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第12話「今山の合戦」(島津に待ったをかけた男『大友宗麟』)

西暦1569年(永禄十二年)10月、大友宗麟の宿老・吉岡長増の策略により周防大内氏の一族で大友家の客将となっていた大内輝弘が周防(山口県)で挙兵。山陰尼子氏の残党ゲリラ部隊もこれに呼応して出雲(島根県西部)、備前、備後(岡山県中西部)周辺で活動を激化させました。

安芸(広島県)を本拠とする中国地方の大大名・毛利元就(本拠地:安芸)は、これに驚き、豊前門司城を残して立花山城を開城。筑前の戦力を中国地方に戻して大内輝弘と山陰尼子氏残党ゲリラ部隊の殲滅に注力します。

したがって、筑前全域と門司城を除く豊前は宗麟の実効支配領域に戻りました。

しかし、宗麟の脅威は毛利氏だけではありませんでした。肥前から東に向けて勢力を拡張させてきた国衆がいました。龍造寺隆信です。

龍造寺隆信

龍造寺隆信は、西暦1529年(享禄二年)、龍造寺家庶流・水ヶ江龍造寺家四代目・龍造寺周家の子として生まれました。幼名は長法師。

幼い頃、宝琳院(佐賀市鬼丸町)の大叔父・豪覚和尚の元で寺僧としての修行を積み、「円月」という法名を名乗っていました。

しかし、西暦1545年(天文十四年)主君である肥前守護・少弐冬尚の家臣・馬場頼周(肥前綾部城主)の讒言により、水ヶ江龍造寺一門に謀反の嫌疑がかけられ、円月の祖父・家純(水ヶ江龍造寺二代目)その弟・家門(水ヶ江龍造寺三代目)、そして父・周家が揃って惨殺される事件がおきます。

唯一生き残った曾祖父・剛忠(水ヶ江龍造寺初代:俗名・龍造寺家兼)は、円月を寺から連れ出し、筑後(福岡県南部)に逃亡して、蒲池城主・蒲池鑑盛に保護を求めました。

当時、筑後には一国を治める大名が存在せず、足利幕府より筑後守護を拝命している大友義鑑(宗麟の父)の下に、有力国衆が連なる連合支配体制になっておりました。

その有力国衆(筑後十五城主)の筆頭として 柳川540町を治めていたのが蒲池鑑盛でした。鑑盛は義に厚い人物として知られており、剛忠が円月を連れて逃げてきたときは自分の領内に住まわせて、衣食を整えさせたと言われています。

翌西暦1546年(天文十五年)剛忠は鑑盛の保護と助力を受け、馬場頼周を討つことを決意。かつての家臣であった鍋島清房(鍋島直茂の父)や、かつての主筋である九州千葉氏の千葉胤頼が味方に加わったこともあり、見事、頼周を打ち果たすことに成功しました。

その翌年1547年(天文十六年)、剛忠は病死し、水ヶ江龍造寺氏の家督を円月に継がせるように遺言します。遺言により円月は還俗し、龍造寺本家当主・龍造寺胤栄より諱を頂戴し、龍造寺胤信となります。翌年、胤栄が死去したため、龍造寺本家の家督も継承。その後、周防大内氏に従属して、大内義隆の諱を頂き、隆信と名乗りました。

宗麟が毛利氏と和議を締結した1569年(永禄十二年)頃の隆信は、主君・少弐氏や国衆の有馬氏、大村氏を下して、東肥前の支配を確立させ、南肥前、および筑後地方を伺うまでに勢力を伸ばしていたのです。

龍造寺征伐の開始

西暦1570年(元亀元年)3月、宗麟は戸次道雪、吉弘鑑理、臼杵鑑速らと共に60,000の兵を率いて、龍造寺征伐に乗り出します。

対する龍造寺側の兵力はわずか5,000。野戦では到底勝ち目がないため佐嘉城(佐賀城/佐賀県佐賀市)に篭城しつつ、牽制のためにいくつか小部隊を城下に展開させていました。

宗麟は高良山の吉見岳城(福岡県久留米市)に本陣を置き、幾度か戦を仕掛けてみたものの、龍造寺軍の士気は思いの外に高く、簡単には敵を寄せ付けなかったため、戦況は膠着状態に入ったまま、約半年が推移しました。

一方、兵力で劣る龍造寺側は、佐嘉城が龍造寺の本城であるため、大友軍と違って後詰の援軍の見込みが無く、このまま籠城状態が続けば早晩食糧が尽き、佐嘉城落城は必至の状況でした。

ただ、食糧問題は遠征をしている大友軍の方でも決して軽い状態ではなく、しかも60,000という兵の数で消費する食糧もハンパなかったため、夏場に入ると宗麟もイライラし始めました。

大友親貞の出陣

同年8月、いつまでたっても佐嘉城落城の報告が届かない宗麟はイライラを爆発させ、弟である大友親貞に、本陣より3,000の兵を与え、佐嘉城に援軍として送り出しました。

