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龍造寺隆信を再検討する①      *6/1バスツアー「須古城跡、法泉寺」編   @佐賀県杵島郡白石町

6月1日~2日、佐賀市において「龍造寺隆信を再検討する ー沖田畷の戦いから440年ー」と題したバスツアー(1日)と講演会&シンポジウム(2日)が開催されたので、満を持して参加してきました。
(私の中では勝手に”佐賀2Days”と呼んでおりました・・)

天正十二年(1984)の沖田畷の戦いで龍造寺隆信が戦死してから今年で440年とのことで、講演会&シンポジウムを佐賀戦国研究会様が企画。バスツアーは連動する形で前日の6月1日に、佐賀戦国研究会との共同企画で㈱全旅佐賀様によって催行されました。




この濃厚な2日間をどうやってnote記事にするか手探り状態ですが、自身の復習も兼ねて数回に分けて記事にしたいと思います。
まずは佐賀県杵島郡白石町にある須古城跡と法泉寺訪問について書きます。

ここで、龍造寺隆信についてちょっと補足。

龍造寺 隆信(りゅうぞうじ たかのぶ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将肥前国戦国大名。 「九州三強の一人」や「肥前の熊」、「五州二島の大守」 などの異名が有名。 龍造寺嫡家は途絶えたとされるが、龍造寺一門のその子孫や後裔は現在の佐賀県長崎県諫早市大村市などに点在するとされている。鍋島直茂は隆信の義弟である。

仏門にいた時期は中納言円月坊を称し、還俗後は初め胤信(たねのぶ)を名乗り、大内義隆から偏諱をうけて隆胤(たかたね)、次いで隆信と改めた。

「五州二島の太守[5]」の称号を自らは好んで用いたが、肥前の熊の異名をとった。少弐氏下剋上で倒し、大友氏を破り、島津氏と並ぶ勢力を築き上げ、九州三強の一人として称されたが、島津・有馬氏の連合軍との戦い(沖田畷の戦い)で不覚をとり、敗死した。

(フリー百科事典「Wikipedia」より引用)


龍造寺隆信は、戦国時代の一時期に九州を大友・島津氏と分かちあう3大勢力の一角として君臨しますが、その期間は意外と短く、天正十二年(1984)三月、沖田畷の戦いにおいて島津・有馬の連合軍に負けあっけなく首を取られてしまいます。
隆信の死により龍造寺家は混迷しますが、家督は既に譲られていた政家から高房へと継承され、御家を実質上取り仕切ったのは隆信の義弟である鍋島直茂でした。高房の早逝後は重臣たちの協議の上直茂の嫡男、鍋島勝茂が佐賀藩を継承し初代藩主となります。
直茂は「藩祖」と呼ばれますが、一介の小豪族から勢力を拡大し佐賀藩の基礎を作った龍造寺隆信を「もうひとりの佐賀藩祖」としてとらえ、その事績を学び再検討するのが今回の企画の趣旨です。

バスツアーで周る龍造寺隆信の関連史跡は

・須古城跡
・法泉寺
・龍泰寺
・今山合戦場跡

の4ヶ所で、特に須古城跡とその発掘調査の解説が聴けるのは楽しみでした。

6月1日9:20、青天の下、佐賀駅バスセンターからまずは白石町へ向けて出発です。

出発時の車内


*白石町はここです。


そして白石町総合センターへ。

白石町総合センターにて白石町教委の方による
須古城と発掘調査についての解説


ここで、須古城についてちょっと補足。

須古城(すこじょうあと)は、須古小学校を含む推定規模東西570m、南北600mを誇る戦国時代のお城の跡です。城郭の構造は、「高城(たかじょう)」あるいは「隆城(たかじょう)」と呼ばれる標高42mの独立丘陵部と、その麓の平地部で構成され、いわゆる「平山城(ひらやまじろ)」に分類されます。

