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戦場で空鉄砲はあったのか。(1584年沖田畷合戦での例)

先週の大河ドラマ「どうする家康」の再放送で、徳川軍と武田軍が空鉄砲を撃ちあい戦うフリをする場面を見て思い出しました。

1584年の沖田畷合戦の際に、親族で同じキリシタンである有馬軍を攻撃するのをためらった大村軍(当時、龍造寺氏に従属していた)が、空鉄砲を撃つよう申し合わせていた、という話。

沖田畷合戦についての概要は以下を参考にされて下さい。


松田毅一先生の『大村純忠伝』にこう書いてあります。

・・島原城にあった三百名の大村キリシタン武士は、今や之等有馬のキリシタン勢に対抗することを余儀なくされ、ここに一計を案じて竜造寺勢に消極的抵抗を試みる策に出た。即ち、彼等は「キリシタンの・・(略)・・敵の砦を攻める時には、銃に弾丸を込めず、唯戦っている者のようにすることを申合せた。」

(『大村純忠伝』松田毅一 1978年11月発刊 ㈱教文館)


この元ネタは、1584年8月31日付フロイス書簡です。

(1)

「隆信は・・ベルトラメウの兵三百を派遣し、深江の城に入り、有馬より来る敵兵の通過を妨げることを命じた。・・(略)・・薩摩の兵が附近にゐたため入城することができず、進んで島原の城に入った。」

(『イエズス会日本年報上』新異国叢書 村上直次郎訳 1969年5月発刊 雄松堂出版)

(2)

「島原の城主は異教徒であり、部下の大部分もまた異教徒であったが、その中に三百余人のキリシタンがあった。・・(略)・・彼等の真の君主であるドン・プロタジヨにデウスが勝利を与へ給はんことを願ひ、異教徒の面前において敵の寨を攻める時には銃に弾丸を込めず、唯戦って居る者のやうにするやう申合せた。」

(出典、上記に同じ)


(1)龍造寺隆信は(従属していた)ベルトラメウ(バルトロメア=大村純忠の洗礼名)の兵300を深江城に遣わしたが、薩摩の兵がいたため入城できず、島原城(現在の島原城ではない)に入った。

(2)島原城内にいた300余名のキリシタンの部下(上記(1)の大村方の兵)は、ドン・プロタジヨ(有馬晴信の洗礼名)が勝つことを願って、敵(=有馬方)の寨(とりで)を攻める時には銃に弾丸を込めず、戦うフリをするよう申し合わせた。

先週の「どうする家康」の空鉄砲の演出がどこからとられたのかはわかりませんが、沖田畷合戦でのことが宣教師の記録に残っている例があったので、以上紹介してみました。
現実にこのようなこと(空鉄砲を撃って戦うフリをする)があったのかどうかはわかりませんが、記録に残ってないだけで、あったのかもしれませんね。(宣教師が正直に記録に残してしまったのかも・・)


沖田畷古戦場にある龍造寺隆信の供養塔(長崎県島原市)


*ドラマは本日佳境に入ります。涙、涙の予感・・。



*沖田畷合戦に関しては、佐賀戦国研究会様の詳細な検証があります。以下リンクをご参照ください。


*沖田畷合戦をテーマにした私の大好きなiokiさんの漫画『沖田畷異聞 フロイスの見た戦国合戦』。紹介PVを貼ります。


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