもらえるものだと思っていたので、思わず拍子抜けしたくらいです。そう、私が入ったY先生の研究室は厳しさもクソもない、いわゆる放任放置主義だったのです。

基本的に、何かあったら質問してねというスタイルでしたが、下手な質問をしたり、タイミングを間違えたらまた怒鳴られそうで(実際に怒られた)、余計に緊張して質問できる環境にはありませんでした。

一筋の光

それでも明るい兆しは訪れます。5月下旬のある日、自前のオンボロラップトップを持ってきたところ、その画面の小ささと古さを見かねたのか、Y先生が「モニタとかマウス買うか?」と訊ねてきたのです。私がすかさず首をブンブン縦に振ると、Y先生は生協のカタログを差し出して、私に好きなものを選ばせてくれました。

当時の私はあまりガジェットに興味がなかったので、適当に安めなものを選びました。他にもキーボードのこだわりなどマニアックなことを訊かれましたが、よく分からなかったので無難なものにしました。

支給されたモニタ(上)、下は私のオンボロノートパソコン

これで少しは研究室らしくなってきたのですが、なぜかパソコンだけは買ってくれませんでした。ではどうしたかというと、自前のオンボロラップトップと有線接続しただけでした。ただ、これでもいくらか見やすく快適になったので、研究室での人権を諦めていた私にとっては少し嬉しい誤算でした。

ちなみに、学部の講義でパソコンの話題になったときに私が「そういえば研究室にPCないじゃないですか」ってつぶやいたところ、Y先生が急に「いやいやいやこれには理由があってね…」と慌て出したのが滑稽でした。その後ようやくパソコンを買ってくれたのですが、そのころには既に6月の後半あたりで、入学から2ヶ月以上が経っていました。ところでパソコンを買ってくれなかった理由ってなんでしょうね。

ストレス太り

ある夏の朝、身体がやけに重たいことに気づき、そのまま大学に向かいました。そこで2ヶ月ぶりに他の研究室の同級生と顔を合わせたところ、太ったことを指摘されました。「そ、そそそんなですか!?」としか咄嗟の返事ができませんでした。

その同級生は「北海道は美味しいものがいっぱいだからな、食べすぎだぞ!」と私を軽くおちょくっていましたが、これまで北海道特産の美味しいものはあまり食べていません。これは間違いなくストレス太りでした。

その日帰宅してから、自室になかった体重計を購入しました。そして、いざ届いた体重計に乗ってみると、札幌に来てわずか3、4ヶ月で体重が62kg→77kgと、15キロも増えていたことが判明しました。

実は「このままではいけないことは理解できるがどうしようもできない」葛藤に勤しみながら、毎晩のように発泡酒を2缶飲んだり、スナック菓子を一気に平らげたりしてなんとか気を紛らわしていたのです。札幌で新しい友達を作っておらず他人との交流がなかったゆえに、自分が太ったことすら認知できなくなっていました。

気分の落ち込み

8月には大学院の講義の試験があったのですが、頭が真っ白になり点数も振るわずで散々でした。問題は、それが先生の試験なものだから、余計に顔を合わせづらいことです。試験が終わった翌日にさっそく研究室に行こうと思っていたのですが、自分にはあそこにいる資格はない、先生に合わせる顔もないということで気分が落ち込んでしまい、夏休みの間は一度も研究室に行けませんでした。

そして決定打になったのは、提出課題に手がついたはいいものの結局出せず、初めて専門の講義の単位を落としたことでした(これもY先生の講義でした)。パソコンの前で「不可」の文字を見たことで、今まで積み上げてきたものがガラガラと崩れ落ちる音がしました。この世で生きる価値はないのだと、突如として自責に駆られるようになりました。それも束の間、今度は緊張と焦燥感からか、火照った身体の奥からヒートアップした鼓動を感じながら自室で寝込んでしまいました。

精神科に行くきっかけ

そんななか、9月半ばに仲の良い高校時代の先輩が学会で札幌に来るようで、その折りに話してみようと思いました。そして悩んでいることを話したところ、「お前それうつ病だから病院行け」と真面目に言われ、隣にいた先輩の友人には「大学教員は人格者であるとは限らない」と忠告をもらいました。当初は、そうかこれが鬱なのか、こんな感じなのかと自己観察していたのですが、時間が経つにつれて精神科に行くべきかどうかを真剣に考えるようになりました。