 戦国大名龍造寺隆信(りゅうぞうじたかのぶ)の居城として有名ですが、初めから隆信が須古城に居たわけではありません。隆信の前に須古城に居城したのは、在地領主の平井氏でした。16世紀後半、隆信は平井経治(つねはる)の居城である須古城を攻撃し、4回の攻防戦の末、天正(てんしょう)2年(1574年)に須古城は陥落します。

 天正3年(1575年)、隆信は須古城の大改修に着手します。この改修工事は領土拡大と並行して行われたと考えられ、現在確認できる須古城の姿が出来上がります。須古城在城中に隆信の領土は最大となり、現在の佐賀・長崎両県、福岡県の大半、熊本県の北半、大分県の一部である肥前(ひぜん)・肥後(ひご)・筑前(ちくぜん)・筑後(ちくご)・豊前(ぶぜん)・壱岐(いき)・対馬(つしま)を網羅(もうら)する「五州二島の太守(たいしゅ)」と呼ばれる全盛期を迎えます。そんな絶好調だった隆信ですが、天正12年(1584年)の沖田畷(おきたなわて)での有馬・島津連合軍との戦いで戦死してしまいます。

 隆信の戦死後は、異母弟の信周(のぶかね)が須古城に在城し続けます。信周は、佐賀藩成立後は鍋島家重臣として須古の邑主(ゆうしゅ)となり、城内の一部は須古鍋島家の邸宅として利用されました。

(白石町HP「あるある文化財VOL.190 須古城跡」より一部抜粋引用)


佐賀県杵島郡白石町では現在、2028年度までに須古城を「国指定史跡」化すること目指し、発掘調査等が進められています。
令和5年度に行われた発掘調査では軒平瓦片、軒丸瓦片などが多量に出土し、城内に瓦ぶきの建物があった可能性が高くなったそうです。須古城跡には今後も目が離せません!


報道等で話題となった軒平瓦。鳥栖市にある勝尾城跡から
出土した瓦と同じ型で造られていることが判明したそうです。



そしていよいよ須古城へ登城です。
時間の関係で石垣と櫓台の見学にとどまりましたが、骨折した左足が完治して間もない私にはちょうどよい登城となりました。


移動の車中から撮影した支城の小島城(おしまじょう)跡。

いよいよ登城!

上にあるのが龍造寺隆信時代に造られた石垣

櫓台
外堀の跡だそうです。


時間の関係でお城好きにはやや物足りない(?)登城だったようですが、ツアーには高齢者も多く、ちょうどよかったのではなかったでしょうか。

次は同じ白石町内にある法泉寺へ向かいます。曹洞宗のお寺です。

萬歳山法泉寺(ばんぜいざんほうせんじ)
法泉寺は、龍造寺隆信が稲佐の東明寺大用守廓(とうめいじだいようしゅかく)大和尚を中興開山として復興されました。
それ以前については不明な点が多いのですが、南北朝時代(14世紀後半)には、奈良の真言律宗西大寺の末寺であったのではないかとされています。

(白石町教育委員会配布資料より転載)


萬歳山法泉寺。正面に見えるのは大仏殿で、
丈六の毘盧遮那仏坐像が安置されています。


龍造寺隆信供養塔。塔身の正面に刻まれている
「隆信」という文字は龍造寺隆信の自筆だそうです。


龍造寺信周(のぶかね/隆信の異母弟)夫妻の逆修有耳五輪塔。
向かって左が信周、右が妻のものだそうです。

本堂(人物の写り込みが多く加工しています。すみません・・)


本堂では木造の龍造寺隆信坐像、信周坐像、そして龍造寺高房の神像(「木造若宮大明神」)を拝観。貴重な文化財を見せていただき感激しました。


ここで午前の部は終了。わかりやすく楽しく解説して下さった白石町教育委員会の方へ皆でお礼を申し上げ、昼食会場へ移動しました。

午後の部については、記事「龍造寺隆信を再検討する②」へ続きます。



*白石町HP「須古城跡」はこちら。


*佐賀戦国研究会のHPはこちら。


*㈱全旅佐賀のHPはこちら。





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