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和華蘭ツーリング 3

 今回のツーリングは取材も兼ねていて。
 全てが恋愛ボケしているわけじゃない。
 大村藩について、いつかは書いてみたいと思っていて。
 
 大村純忠という、初のキリシタン大名がかつてこの地にいた。
 彼はこんな枕詞を冠されているが、歴とした戦国大名である。
 養父は大村純前であり、実子である貴明を後藤氏へ養子に出して、島原有馬氏から純忠を養子に迎えて家督を継承させる。純忠も血縁であり、甥にあたるのではあるが、父親としては罪なことをしたものだ。

 そのために実子と養子とが骨肉を相食む合戦を繰り広げる時期がある。
 丁度、日本史の本筋では桶狭間合戦より数年後、織田家が美濃を攻略している。火縄銃というものが運用を始められれたが、問題は火薬であった。硝石を輸入に頼っていた当時では、ポルトガルとの南蛮貿易という実利と彼らのカトリック布教のリスクとが一体であった。

 現在では傍にハウステンボスが開発された横瀬浦をポルトガルに開港(1562)し、その翌年にはカトリックに改宗している。そして長崎鼻と呼ばれた半島の港を、ローマ教皇に寄進(1571)すらしてしまう。

純忠居城の三城跡


 この翌年に純忠は、居城である三城を義兄の後藤貴明に攻められている。
 彼のカトリックへの帰依は、戦乱の世に貿易による実利を求めた気がしている。そのなかで敬虔な信者へと取り込まれていったのではないか。

 純忠所領においては6万人が帰依した。
 天正年代においてはカトリック信者の半数を占めたという。そして1582年3月、彼は少年遣欧使節団をローマ教皇へ送り出すのである。
 追って同年6月、稀代の風雲児たる織田信長が本能寺で落命するのだ。
 しかし純忠は、肥前に台頭してきた龍造寺隆信の圧迫を受ける。
 沖田畷の戦いにも、純忠の長男が参軍を求めらている。
 だがしかし。
 龍造寺隆信がここで敗死し首を捥がれる。
 不思議なことに、大村勢は勝利した島津勢の追撃を受けなかった。島津の戦線が伸びきっていたのか、或いは通じるものが事前にあったのか。想像が膨らむ部分でもある。
 いよいよ純忠の隠居の日々が始まる。
 ここが彼の終焉の地でもある。
 坂口館跡と呼ばれる。
 いかなる干ばつの年であろうともこの水源は絶えなかったという。
 ここに藁葺きの邸宅を建てて、晩年を過ごしたという。
 

佳い女子の愛犬と散歩に来てみた


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