Mitsuo Yoshida

歴史マニアのサーファーです! 東京都世田谷区南烏山5-1-13 03-5384-417…

Mitsuo Yoshida

歴史マニアのサーファーです! 東京都世田谷区南烏山5-1-13 03-5384-4173 #サーフィン #サーフショップ #イエローマーケット #yellowmatrket #楽天 #ヤフオク #京王線 #久我山 #芦花公園 #amazon #仙川 #クリエイチャー

最近の記事

【織田信孝自刃】1583年5月2日

【織田信孝自刃】1583年5月2日 織田信孝が兄信雄に追いつめられ尾張内海の野間大御堂寺で自刃。享年26歳。清州会議後、三法師の後見と岐阜を与えられた信孝。しかし後ろ盾の柴田勝家は北国に居り孤立無援。そこに目を付けた秀吉は、信長葬儀の喪主問題を持ち出し、対立する兄信雄をけしかけ滅ぼす。あとは伊勢の滝川一益と、各個撃破されては手も足も出ない #光る君へ #大河ドラマ ​​​​​​​

    • 【秀吉、大友義統を処分】1593年5月1日

      【秀吉、大友義統を処分】1593年5月1日 豊臣秀吉が大友義統の朝鮮出兵における罪を糺し豊後を没収、義統を毛利輝元に預ける。小西行長は元々仲の悪い加藤清正が朝鮮王子逃亡を追いかけた事に焦り、平壌まで深追いした。そこを狙われ包囲され進退窮まる。京城(ソウル)に居た黒田長政らに援軍要請したが、寡兵にて無理だとの回答。平壌近くの鳳山に居た義統は敵前逃亡したため、秀吉に軍律違反を問われた。 #光る君へ #大河ドラマ ​​​​​​​

      • 正平13年/延文3年(1358年)4月30日は足利尊氏が亡くなった日です。

        正平13年/延文3年(1358年)4月30日は足利尊氏が亡くなった日です。 室町幕府の初代将軍。弓馬に優れ、メンタルも人一倍タフネス! と思ったら、精神的にムラがあり、歴史ファンには「情緒不安定だよね……」と揶揄されてしまうことも。現代でもリーダーは揺るぎない信念で組織を引っ張る。そう言う虚像があるが、尊氏は家臣領民の話をよく聞く、優しい民政化だったとも言える。前例や組織論ガチガチで一方的に判断する事だけが良いリーダーでは無いと言う先駆けでしょう。ゆえに時の流れで後醍醐天皇に

        • 塙団右衛門討死】1615年4月29日

          【塙団右衛門討死】1615年4月29日 大坂方の塙団右衛門が和泉樫井にて紀州浅野勢と激突、討死する。誰?無名の名将です。加藤嘉明の鉄砲大将でしたが、関ヶ原合戦で先駆けし「大将の器に非ず」と罵倒され出奔。その時「遂ニ江南(こうなん)ノ野水二留マラズ、高ク飛ブ天地一閑鴎(いっかんおう)」という即興の詩を書き付け文才も高かった。大坂の陣では豊臣に従軍、たった20人で夜襲を掛け蜂須賀軍を大混乱に陥れ、重臣中村重勝を討ち取りました。そして引き上げる際、「夜討ちの大将 塙団右衛門直之」と

        【織田信孝自刃】1583年5月2日

          明治42年(1909年)4月28日は由利公正(ゆりきみまさ)という幕末の武士が亡くなった日です。

          明治42年(1909年)4月28日は由利公正(ゆりきみまさ)という幕末の武士が亡くなった日です。 知名度は高くないけれど、あの坂本龍馬が抜擢した有能な福井藩士。 金融面に強く、日本初の財務大臣でした。 実は、東京の街作りにも尽力した、東京都知事でした。藩主松平春嶽の要請で熊本から来た横井小楠に影響され民主主義資本主義に興味を持つ。坂本龍馬との交流は有名で「みつはち」(旧名は三岡八郎)と呼んでいた程。薩長同盟は武士の軍事政権、財務に明るい人材が居なかった。岩倉具視に西郷隆盛を通