先輩が必死にオススメのアニメを私に布教していたところをみると、これでも見て休んでろと、少し気を遣わせてしまったのかもしれません。

久しぶりに研究室へ

気づけば10月に入るところでした。夏休み中に大学構内の図書館に行くことはありましたが、研究室に関しては8月の初旬に行ったきりでした。先生に何を言われるか、何をされるかが恐ろしくて夏休みの間は結局研究室に行けませんでした。それでも後期が始まったということもあって2ヶ月ぶりに研究室に行く決心がついたので、さっそく外に出ました。

さっそく研究室の扉を開けると、先生と秘書さんが挨拶を返してくれましたが、うっ…なんだか声も視線も冷たい…。そして自分の席につくと動悸がしてくるではありませんか。先生に何も言われなかったけれど、これはこれで居心地が悪いし、なんだか…。

頭がくらくらして吐き気を催し、これはまずいなと思い、トイレへ駆けこもり嘔吐をしました。荒い息を落ち着かせて、冷静に思いを巡らすことに集中しました。おそらく先生がいる研究室が苦痛になっていたのでしょう。さすがにこの状態は異常だと悟ったので、まずは研究室から離れて、すぐに精神科に行くことにしました。

生まれて初めての精神科へ

精神科の予約を取るのは大変でした。幸いにしてすぐ診てくれるクリニックがありましたが、狭い待合室には長蛇の列が並んでいました。疲れてそうなサラリーマンのおじさんから主婦、老齢のお婆さん、私と同い年くらいの女子学生まで、老若男女がひしめきあっていた光景が印象的でした。

私の番が来るまで1時間近くはかかりました。簡単な検査や本格的な医師の診察を受けたりした記憶があるのですが、当時の詳しいことは覚えていません。ただ帰宅するまでの間、いくらか救われたような安心感と、自分もここまで堕ちたかと絶望した気分がひたすら交錯していました。

後日、再び診察を受けたときに、中等度のうつ病との診断をもらいました。そこでプツッと緊張が切れたのか、しばらく寝込む日々が続きました。

先生に相談

うつ病になったことをY先生に報告するかは迷いましたが、とりあえず形だけでいいから先生に連絡した事実だけは残しておこうかと思い、意を決してY先生にメールをしました。

すると、どこかY先生らしくない丁寧だけど簡潔な返信がきました。

翌日、約束の時間にY先生の居室で話しましたが、当然ながら本当のことは言えませんでした。俯きながら最低限の相槌や返事をするにとどまりました。就職活動するのか、実家に帰るのかなど、いろいろ聞かれました。その中で印象的なやりとりをあげておきます。

Y先生「大学院が閉鎖的だなんて当然。それにうつ病だなんて…みんなそんなもんだよ」
りす🐿「みんな、ですか」(心の声:みんなって例えば誰だよ…)
Y先生「そう、だからそんなものには負けるな」
りす🐿「はぁ」(心の声:ぼくがこうなった原因はあなたなんですけどね…)
Y先生「まあまたやる気が戻ったら研究室においでね」

最後に唯一「とりあえず外には出た方がいいぞ」と有用そうな助言をもらったところで、相談は終わりました。

徹底した放置主義

それ以降、研究室には必要最低限の出入りしかしないようになっていました。とにかく誰とも顔を合わせたくありませんでした。ただ調子がいいとき、誰とも顔を合わせる心配がない夜に忍び込んでは洋書を読み耽ったり、研究室のパソコンをいじったりと気ままに過ごしていました。

12月以降は体調が悪化して、唯一取っていた研究室の講義を休みがちになりましたが、もはやY先生はなにも言ってきませんでした。

それからの過ごし方

部屋にいる時間は、カーテンを閉めた部屋で横になって鬱々と過ごすことが多かったです。加えて不思議なことに、なぜか2019年度の後期の目立った記憶がほとんどないのです。今でもときどきスマートフォンのカメラロールを見てようやく思い出すのですが、そこに行った、それが存在した事実だけが残って、感想や思い出話が浮かぶことはありません。

夏休みに高校の先輩に教えてもらったアニメは、内容は忘れましたが気晴らしにはちょうどよかったと思います。

相変わらず、まれにくる研究室のSlackの通知音を聞くたびに手汗をかいていました。

そして2年間の休学へ

休学願の提出

さて、修士課程の修了するにはあと1年必要ですが、満足に研究活動ができているわけでもなく、あのY先生のもとで耐える気力も体力もない私は休学を決意します。2020年の2月、さっぽろ雪まつりが開催されている頃でした。

