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龍造寺から鍋島35万石へ 佐賀城 高伝寺 徴古館 佐賀県佐賀市

江戸時代の九州には国主クラスの大名が数家ありましたが、九州の地生えは薩摩島津と肥前鍋島の2家。どちらも明治維新の主要キャストです。共通するのは交易を通して海外の知見をいち早く取り入れていた点。現代では福岡あたりがアジアの玄関口をアピール(博多は古くからの大陸系の窓口)。
またキリスト教伝来は九州が起点ですが、受け入れた大名家たち(豊後大友や肥前大村や有馬)とは違って、島津と鍋島(龍造寺)はキリスト教には消極的だった点も同じです。
今回は主家から権力移譲され大名化した珍しい成り立ちを持つ鍋島家、その居城と菩提寺にミュージアムを。


佐賀市は佐賀平野の中心にあり、人口は227,000人。かつての肥前の国は、東の佐賀県と西の長崎県に分かれています。かつての佐賀藩領と唐津藩領がザックリ今の佐賀県です(長崎県の諫早、神代、深堀は佐賀藩領)。
佐賀市は有明海に面してはいますが、沿岸は青い海ではなく潮の干満の差が大きなコトが特徴でがたのイメージが強い地域です。ムツゴロウや兵隊貝へいたいがい(アゲマキガイ)が名産(あまり食べた記憶はない)。またワラスボは見た目がグロくて、干物はエイリアンそのもの。
ちなみに九州のアイスクリームの頂点に立つ(超個人的視点)ブラックモンブランは、小城鍋島家のお膝元竹下製菓の看板商品。ここ数年は関東でも手に入るようになったのは嬉しいかぎりです。


鍋島氏とは

大友家から分捕った鍋島杏葉ぎょうよう紋 

佐賀藩主鍋島家の藩祖鍋島直茂なべしま なおしげ(1538-1618)は、龍造寺りゅうぞうじ家の家臣。初代藩主はその子勝茂かつしげ(1580-1657)です。主君龍造寺隆信たかのぶ(1529-1584)が島原の沖田畷の戦いで島津・有馬連合軍に討ち取られた後、龍造寺家の舵取りを担ったのが直茂。豊臣秀吉にも龍造寺家の後見役として認められ、朝鮮半島の唐入りも指揮しています(これが肥前での陶磁器産業のきっかけに)。
関ヶ原の戦いでは微妙な立場にありましたが、西軍だった築後柳川の立花氏を攻めて肥前領を安堵されます。
龍造寺嫡流の政家まさいえ(1556-1607)・高房たかふさ(1586-1607)親子が相次いで亡くなると、勝茂が龍造寺家の家督を継ぐことになります。直茂が主家を実質的に運営し、かつ隆信の義兄弟であったコト(龍造寺家門いえかどは2人の祖父でもある)。そして家中も彼の実力を認めていたからです。徳川幕府もその事実を承認します。
佐賀藩は35.7万石の大藩でしたが、支藩の御三家親類(4家)、親類同格(4家:龍造寺系)と大身の家臣(総計25万石強)を抱えていました。かつての主家を含めた権力構造もあって、初期の藩運営には苦労しています。

鍋島藩主家は幕末、そして現在まで直茂の血筋が続いています。明治維新では薩長土肥の一角を占め、江藤新平、大隈重信、副島種臣、佐野常民など新政府へ多くの鍋島チルドレンを輩出しています。


佐賀城跡

佐賀県佐賀市場内2-18-1

佐賀城のベースは龍造寺氏の居城だった村中城。江戸初期に直茂・勝茂親子が拡張整備し、自らの居城とします。かつては5重の天守があったそうです(残された絵図には描かれていますが焼失)。
お城は佐賀平野の真ん中にあり、市街地の周辺には田んぼが広がります。特に南側は有明海までずーっと田んぼ。1998年には有明海に面した佐賀空港が開港していますが、佐賀といえば広大な田んぼというのが、子供のころからの変わらない風景です。
 

鯱の門(重要文化財)
明治時代の佐賀の乱の銃弾跡が残る

本丸御殿は明治維新後も生き残り、学校等に利用され後に解体。御座間は移築され公民館に。そして2004年に主要部分を一部復元し、御座間は元の位置に戻されて佐賀城本丸歴史館としてオープン。しかも無料!です。すごかばい佐賀県。
全国に天守や櫓・櫓門を復元しているお城は少なくありませんが、2008年の熊本城本丸御殿、2018年の名古屋城本丸御殿に先駆けての復元御殿でした。

オープン前チラシ 2004年版
パンフ 2023年版
本丸御殿 御玄関
玄関前にはガトリング砲

ガトリング砲は当時最新鋭のイギリスの兵器。幕末、江戸城の無血開城後に彰義隊しょうぎたい(幕府残党軍)は上野寛永寺に籠城します。彼らを武装解除するために司令官大村益次郎おおむら ますじろう村田蔵六むらた ぞうろく:長州の人)が目を付けたのが肥前佐賀のガトリング砲。1日で彰義隊を壊滅させています。