同月17日、親貞は佐嘉城の北の今山(佐賀県佐賀市大和町付近)に着陣しました。当然、道雪、鑑理、鑑速の三将が親貞を出迎えます。親貞は着陣すると三将に対し、

「兄上はおかんむり(激怒)である」
「城攻めにいつまでかかっているのか」
「わしは兄上の名代である。わしが来た以上、総がかり(総攻撃)で早々に城を落とすべし」


と檄を飛ばされました。
それを受けて道雪は「恐れながら....」とこう言葉を続けました。

「敵は籠城しており、我らは城を取り囲んでおりまする」
「援軍の入る余地もなければ、食糧が尽きれば降参するでしょう」
「総がかりでも城は落ちましょうが、兵を損じまする」

と意見したところ

「伯耆(道雪)の言うことももっともなり。されどこの我らの方で消費する食糧の問題もある。それに総がかりは兄の命令である。総がかりの日取りは20日とする。左近(鑑理)、越中(鑑速)もそのように心得よ」

と檄を返して、「役目大義」と言って奥に引き込みました。

2日後の8月19日、親貞は兵の士気を高めるため、酒宴を開くことを許可しました。しかし、これが龍造寺側の間者に見られていたのです。

慶誾尼の演説

一方の佐嘉城内では、籠城状態のまま、どうやって戦局を打開するかの果てしなき議論が続けられていました。

敵は数万、味方は5,000。城を囲む大友軍の包囲網を突破したとして、どこに逃げるのか。また逃げ切れるのか?それとも今は大友に降伏して時節を待つべきではないのか。などなど喧々諤々の議論がなされている最中、鍋島信昌(後の鍋島直茂)が広間に入ってきました。

「殿に申し上げます。我が患者の報告によれば、敵の本体は今山に布陣し、今宵酒宴を開いている模様でございます。おそらく総がかりは明日でございましょう。敵に一矢報いるなら、この時を逃して他にはございません」

信昌はそう言上すると、他の家臣からもう反対を浴びました。

「夜討ちなどとんでもない!」
「お前は龍造寺の御家を潰すつもりか!」
「仮に成功したとして、後はどうする。後は!」


それを静かに瞑目して聞いていた信昌は

「では、お歴々には何か打開策はおありですかな?。明日、本当に総がかりを受けたら、我が5,000の兵は数万の大友勢の食い物にされて終わりでござる。御家がなくなる?城が落ちれば龍造寺の家は消えて無くなりますわな!」

「しかしだな....」

まだ反論しようとする老臣に対し、

「お黙りなさい!」

と一喝する声が広間の入り口の方から聞こえてきました。
そこには薙刀を構えて一戦せんとする一人の女性の姿がありました。

「慶誾尼(けいぎんに)さま.....」

慶誾尼とは、亡き水ヶ江龍造寺家四代目・龍造寺周家の妻、すなわち隆信の生母です。前述の通り、周家が馬場頼周に殺害された後、水ヶ江龍造寺家の勢力を維持するため有力家臣であった鍋島清房に嫁いで龍造寺家と鍋島家を縁戚にしたため、清房の子・信昌の継母でもありました。

信昌と老臣たちは即座に脇に控えて、広間の中央を歩く慶誾尼の進路をあけました。そして慶誾尼は黙って隆信の前まで進みます。

「母上、そのお姿は」

「今は戦時。戦時の時は非常の時。非常の時には非常の備えが肝要」

慶誾尼はそう言うと、180度振り返り

「そなたたちは男子でありながら、敵の大軍を目の前にしてビクついて、まるで鼠のようじゃな」

とせせら笑うと

「これは心外な仰せ。我らは龍造寺の御家のためを思って......」

家臣が横槍を入れましたが

「黙れと申しておる」

と制して言葉を続けました。

「皆の者、よく聞け。龍造寺家庶流・水ヶ江龍造寺はかつて少弐家臣・馬場頼周の讒言で、家純殿、家門殿、周家殿という嫡流の人物を殺害された。その際、たった一人生き残って水ヶ江家を再興したのがこの隆信殿じゃ。

隆信殿が龍造寺本家の家督を継ぎ、主君である周防大内家が滅んだ後に謀反が勃発し、隆信殿はこの肥前を追われたが、筑後蒲池家の助力で再び龍造寺の当主に返り咲いた。

そのような状況に比べれば、今、我が家の状況はなんであろうか。そちたちは安全なところから、あーでもない、こーでもないと、できない理由、やれない理由を述べているだけではないか。

