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波乱万丈の人生を駆け抜けた 佐賀藩祖  鍋島直茂 

 戦国時代は下克上の時代と言いますが、一度に一族6人が暗殺されたり、居城を追われたときに2度までも助けてくれた蒲池氏の息子をだまし討ちにしたりと、鍋島直茂は本当に大変な時代を生き抜きました。


 その中で鍋島直茂は当初は龍造寺家のため、晩年は佐賀藩成立のために懸命の努力をしました。

 今山合戦のときの勇猛果敢さもすごいですが、その時々の情勢を見極めて外交交渉によって、島津氏、豊臣秀吉、徳川家康の間を渡り歩いて、鍋島家を幕末まで繁栄させて、明治維新にまで貢献したのは、やはり鍋島直茂が非凡な人物であったことを物語っていますね。

鍋島直茂の生い立ち

鍋島直茂(幼名 彦法師)は天文7年(1528)に肥前の本庄の鍋島館で生まれました。

彼の父 鍋島清房は当時の肥前守護の小弐(しょうに)氏の配下で、彼の母は同じ小弐氏の被官である龍造寺家純(りゅうぞうじ いえずみ)の娘です。

はじめは鍋島信生と名乗っていましたが、ここでははじめから鍋島直茂として記述します。

鍋島直茂の父母の結婚は龍造寺氏と鍋島氏が同盟関係を結ぶための政略結婚だったようで、直茂は鍋島家と龍造寺家の両方の血をひいて生まれました。

そのため、はじめから直茂は龍造寺の一族の子供として育てられたようです。

鍋島直茂誕生の頃の北部九州の情勢

当時の肥前の国(今の佐賀県と長崎県)の守護は小弐氏でしたが、周防の国と長門の国(今の山口県)の守護である大内氏と豊後の国(今の大分県)の守護の大友氏に圧迫されて衰退していました。

龍造寺氏と鍋島氏は小弐氏を助け、享禄3年(1530)には肥前田手畷(たでなわて)で大内軍を撃破しました。

このとき直茂の父の鍋島清房は鬼の面をつけて敵の側面から攻撃し、味方を勝利に導いたと伝えられています。

しかし、龍造寺氏らの勢力拡大を恐れた馬場頼周らは、小弐冬尚に「龍造寺は大内氏に内通している」と換言(かんげん)し、はかりごとによって天文13年(1544) 1月23日と24日に龍造寺家純をはじめ龍造寺家のおもだった一門6名を暗殺してしまいました。

家純の父の龍造寺家兼と孫の龍造寺隆信は筑後の蒲池氏のもとへ逃げ延びました。そのときに鍋島一門も同行したようです。

1546年には大内氏らの支援により龍造寺家兼らは馬場頼周らを討伐し、居城の水ケ江城を回復しました。

しかし、天文20年(1551)に大内義隆が家臣の陶隆房の反逆で自刃すると、反大内親大友の一派の反乱により龍造寺隆信は再び蒲池鑑盛(かまち あきもり)のもとに逃げています。

はっきりしませんが、鍋島一族もこの時期、龍造寺氏と行動をともにしていたと思われます。

龍造寺隆信の戦国大名への道

再起をはかる龍造寺隆信は天文22年(1553)、佐賀の農民達に年貢半減を公約して支援を得て、水ケ江城を奪還しました。

その後、龍造寺隆信は江上氏や神代氏などを降伏させ、徐々に勢力を伸ばし、永禄元年(1558)、父や祖父の暗殺を命じた小弐冬尚を自刃に追い込んでいます。

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