鍋島勝茂の具足(複製、本物は徴古館蔵)
外御書院 四之間まであります
各種行事のセッティングや席次のマニュアル
外御書院の一之間
探幽写し(原本は武雄鍋島家伝来)

鍋島本家が所蔵していた狩野探幽筆の3図(全7図)を武雄領主(龍造寺系)の鍋島茂義しげよし(1800-1862)が模写したとされるモノ。茂義は西洋の学問・技術にも明るく、佐賀10代藩主鍋島直正なおまさ閑叟かんそう1815-1871)の藩政改革に大きな影響を与えた人。

右下が本丸
復元された部分のみ模型化
御座間の奥にいらっしゃいます
鍋島直正像 @本丸歴史館

肥前の妖怪、閑叟さん。藩の財政を立て直し、藩校弘道館で人材育成を図り、洋式兵器や軍制の導入により近代化の先頭を走った人。
当時視察で他国の船に乗り込んだ大名はなく、蘭学への理解など先進的な考えを持っていました。得られた知見や技術(反射炉や蒸気船)を幕府や薩摩へと惜しみなく伝授しています。
当時の佐賀藩の海軍力は日本最強を誇ったそうです。現在も広がる雄大な田んぼから当時を想像するコトはできませんが、市内早津江にある三重津海軍所跡の遺構や歴史館でその足跡を見るコトができます。

直正オランダ船視察の図
日本初の実用蒸気船 淩風丸
議論重視が佐賀流
かつての本丸敷地内には建物が密集
天守台
天守台への入口は分かりにくい
一見石垣ですが
入口が隠れています

御殿側から天守台には直接上がれません。現在は鯱の門からすぐに上がれますが、当時の絵図を見ると堀があって行けません(西側から石垣外側の犬走りぞいに入る)。

南側 有明海方面
西側 県立美術・博物館方面
外堀の幅はかなりあります
直正像

2017年に再建された2代目の直正像(初代は太平洋戦争で供出)。台座は直正さんが作らせた反射炉がモチーフ。


佐賀城の西2kmほどの距離にある鍋島家の菩提寺。

高伝寺

佐賀県佐賀市本庄町1112-1

高伝寺は曹洞宗のお寺で、直茂の父清房きよふさ(1513-1585)により創建された鍋島家の菩提寺。京都東福寺にある巨大な大涅槃図(明兆筆)の模写を所蔵し、年に1回公開されます。
面白いのは明治期になって最後の藩主直大なおひろ(1846-1921)が鍋島家だけでなく、分散していたかつての主君龍造寺家のお墓も集めて整理しているところ。

本殿の脇をズンズン進むと両家の墓所入口に
両家の歴代が並ぶさまは壮観
藩祖直茂
初代勝茂(中央)
龍造寺隆信(左)
龍造寺家兼(左:隆信の曽祖父・剛忠さん)
龍造寺季慶(宿阿:龍造寺家の遠祖、西行法師の叔父らしい)ホントか?
御位牌所


そして佐賀城北側のお濠そばには、鍋島家のミュージアムがあります。


徴古館

徴古館は1927年設立の佐賀県初の博物館。佐賀鍋島家伝来の大名道具類や文書類を所蔵、展示しています。太平洋戦争後はミュージアムの機能は一時休止していたそうですが、1999年に再開。建物1階部分を展示施設として公開しています。年に数回の企画展示が行われていて、催馬楽譜さいばらふ(平安時代の楽譜:佐賀県唯一の国宝)を所蔵。コンパクトな建物ですが逸品が並びます。

佐賀県佐賀市松原2-5-22

パンフ 2019年版
佐嘉神社創建90年記念展 チラシ
2023年9月-11月 徴古館
龍造寺家と鍋島家 資料ファイル
主催:さが城下まちづくり実行委員会
2019年12月 47ページ

徴古館では企画展の図録も多数発行していますが、鍋島関連のツアーの事務局となり、そのツアーでの配布資料(手作り感あふれるカラーコピーのレールクリアファイル)も販売しています。


鍋島家は化け猫騒動のイメージがあるせいか、龍造寺家を乗っ取ったと混同される向きもあります。実際は龍造寺分家たちが徳川幕府に対して、龍造寺家の家督を勝茂が継承した旨を承認しています。血筋だけでなく実力も備えていなければ認められないのが武家の世界でしょう(むしろ鍋島分家の方が宗家に対し自己主張が強い印象)。
そうして鍋島宗家は佐賀藩主として、龍造寺系の血筋も組織に統合しつつ分家も懐柔、明治維新にいたり大きく飛躍します。
鍋島家を知るコトにより、子供のころに持っていた佐賀のイメージは大きく変わりました。まだまだ奥が深そうな鍋島家です。



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