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【偏見】詰将棋創作に棋力は必要なのか?

「詰将棋創作に棋力は必要なのか?」と問われれば、創作スタンスによってYESにもNOにも成り得るものの、必ずしも必要ではないと思う。その理由を、YESとNO両面から述べてみることにしたい。

他人様に評価されたかったら半分YES

自分は未だに不思議でしょうがない。詰将棋は指し将棋から独立したパズルであるにもかかわらず、指し将棋を基準にして手の巧拙を評価するのが当たり前になっている。そして、作品の抑揚をつけるために手順中に好手を入れなければならない暗黙のルールがある。

自分はそのルールに縛られなくても良い詰将棋は作れるのか?と疑問に思い、無好手作品の一つ、エレベーター詰を作った。某詰将棋投稿アプリスマホ詰パラに何作か投稿したものの、窪田義行(空気から整えていく 環境派)峰王尊師から作品内容とは無関係の難癖をTwitterで拡散されたのでアプリから身を引くことにした。不文律を破れば叩かれたり、こういった難癖をつけられる恐れがあることを、新規参入する人にはチュートリアルか何かであらかじめ伝えるべきだと思う。

詰将棋作品として需要があるのは、指し将棋を基準にした駒の使い方が上手い作品に限られている。つまり、他人様に評価されたいとか、詰将棋誌に採用されたいのであれば指し将棋目線で好手を盛り込んだ作品を作らなければならない。そのためには、棋力はあるに越したことは無い。指し将棋を指さずとも他人様の作品を見ることによって目が養われる可能性を考慮すれば、絶対に棋力が必要とは言い切れない。

しかしながら、上記の暗黙のルールはやがて自分で自分の首を絞めることになる。創作支援ソフトが無料でも利用できるようになった現在、創作者と投稿作品数が増えるとともに類作や盗作が増え、有限の作図可能局面から新規性のある図や手筋が加速的に枯渇していくからだ。それに、求められる作品の質も次第に高くなっていく。

こんな状態が続けば作品資源を漁り尽くしてしまい、すっからかんな盤面を次世代に押しつけることになる。自分達は存分に楽しんでおいて、後進には「持続可能な詰将棋を」と都合の良い詰将棋SDGsをそのうち謳い始めるかもしれない。

自己満足でいいならNO

こんな風に、暗黙のルールを順守する詰将棋はいずれ閉塞感が増していくと自分は危惧している。そこで、さほど手がつけられていない裸玉・双裸玉の探索と、飛車で遊ぶ系の無好手作品を誰に評価されるでもなくNOTEに投稿している。自己満足でいいなら棋力は必要ない

暗黙のルールに従わないので評価対象にもならないし、盗作される心配も盗作する恐れもない。形式上はこれも詰将棋作品でありながら、窪田義行(空気から整えていく 環境派)峰王尊師のような指し将棋を評価基準とするのが大好きな方の中には不快感すら覚える者もいるらしい。そのため、投稿時には仕方なく下記の注意書きを添えるように配慮している。

CAUTION! 
純粋に指し将棋をベースにした好手・好手順等の創出を目指している詰将棋創作者はここでブラウザバックした方が良いです。質の低い手や手順に気分を害したり、SNS等で晒し叩きせずにはいられなくなる恐れがあります。

詰将棋創作者への注意

探索系無好手作品

飛車で遊ぶ系無好手作品

まとめ

「詰将棋創作に棋力は必要なのか?」に対しては、個々人の価値観の数だけ正解があるが、強いて言えば自分は他人様から評価されたいなら半分YES、自己満足でいいならNOだと思っている。

スペシャルサンクス

窪田義行(空気から整えていく 環境派)峰王尊師:拙エレベーター詰に対して ”詐術的印象を与える” と迚も心温まる難癖を拝賜致しました。

「ためになるわ」と感じて頂ければサポートを頂ければ幸いです。よろしくお願いいたします。