新コロが流行り出した時期だった

この頃には研究室のSlackの通知音は切っており、そもそも確認することもありませんでした。

休学することを母親に相談したところ、「とりあえずゆっくり休んで」と労いの言葉をもらいました。

教務から休学願を受け取ったさいに、指導教員の署名が必要と説明を受けたときはドキッとしました。なんせ、Y先生にまた顔を合わせるのは懲り懲りでしたから。しかしよく話を聞いてみれば、書類上は別の研究室のS先生の下に所属していることになっており、つまり署名はS先生のものでいいとのことでした。私はなるべく早く自身の心に安寧をもたらしたかったので、すぐに休学願を一式埋めて、S先生に署名をもらい、教務に提出しました。休学理由には病気療養とだけ書いておきました。

休学することはY先生に報告しませんでした。署名は要らないですし、とにかく彼のテリトリーから離れることが病気療養の第一歩だと思ったからです。それに2019年の10月に相談に行ったさい、休学か退学を考えていることは連絡済みなので、いまさらその必要もないでしょう。復学したとしても彼のもとに戻ることはないだろうと覚悟をした上での決断でした。

休学願を提出したあとも、しばらくの間はY先生や研究室側からのアクションはありませんでした。

最後の連絡

しかし2019年度が終わる数日前、研究室のSlackから一通の連絡が来ました。送り主をみると、なんとN先生の研究室にいたはずの、顔見知りの留学生のλさんでした。どうやら次の年度から研究室を変えて、Y先生のもとで博士課程に進むようなのです。

おそるおそるSlackのメッセージを見てみると、「研究室にある私物を持ち帰れ」、「机下の物入れの鍵を返せ」といった類の文言が記されていました。

これを見た瞬間、私はY先生に対して微かな憤りを感じました。そう、この文章はλさんから送られていますが、何も知らないはずの彼が、自発的にこれを書くはずがありません。このメッセージは、Y先生がλさんを利用して私に送らせたのです。

λさんの連絡を踏まえてどうしようかと考えながら、年度が明けました。そしてλさんに返事をしようとSlackを開くと、なんとグループから退出させられたではありませんか!おそらく新年度が始まったので、Y先生の手で私のアカウントを粛清したのでしょう。

それと同時にメールを開くと、やはりλさんからメールが来ていました。Slackで見た内容と似たものでした。

追いメールとともに、一枚の画像が添付されていました。

私の机。夜間に出入りしていたので物置状態なのは知っていた

休学期間の過ごし方

ここは本題ではないので、軽く触れるだけにします。

まず例の新コロが流行りましたが、もともと札幌で一人だったのでなんの問題もありませんでした。むしろ心地よさを感じ、誰もいない中心街を、少し羽根を伸ばして悠々とお散歩しました。外に出る機会が増えたおかげで病気療養も比較的順調に進みましたが、家族仲が悪化したり、今後の人生に絶望したりと、途中から一進一退の様相を呈しました。本来1年だったはずの休学期間は2年に延長しました。

別の居場所を探すほどの気力体力はまだありませんでしたが、気が狂ったのか、就職活動をした時期もありました。運良く内定をゲットしましたが、就労意欲に溢れているわけでもなく、満足に勤労できる状態でもないので辞退しました。

休学期間中は、なるべくY先生や研究室のことは考えずに過ごしていましたが、どうしても当時を思い出しては胸が苦しくなりました。自身の無力感を悔い、あるいは自分が悪かったのかと自責の念に駆られては、虚空を見つめることが頻繁にありました。よく考えれば、ゼミもなければ指導というべき指導もされたことがないので、自分で勉強をするときや論文を読むときはとても苦労しました。もっと効率的な方法はないかと、とにかく試行錯誤する日々でした。

そんななかでもTwitter経由で自主ゼミに参加させてもらったり、札幌から離れて東京の研究会を見学したのはとてもいい刺激でした。

研究室からのアクション

研究室からの連絡はほとんどありませんでした。しかし、よほどさっさと退学をしてほしいとY先生が思っていたのでしょう、毎年度の前期と後期が終わる前のタイミングで、退学願に関する案内をわざわざメールで転送してくれていました。

それよりも、パンデミックで研究室入れない時期とかどうしてたんだろうって考えるとヒヤヒヤしますね。実際に何人か研究室から消えてますし。

復学後、そしていま

ここも本題ではないので、軽く触れるだけにします。

休学期間は2年が限度だったので、これを機に退学するか迷いました。ただし学ぶことは相変わらず好きなので、とりあえず退学手続きはせず、自動的に復学することになりました。

ただし復学したからといって、研究室や大学院から特別なアナウンスがされることはありませんでしたし、いまさら戻ることも考えられませんでした。

2022年の4月にもなれば、大学でも対面で講義をする科目が増えてきました。そこで、暇つぶしに経済学研究科や数学科の講義にモグリとして参加しています。それ以外は休学時の生活とあまり変わらず過ごして現在に至ります。結局のところ、別の居場所を探すほどの気力と体力は戻ってきませんでした。