          明治42年(1909年)4月28日は由利公正(ゆりきみまさ)という幕末の武士が亡くなった日です。

          寛永2年(1625年)4月27日は毛利輝元の命日です。

          寛永2年(1625年)4月27日は毛利輝元の命日です。 あの毛利元就の孫であり、戦国最大の決戦・関ヶ原の戦いでは西軍の総大将でもあった。 負け戦の大将なのに、敗戦後も家の存続を許されています。西国の巨魁毛利氏は家康も恐れていた。#鎌倉殿の13人 の大江弘元が祖で分家が関東の毛利庄を領し姓とした。謀略王元就の力で12か国の太守になるが、世に言う家を潰す凡庸三代目輝元により2か国、しかも上杉景勝の様に戦って負けたのでなく、何もせず家中を統率できずの厳罰は、戦国1の愚将でしょう。何

          寛永2年(1625年)4月27日は毛利輝元の命日です。

          元亀元年(1570年)4月26日は浅井長政に裏切られた織田軍が【金ヶ崎の退き口】と呼ばれる撤退戦を始めた日です。

          元亀元年(1570年)4月26日は浅井長政に裏切られた織田軍が【金ヶ崎の退き口】と呼ばれる撤退戦を始めた日です。 一足先に信長を逃がし、豊臣秀吉や一説には明智光秀等と殿(しんがり)を引き受け、朝倉軍に追われた戦いですね。 寡兵で朝倉の追撃を食い止める役となった秀吉軍。 それは越前から京都まで壮絶な撤退劇でした。 金ヶ崎は浅井朝倉からみれば地元で土地勘があったはず、しかし信長を討ち漏らす失態を侵してしまう、なぜか?!それはやはり秀吉の戦術眼が優れていた事に尽きます。柴田勝家辺り

          元亀元年(1570年)4月26日は浅井長政に裏切られた織田軍が【金ヶ崎の退き口】と呼ばれる撤退戦を始めた日です。

          【北条氏秀越後へ】1570年4月25日

          【北条氏秀越後へ】1570年4月25日 北条氏康が上杉謙信に和を求めて子の三郎を送り、謙信は三郎を景虎と名乗らせ養子とし長尾政景の娘を娶す。氏康は桶狭間の戦い後の政局を睨み、宿敵上杉謙信との和睦を計る。これはかなり氏康は譲歩した形。人質も一方的に出すだけで上杉には求めなかった。普通に考えれば関東管領上杉謙信はこの申し出は認めないと思うが、義の武将は和を求める者は拒否しないと氏康は考えた。思惑通り越相同盟は果たされた。そしてこの氏秀(景虎)は謙信亡き後、御館の乱を起こし、上杉を

          【北条氏秀越後へ】1570年4月25日

          【信玄、駿河から撤兵】1569年4月24日

          【信玄、駿河から撤兵】1569年4月24日 武田信玄が駿河から撤兵する。桶狭間以来、国内が安定しない今川家。いよいよ国人の離反が相次ぎじり貧状態。これも信玄の謀略と言われるが今川救済の名目で駿河に侵攻する。徳川とは密約を結び領土分割で手打ちするが、それも反故にし野心を隠さない信玄。北条の危機感は尋常では無く信玄の想像を越える軍事行動に出た。ここに進退窮まり一旦甲斐へ撤退。しかしそこは信玄、国人や領民としっかり話を付け再侵攻の段取りをしてから兵を引いた #光る君へ #大河ドラマ

          【信玄、駿河から撤兵】1569年4月24日

          35年になるらしいドリカム。今年はツアーが有るらしい。スタジオミュージ

          35年になるらしいドリカム。今年はツアーが有るらしい。スタジオミュージシャンだった中村がコーラスをやっていた吉田に出会って、地下鉄のホームで歌って貰った、その才能に衝撃を受けてプロデュースを買って出た。しかし天才吉田の操縦は困難で、幼馴染で吉田の大ファンだった西川を誘って3人組になった。類い稀な才能を信じ、バックバンドなどで食い繋ぎ、とんねるずのツアーメンバーだった時に、大観衆が熱狂する感動を覚えツアーは絶対止めないと思ったらしい。中村は「解散の危機は有ったのか?」「無い、解

