見出し画像

研究発表「大村純忠と佐賀」を拝聴しました。

1月28日のことですが、佐世保史談会で大村純忠についての研究発表があるとのことで行ってみました。

題して「大村純忠と佐賀」。
発表されるのは、佐賀で戦国時代の研究活動を精力的に行っておられて、私もイベントに参加させていただいている佐賀戦国研究会の代表、深川直也氏。歴史雑誌「忘却の日本史」で大村純忠の連載を執筆されていて、予てよりそれを愛読していた私としては"万障繰り合わせの上"雪の舞う中を駆け付けました。


佐賀城 鯱の門

深川さんが語られたのは「佐賀から見た大村純忠」。これが見方が変わって面白いのです。深川さんは忘却誌におかれても、大村純忠の「敬虔なキリシタン」という一面以外の「辺境国衆」「闘将」「寺社焼討」「領国経営」などについて史料を挙げて言及されていて"なるほど"と思えます。キリシタン大名としての側面ばかりがクローズアップされがちな大村純忠ですが、佐賀側の史料には「すすどき武将」と書かれてあり、なかなかの闘将なんですよね…。


大村純忠が築いた三城城跡


あと興味深かったのが、大村純忠が龍造寺隆信に臣従した後に佐賀に人質を出すのですが、その人質を置いた場所が史料から特定できるとのこと。瑞雲庵というお寺だったそうで、佐賀城から3㎞ほど離れた場所だったそうです。あと江上家種(龍造寺隆信の二男)に嫁いだ純忠の二女、お福のお墓が佐賀県神埼市にあることも初めて知りました。
(この辺りは大村市の関係の方に是非聞いて欲しかったですが…会場にいらっしゃったのかしら?)

私は長崎市の出身なんですが、市の関心は近世(江戸時代)以降が中心で、あくまで大村純忠は‘‘大村の人‘‘との扱いのためか、残念ながらあまり取り上げてくれません。(1571年の開港当時、長崎領主の長崎甚左衛門純景は大村純忠に臣従していたので、長崎は大村領だったのですが。)


諏訪神社境内にある長崎甚左衛門の像。
その正室は大村純忠の娘(とら)だったそうです。



佐賀の方が大村純忠について語って下さるのは嬉しく有難いと思う一方で「私たちも次世代に地域の歴史を伝えていかなくちゃ」と思うのです。

ええっ、そんな物好きは私だけなの!?(笑)


*『忘却の日本史』最新号はこちら。

*佐世保史談会のHPはこちら。

*佐賀戦国研究会のブログはこちら。


この記事が参加している募集

日本史がすき

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?