退学願

ここ最近、さすがにそろそろ人生に区切りをつけなくてはいけないなと感じ始めました。その第一歩として、去る12月に退学願を出してきました。その理由がこちらです。

最後の一行は省いた記憶がある

それを見かねたのか、医学院の教務から少し話し合いがしたいと連絡が来ました。この期に及んでなにを宣うんだと斜に構えていましたが、どうせ死ぬしどうでもいっか〜と、軽いノリで話し合いのアポイントを取りました。

しかし話し合いとは聞いたものの、蓋を開けてみれば一方的に学内のハラスメント相談室や保健センターを紹介されただけでした。いずれも既に相談済みの場所で、そこにかかってもなお解決はできていないのが現状です。もうひとつの学生相談室には行ったことがありませんが、大学の対応にすら不満を感じ始めていたので、結局学生相談室には行かずに、退学願いを受理してもらいました。

ハラスメントに関して教務が動くことはないのかと訊きましたが、適当に先に案内したところに相談せよとはぐらかされたところを見ると、どうやら教務では対応してくれないようでした。

自分にできることはもう何もないのだと絶望していたさなか、偶然会った友達に思いを打ち明けたところ、SNSで告発をすることを提案されました。幸にしてその程度ならやる気力は残っていたので、何度も当時の記憶を思い出しては嫌な気分になることを繰り返し、そして今へと至ります。

これまでカミングアウトを避けてきた理由

精神的負荷

思い出すだけでも古傷が抉られるような感覚に陥り、記事を書いた日の生活は乱雑になります。実際もう1週間近くお風呂に入っていませんし、下着も変えられていません。

ただ、それでも記録に残しておかないと無かったことにされます。またY先生が「実力が足らなかった」とか「自分探しの旅に出ている」などと、私のことを適当に吹聴されるのも鬱陶しさを感じます。それよりかはこの程度の苦痛を味わった方がマシなので、気持ちの整理も兼ねて記事を執筆しています。

客観的な証拠に欠ける

Y先生は客観的かつ決定的な証拠が残らぬよう、Slackやメールでは無難な文面にしています。Y先生自身、「目に見えないハラスメントは問題にならない」と口にしていました。今回の告発に関しても、すべて共通するのは口頭での指導という点で、私が録音でもしなければ証拠は残らないようになっています。

カミングアウトを決意した理由

事なかれ主義に憤慨

国立大学も本質的にはお役所仕事なわけで、学内でハラスメントが起きないための抜本的な対策は何もできていないのが実情です。目の前にある問題に問題意識を抱かずに放置する大学側の姿勢に対して、悩んでいる学生は多いです。

2022年10月1日に北大ハラスメント相談室の予約をしたさいは、あまりに相談する人数が多すぎて3週間待ちでした。

実は一度だけ、ハラスメント相談室にかかったことがありました。その際は適当にあしらわれただけでした。具体的には、「ハラスメント相談室には教務に提案や働きかけができる程度で介入するほどの権限しかないこと、またそれを踏まえた上で研究室を移りたければ移動先を見つけて好きにしろ」という旨を聞かされた程度でした。教員への聞き取りとか処遇に関しては言及がありませんでした。

最初から学内の機関には期待していなかったのですが、これを聞いた私は失望しました。ただ悩みを聞くだけなら、ハラスメント相談室の果たしている役割はすすきのの風俗と一緒です。

そんな大学の現状を内側から変えることは不可能です。だからこそ、まずは皆さんに少しでも知ってもらおうというのがこの記事を書いたモチベーションです。

結語

ハラスメントを受けてからはや4年が経とうとしていますが、いまだに特別な連絡は来ていません。もちろん期待もしていません。なぜなら向こうは厳しい指導の一環だと思っているでしょうから。繰り返すようですが、もちろん厳しいもクソもない指導でしたし、指導というべき指導も受けていません。ただキツい人当たりをすることで厳しさを履き違えていただけでした。

別にY先生を辞めさせたいとか、研究室を移って研究に没頭したいとか、いまさら特に希望はないです。とにかく希望を奪われて全てを諦めている状態で思考停止しているので、今後のことを考えてもなんも思い浮かびません。まあ適当に生活保護でも受けて適当な時期に自殺しますかね。それまでは積んでる本でも読み耽っています。

長文駄文ですし、これ以上書くことも特に思いつかないので、ここら辺でお暇します。最後まで読んでいただきありがとうございました。

補足(21-04-2023)

去る3月に退学願を出した旨の報告とY先生へのお礼を兼ねてメールを送ったのですが、返事は来ませんでした。

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