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龍造寺隆信を再検討する③        *6/2講演会(山上至人先生、中村知裕先生)編      @佐賀県佐賀市

6月1日~2日、佐賀市において「龍造寺隆信を再検討する ー沖田畷の戦いから440年ー」と題したバスツアー(1日)と講演会&シンポジウム(2日)が開催されたので、満を持して参加してきました。

今回の記事は以下の「龍造寺隆信を再検討する②」の続きです。


講演会&市民シンポジウムは佐賀戦国研究会の主催により佐賀大学で行われました。
佐賀戦国研究会は佐賀市で活動する「民間社会人による歴史サークル兼研究会」で、私、ひとみは2021年7月の「大村純忠」のオンラインイベントに参加して以来、オンラインや現場での勉強会、講演会に参加させていただいてます。昨年12月には「WEB版 佐賀戦国研究会」を発足されたのでWEB版の会員となりました。若い方が中心となり専門家をお招きしての講演会やシンポジウム開催、雑誌への執筆等幅広く活動されています。非常に学術性を重んじる団体で、歴史の専門教育を受けていない私にとっては有難い存在で、勉強させていただいております・・。

今回の講師の先生方とゲストは次のとおりです。

【講師】
島津氏研究  南九州大学非常勤講師 新名一仁 先生 
龍造寺氏研究 筑後女学園中学校・高等学校教諭 中村知裕 先生
大友氏研究  歴史雑誌「歴史群像」編集者兼ライター 山上至人 先生
【ゲスト】
防衛省防衛研究所 会津龍造寺家末裔 橋本靖明 氏
宇宙公務員(佐賀県庁・JAXA)『県庁そろそろクビですか?』著者 
円城寺雄介 氏

*講師のプロフィール詳細は以下のプレスリリースをご参照ください。


完全予約制だった本会は140名超の満員御礼状態。10:30には席もすっかり埋まり、会場は戦国ファンの熱気に包まれました。なんと!佐賀県知事と白石町長から祝電も届いていました。



全体を振り返って思うのは、先生方も来場者も熱気が凄かったこと。それだけの注目が集った講演会であり、第一線で活躍されている研究者の話は活気があり熱意がこもっていたということです。それでいて先生方のお話は内容、話の運び方、声の大きさ、スライドも添付資料もわかりやすく、私にとって近年まれにみる充実した幸せな時間となりました。また地元の武将=龍造寺隆信の賛美に偏ることなく、非常にフラットに最新研究に基づく検証がなされていたことも良かったと思います。この点は日頃、佐賀戦国研究会の活動を見ていて私も非常に信頼を置いている点でもあります。

不肖私ごときが内容を詳しく解説できるわけもないため、以下は私が聴いて印象に残ったことを「講演メモ」として書きたいと思います。


講演①は山上至人先生。演題は「大友氏と永禄九州争乱」

【講演メモ】
○大友氏は「戦国期守護」として西国の武家秩序の頂点という強い意識があった。
○毛利氏とは門司城を巡り何度も争っており、永禄7年に一旦和睦するも、大友氏は関門海峡を毛利氏に押さえられ、博多ー府内間の海上ルートを分断される。ゆえに肥後・高瀬と府内を結ぶ内陸ルート(いわゆる「キリシタン・ベルト」)の形成を促進。
○今山の戦いは”大友対毛利”の戦争の一局面にすぎない。
○今山戦の大友方の大将、大友親貞は実在しない。

長崎出身の私としては地元の武将でキリスト教と関係が深い大村氏や有馬氏に興味があるのですが、「キリシタン・ベルト」という言葉は長崎では一般的には”宣教師の布教活動ルート”ということのみが喧伝されています。しかし”博多ー府内”間の海上ルートを毛利氏に分断された大友氏にとって”肥前西岸(横瀬浦・長崎・口之津)ー高瀬津ー府内”という海上+内陸の交易ルートを確保することは最重要事項だったのです!単なる宣教師の布教ルートではなかったのですね。
(そういえば数年前、東大の岡美穂子先生の講演で「横瀬浦の開港は大友宗麟の強い意向があった」との話を聞いたことがあり、ナルホドここにつながるのか、と。横瀬浦には永禄5年(1562)にポルトガル船が来航しており、まさに大友氏と毛利氏が門司城を巡り熾烈な争いをしていた頃になります。)
これらのことを考えても、肥前の戦国史を考えるにおいて一地方だけでなく九州全体、そして中国・四国・中央の情勢をも俯瞰してみないと到底理解できないことがわかります。

そして今山の戦いの大将だといわれる「大友親貞」は存在しない人物というのが、もはや定説のようです。

山上先生、熱心なあまり時間オーバーとなり終盤、佐賀戦国研究会の深川代表と(残り時間を巡る)激しい攻防戦を展開されるなど・・(´▽`*)


講演②は中村知裕先生。演題は「龍造寺隆信の実像」

【講演メモ】
○今の龍造寺隆信のイメージは近世の編纂物の記述から作られている。
○研究面の難しさ。龍造寺家文書は無年号文書が大半で年次比定に労力を要する。多久家文書や外国の史料(イエズス会)等の活用が必要。新史料発見の可能性も。
○家督相続の問題。曾祖父家兼(剛忠)は隆信の祖父の家系ではなくその弟の家系を重視していた。隆信はあくまで家督継承候補の一人であった。
○今山の戦いは龍造寺氏の局地的勝利で勝ったのは大友氏だと言われるが、これを契機に龍造寺氏が勢力を拡大したことを考えあわせると結果的に龍造寺氏の勝利だといえるのではないか。
○龍造寺氏の勢力拡大には交通路の掌握と城郭・砦などの造作の影響が大きい。弟、長信を通じて多久領の材木と職人を調達できた。
○沖田畷の敗戦は海軍力の差もあったのでは。(海軍と言うほどの統率はなかったが海での戦に慣れていた。)
○五州二島の太守と本当に言えるのか?筑後・肥後は龍造寺氏によって平定されたといえるのか?
○秋月氏との連携。

中村先生の話は非常にわかりやすく、一次史料に基づいた地道で冷静な分析がなされており大変好感を持ちました。イエズス会の史料は大村氏、有馬氏関連でよく見るのですが、そういえば龍造寺隆信を中心として読んだことはなかったなぁと。あくまで「キリシタンの敵!」としての描き方がなされていたと思います。中村先生の指摘の中に「下蒲池氏を謀殺した辺りから、佐賀にいた大村氏の人質が殺される可能性があると誤認したため暴君・悪逆な人物と言われるようになったのでは」とあり、ナルホドと思いました。
(逆に考えると、イエズス会の機嫌を損ねないために大村純忠とその人質(息子達)は殺されずに済んだのかも?南蛮との貿易を円滑に行うため大村氏は殺さずに生かしていた可能性もあるのでは、と。あくまで推測ですが・・)


*長くなりましたので、講演会(新名一仁先生)・シンポジウム編につきましては記事「龍造寺隆信を再検討する④」に続きます。


*佐賀戦国研究会深川代表もおすすめの山上至人先生の記事「戦国大名大友氏の滅亡」が掲載された「歴史群像 2022年4月号」はこちら。


*中村知裕先生、新名一仁先生の論考が掲載された本はこちら。


*佐賀戦国研究会のWEB版はこちら。有料ですが様々な特典があります。


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