男子たるもの死生二つの道をかけて戦ってこそ本望。今、信昌殿が申したことが活路ではないのか?活路が見えたのなら速やかに大友の軍勢と戦うべきであろうが!」


慶誾尼の演説に、誰も異論を挟めませんでした。

「なるほど......確かに活路かもしれん」

沈黙を破ったのは隆信でした。

「我が龍造寺家は、状況を打開できる可能性が一片でもあるなら、常にそれに家の運命を全てかけてきたのじゃ。これまでそうしてきたのじゃ....そうじゃな。母上」

その隆信の言葉に慶誾尼は大きくうなづきました。
隆信は「孫四郎」と信昌に声をかけると

「そなたに500の兵を与える。大友の本陣に夜襲をかけよ。また一緒にいきたい者がおれば、連れて行っても構わん」

と命令を下しました。

龍造寺の夜襲

8月19日夜から20日の未明、龍造寺家の奇襲部隊500は城を抜け出し、包囲の間を縫って今山の敵本陣の背後に兵を伏せました。

普段は警戒厳しい包囲網でなかなか外に出ることが難しいはずなのに、今夜は酒宴の影響かやや隙があると信昌は感じていました。

(これなら、やれるかもしれん)

「おい、火縄の準備を致せ」

信昌は兵数十に鉄砲の準備をさせると、

「よいか。俺はこれから手勢を率いて敵陣のそばまで移動する。わしが石を藪に投げ入れるから、それを合図にここから敵陣に受けて、鉄砲を連続で放て」

と命令し、自分は敵陣ギリギリまで近づいて身を伏せました。
大友軍は見張りを立てて、周囲を警戒していますが、やはり気の緩みが出ているのか、ややふらついている者も見えました。

信昌はタイミングを見計らって、石を藪に投げ入れると、信昌の鉄砲隊が火を吹きました。

「て.....敵襲だ!!敵襲だー!」

鉄砲の轟音を受けて大友の見張り兵が騒ぎ出すのを見た信昌は

「寝返りだ!寝返り者が出たぞー!」と叫びながら今山の本陣に入り込みました。

再び信昌の鉄砲隊が火を放ちます。

「寝返りが出たぞー!気をつけろー!味方と思っても気を緩めるなー!」

信昌の手勢はそう叫びながら、大友の兵を次々に斬っていきます。

酒宴で士気が緩み切った大友軍は、突然の銃撃と虚報に慌てふためいて大混乱に陥り、ついに隣同士、同士討ちを始める状況となってしまいました。

その状況を見ていた信昌は「よし上出来だ」と鉄砲隊に止めの合図を送ると、藪に伏せていた全兵を以って、敵陣に切り込むように命じました。

そして信昌は自分と同格の龍造寺の直臣数名を集めると、それぞれに兵を分け与え、「狙うは大将の首」と目的を再確認させると、大将の捜索に移りました。

龍造寺直臣・成松信勝は、人の気配を感じ、あるところに近づこうとすると、途端に大友兵が急速に集まって反撃の姿勢を整えたことに違和感を覚えました。

「そうか、ここか......」

大友の武者数人が信勝に切りかかりますが、逆に信勝の刀に斬られて血しぶきあげてその場で絶命しました。雑兵たちもそれに続きますが、これも信勝の手勢の餌食となり、やがて武者や兵も散り散りになって、その場に残されたのは大将である親貞のみになりました。

「御大将とお見受けいたす」

信昌がそう尋ねると

「げにも(その通りだ)」

と答え、刀を抜きました。

「大友家当主・大友宗麟が名代、大友親貞じゃ」
「龍造寺家家臣・成松信勝にござる」


双方名乗りを終えると親貞の方から袈裟懸けに斬りかかってきました。信勝はすんでのところでそれを交わし横一文字に斬り払おうとしましたが、親貞がそれを上から払いのけ、信勝は迂闊にも刀を落としてしまいます。

(しまった)
(もらった)

それぞれの二人の思いが交錯し、信勝は刀を拾おうと、親貞が突きを繰り出そうとした時、信勝の手勢が繰り出した槍が数本、親貞の体を貫きました。

親貞は何が起きたのか全く理解できていなかったようですが、自分の体を貫く槍を確認すると、その場に崩れ落ちていきました。

親貞に落とされた刀を拾った信勝は

「戦国の習いにござる。御免」

と言うと、親貞の首に刀を当て、その首を斬り落としました。

「成松遠江守、敵将・大友親貞の首、討ち取ったり!」

と声高に勝利宣言すると、信勝の手勢のみで勝鬨をあげ、それを聞いた龍造寺の襲撃隊も勝鬨に乗じました。その勝鬨の声に押されるようにして親貞の兵は散り散りとなり、親貞の本陣は完全に壊滅したのでした。

大友軍の立花道雪、吉弘鑑理、臼杵鑑速らが、本陣に異変が起きていることを知り、駆けつけた時は、すでに龍造寺襲撃隊は引き上げており、その場には首のない親貞の死体や武者と雑兵合わせて1000程度の死体が転がっていました。

これを「今山の合戦」と言います。
総勢60,000を超える大友軍が、総勢5,000を率いる龍造寺軍に敗れると言う前代未聞の戦いでした。

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