          35年になるらしいドリカム。今年はツアーが有るらしい。スタジオミュージ

          天正11年(1583年)4月21日は賤ヶ岳の戦いに決着がついた日。

          天正11年(1583年)4月21日は賤ヶ岳の戦いに決着がついた日。 織田家の跡継ぎを巡り、豊臣秀吉と柴田勝家が本気でぶつかり、豊臣軍の勝利。 なぜ秀吉が勝てたのか。 前田利家の裏切りがあったから――そう説明されますが単純なものでは無い。秀吉人生でも最高に冴えわたっていたこの頃の戦いは天下簒奪の野望へ突き進む強烈な力を感じる。教科書では秀吉勝利は当たり前、さらっとしか触れませんが、下馬評では秀吉の絶対的不利だったと考えられる。信長が手塩にかけた最強軍団長の柴田勝家とその与力は武

          天正11年(1583年)4月21日は賤ヶ岳の戦いに決着がついた日。

          凡人や目立たない人が暴君に変質する事は古今東西多い、清朝5代雍正帝。

          凡人や目立たない人が暴君に変質する事は古今東西多い、清朝5代雍正帝。父康熙帝は35人の男子が居て女真族の伝統で皇太子を決めない事から激しい権力闘争に向かう。父が寵愛した次男には奸臣が集まり、次男は尊大になり性格が捻じ曲がる。4男だった雍正帝は生き残った9人との闘争に最下位の身分序列から帝位に就いた。父は中華史上最高の名君と言われ、明の残党を糾合、ロシアに侵略されていた台湾の解放、チベット外征でダライラマを助け、殖産興業と減税で清は安定した。その基盤を継いだが権力闘争で政権は不

          凡人や目立たない人が暴君に変質する事は古今東西多い、清朝5代雍正帝。

          ネタニヤフと言う怪物

          ネタニヤフと言う怪物、国民国家は日本で言えば明治になり身分では無い統治機構が誕生、それは軍事貴族だった武士は、関ケ原などの局地戦で雌雄を決し、天下を抑え、そんな事に無関係の庶民から搾取してきた。しかしナポレオン登場後、戦争は総力戦となり、国の全リソースで激突する。そうなると兵も武士だけでは足りなくなり一般人兵が生まれ、それを支える女子供は立派な戦力となり、戦争後は選挙権などの権利が与えられた。これが国民国家、イコール戦争マシーンと言う事。冷戦後、国家正規軍同志の対立が無くなり

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          【柳生石舟斎死去】1606年4月19日

          【柳生石舟斎死去】1606年4月19日 上泉信綱より剣術新陰流の印可を受けた柳生石舟斎宗厳が没す。享年78歳。「石の舟は沈まず」と言われた新陰流の始祖、家康の旗本でボディーガード、黒田長政の推挙で真剣白刃取りの妙技を披露し直臣になったと言われる。数々の歴史小説やドラマの柳生十兵衛のモデル #どうする家康 #大河ドラマ ​​​​​​​

          【柳生石舟斎死去】1606年4月19日

          【毛利勢が上月城を包囲】1578年4月18日

          【毛利勢が上月城を包囲】1578年4月18日 吉川元春・小早川隆景が播磨に入り、織田方の尼子勝久・山中鹿介の拠る上月城を包囲する。毛利元就にとって尼子は不俱戴天の仇であり、生涯大きな壁だった。月山富田城を落とし滅亡させた後、死んだ。しかし勇将山中鹿之助らは生き残り各地でゲリラ戦を展開。2代に渡って尼子との戦いは続いた。 #どうする家康 #大河ドラマ

          【毛利勢が上月城を包囲】1578年4月18日

          【徳川家康死去】1616年4月17日

          【徳川家康死去】1616年4月17日 徳川家康が駿府城で没す。享年75歳。渋沢栄一「日本史上最高の賢人」3英傑の最後の一人。前年に豊臣滅亡させて悲願の天下泰平の道を付ける。そして年号も「元和」改元、平和の元と言う意味です。日光東照宮の神君遺訓「人生は重い荷を背負い長き道を行くが如く急ぐべからず」自分の長命こそが政治の安定になると、信長秀吉を見て思った結論だった。事実、秀忠は思慮深く慎重、しかし決断は果断に行うと言う安定期に欠かせない存在になる #どうする家康 #大河ドラマ

          【徳川家康死去】1616年4月17日