佐賀県武雄市にある永林寺。 毎年、旧暦の3月24日に近い5月4日に「沖田畷の戦い」で戦死した開基の原直景公の法要を行い、直景公と戦没者を供養しています。 今年は沖田畷の戦いから440年ということで記念講演も行われました。 肥前の歴史を勉強しているのでお参りできてよかったです。
パワースポット再び。南島原市有家町の堂崎八幡神社。1584年の「沖田畷の戦い」前夜、島津家久公は単騎こちらを訪れ戦勝祈願をしたそうです。 キリシタンの有馬晴信公と対象的なエピソードですね😊 #堂崎八幡神社 #南島原市有家町 #沖田畷の戦い #パワースポット
慶長16年(1611)1月21日は島津家の最大版図を築いた島津義久が79歳で死去した日。義弘・歳久・家久という有能な弟たちを取りまとめる島津四兄弟の長男で父貴久から家督を継ぐと大友宗麟や龍造寺隆信らと争った九州三国志を制すも秀吉に降る。西軍に属した関ヶ原合戦の危機も乗り越えた。
天正8年(1580)4月27日は大村純忠がイエズス会に長崎と茂木を寄進した日。純忠は龍造寺隆信ら周辺勢力から長崎の権益を守るため巡察師ヴァリニャーノに申し出た。会の方針で所領の受領は禁止だったため対応に苦慮したが協議の末受け入れた。8年後に秀吉が同地を直轄地にするまで続いた。
天正12年(1584)3月24日は沖田畷の戦いで龍造寺隆信が島津家久軍に討たれた日。龍造寺軍は沼地・深田のあぜ道という畷の地形により大軍を活かせなかった。九州三強の一角を担っていた隆信の死は情勢を大きく動かすことに。地形を利用した家久と大軍を過信した隆信という構図なのでしょうか。
天文15年(1546)3月10日は肥前の龍造寺家兼が死去し曾孫の隆信(胤信)が家督をついだ日。前年に祖父と父が主君への謀反の疑いで誅殺され仏門にいた隆信が還俗。肥前の熊の異名を持ち大友、島津と並ぶ九州三強の一角を担う。僧で曾孫って…何が世に出るきっかけになるかわからないものです。
元亀元年(1570)8月19日は龍造寺隆信の家臣鍋島直茂が大友宗麟の弟親貞軍に夜襲をかけた日。この今山の戦いで敗れた大友氏は肥前進出を断念し九州は大友、島津、龍造寺の三強へ。20日に佐嘉城総攻撃予定で勝利の前祝いの油断を突かれた。一つの油断が状況を一変させる典型な感じがしますね。
柳川城。「柳川三年、肥後三月、肥前・久留米は朝茶の子」と柳川では言われた。堅城である熊本城は落とすのに3カ月。柳川城は3年かかるという意味。柳川城は難攻不落の水城として知られた。