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ケジャ龍造寺隆信

むかーし、昔、どかた家にまだテレビという物体が存在していた頃、家族が「ダウントン・アビー」なるドラマを観ていたそうな。
私自身はまともに観ておらず、チラ見する程度。
そこで英国貴族の朝食として、ケジャリーなる料理が出ていたとか。まったく覚えていません。
英国の植民地だった印度から来たスパイスを用いたカレーピラフみたいな物。
印度由来の英国料理を作りながら、何故か「肥前の熊」と呼ばれた戦国大名を妄想した、完全に頭がおかしい記録。


材料

鱈       2尾
卵       2個
玉葱      半分
ピーマン    2個
生姜      1欠け
大蒜      2欠け
パセリ     お好みで
カルダモン   5粒
ガラムマサラ  大匙1
ターメリック粉 大匙1
コリアンダー粉 大匙1
クミン粉    大匙1
塩       小匙1
油       適量
ご飯      1合半
シナモン棒   1本

享禄二年(1529)肥前国佐嘉に誕生した長法師丸が後の龍造寺隆信。
龍造寺家は肥前を治めていた少弐氏の被官。長法師丸が生まれたのは龍造寺の分家、水ヶ江龍造寺家。
七歳から仏門へ入れられ、僧侶としての名は円月。
曽祖父の家兼は円月は僧侶になれば、名僧に。俗世にあれば龍造寺家を大きくするだろうと言ったとか。力も強く知恵もある曾孫に目を掛けていた。

それなら何故、最初から跡継ぎとして育てなかった?長法師丸は長男なのに?何か問題がある子供だったのではないかと勘繰ってしまう。


茹で卵を作る。

天文十四年(1545)祖父と父が謀反の疑いを掛けられ、誅殺。
家兼と共に龍造寺一門は筑後柳川の蒲池鑑盛を頼って肥前から逃亡。
やがて蒲池氏の後援を得て失地回復。この時、家兼は93歳。
これが人生最後の仕事となる。円月を還俗させて龍造寺分家を継がせるように遺言。しかし家臣達は躊躇。神意を問うということで御御籤を引き、三度引いて、三度とも円月に継がせるが吉と出たことから家督継承が決まる。
ここでもすんなりいかない。やはり何か問題ある人物?


鱈を焼く。

龍造寺胤信となり、分家を継承。その後、本家の当主が死亡すると未亡人と結婚して本家をも継承。
勢力拡大のために婚姻を利用という手法は、胤信ばかりかその母、慶誾尼までが用いる。
有能な家臣を一門衆として繋ぎとめるために、正室を亡くしていた鍋島清房の元へ推し掛け女房となる。清房の子が後の鍋島直茂。↓

強引な本家乗っ取りに反対する家臣達を抑えるために、西国の雄、山口の大内義隆に誼を通じて、一字を頂いて名前を隆信と改める。
ところが、大内家でクーデター。義隆が陶晴賢に討たれ、後ろ盾を失い、龍造寺家はまたも肥前を追われる。行き先はまたしても筑後柳川。


殻を潰して、カルダモンの中身を出す。

再度、蒲池氏の力を借りて肥前奪還。
覇気溢れる隆信はここから破竹の快進撃。主君であった少弐氏を完全に滅ぼして領地を拡大。
他の地域とは異なり、九州では下剋上ということはあまり起こりませんでしたが、龍造寺隆信は下剋上を果たして、九州三強の一つに躍り出る。
これに待ったをかけようとしたのが豊後の大友宗麟。
六万とも八万とも言われる大軍で肥前に攻め寄せる。
鍋島直茂、そして慶誾尼の献策で夜襲を行った今山の戦いで宗麟の弟、親貞を討ち取るという殊勲。
その後、大友家は島津家との耳川の戦いで大敗。凋落の道。その機を逃さず、隆信は勢力拡大。


シナモンを入れて炊飯。

五州二島の太守と隆信は自称。
肥前、肥後、豊前、筑前、筑後の五ヵ国、壱岐、対馬の二島にまで支配下に置いたと豪語。
しかし地続きはともかく、離島にまで龍造寺の影響が及んだかは疑問。まあ自称ですから。
周囲からは「肥前の熊」と恐れられるように。
獰猛で残忍。それを証明する行いがあります。
二度に渡って庇護してくれた蒲池一族が島津に通じたと疑い、当主を宴席に招いて騙し討ち。柳川城を攻めて一族皆殺し。
諫言を繰り返す直茂を口煩い奴として、蒲池氏を滅ぼした後の柳川城主に任じて、側から遠ざける。
恩を受けた一族にこうした仕打ちをしたことから人心は離れていく。離れる者の人質は、幼い子であろうとも容赦なく処刑。どんどんと暴君化。


微塵切りの野菜を炒めた後、シナモンを除いたご飯を投入。中火から弱火。

「分別も久しくすれば、ねまる」という言葉を隆信は遺しています。
熟慮も過ぎれば、機を逸するということ。その通りに果断な判断で龍造寺家を拡大させた反面、疑いを抱いた者へも迅速に鉄槌。
疑われてしまうならば、いっそと考える者が出てくるのも無理ない。
天正十二年(1584)に有馬晴信が離反。島津方に付く。


スパイスと塩を投入。混ぜ合わせる。

有馬征伐に隆信は二万五千の大軍を率いて出陣。
島津家の応援を得た有馬方は六千。
隆信は楽勝と思っていたかもしれません。
この頃の隆信は酒食に耽った不摂生のために肥満して馬に乗れず、六人担ぎの輿に乗っていたといいます。
龍造寺と有馬、島津連合軍の合戦場となったのは沖田畷。
畷というのは田んぼの中にある細い道のこと。
ここを戦場と定めたのは島津家久。高名な島津四兄弟(義久、義弘、歳久、家久)の末弟。


焼いた鱈をほぐして混ぜる。

退却すると見えた連合軍を追撃すべく、龍造寺勢は隘路を突進。これが罠。
伏兵がいました。散々に矢玉を撃ち掛けられて、犠牲者多数。
退却すると見せかけて伏兵に攻撃させる。島津家の得意技、釣り野伏せという戦法。
狭い道では大軍の優位性はまったくなくなり、かえって進むも退くもならぬ状態。龍造寺勢はどんどんと討たれる。
大将の輿を担いでいた者達も逃げ散る。こうして隆信は戦場に取り残される。
島津家の家臣、川上忠堅により隆信は討ち取られる。享年は56歳。


ケジャ龍造寺隆信

四等分に切った茹で卵を飾り、パセリを掛ける。
胃腸を整えてくれるスパイス、特にカルダモンの爽やかな風味。マサラの程よい辛みも素晴らしい。今回は炒めましたが、炊き込む方法もあるとか。
玉葱の甘み、鱈の淡白な味わい。生姜や大蒜の香味もよい。

戦場で首を取られた大名は龍造寺隆信と今川義元だけと言います。
強いだけでは人は心服しない。それを示した最後と言えます。
敗れた龍造寺側は隆信の首の受け取りを拒否。熊本玉名の願行寺に葬られたと言われます。
「紅炉上、一点の雪」という禅語めいた言葉を遺して討たれたとも、念仏を唱えながら這いずり、討たれたとも言われる龍造寺隆信を妄想しながら、ケジャ龍造寺隆信をご馳走様でした。

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