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【ウマ娘】史実を追って涙腺に差される稀有な作品だった件(ツインターボ師匠編)

自分の数少ない感動するポイントとして、与えられた能力のありったけを注ぎ込んで強い輝きを放つ表現に自分は弱いと以前にエッセイに書いたが、TVアニメ『ウマ娘 プリティーダービー Season 2』で見事にそこを衝かれてしまった。

最初のイメージ

最初は美少女がたくさんでてくるだけのありふれた作品なのだろうと思って敬遠していた。だからアニメ1期の視聴はおろか、ゲームすら遊んでもいなかった。馬や競馬に全く興味も価値も感じていなかったし、何より自分の中で競馬=ギャンブルというネガティブなイメージしかなかった。唯一、テレビで見かける発走前のファンファーレはカッコいいなと思って聴いていたくらいだ。

しかし不思議なもので、ふとアニメ2期を見てからは、馬に熱中する人たちとその熱量が理解できるようになってきて、今やこんな誰も読まないであろうエッセイをわざわざ書き始めてすらいる。完全にニワカではあるが、この作品における創作の上手いところを少し語ってみたい。

自分の考える”感動”

自分は、感動というのは興味を持っていない人の偏見を意外性(ギャップ)で叩き潰すことによって生まれるものだと考えている。そのためには視聴者サイドの知識不足や先入観、キャラクターへの見下しがある程度必要になってくる。そういった描写があからさまではなく、気に障らないよう自然に演出できている作品は信頼しても良いと自分は思っている。

キャラの感情表現と物語構成がこの作品の”創作”

自分にとってウマ娘から受けた感動は圧倒的な知識不足によるところが大きい。知っていたのはテレビのニュースで報道している超有名なレースと勝った馬の名前くらいだった。他の馬名、競馬場のある場所、レースには等級があること、馬の脚質など何が有利で何が不利なのか分からない。そのせいで、面白がり方がさっぱり分からなかった。

学校では教わらないけれど、知識は持っているほど ”面白い” と感じられることが増える。ただ、知識を限界まで持ちすぎたら今度は無知による感動を味わうことができなくなるジレンマに陥る。”知っておいて損はない" という言葉があるけれど、その裏では "知ることで薄れる感動もある" と思っている。今回はそれがちょうど良い方向に働いてくれた。

一般のアニメとは異なり、実在した馬をウマ娘としてキャラクター化させ、有名なレース、伝説と称されるレース、レース外のハプニングといった史実を上手いことアニメの中に落とし込み、それに脚色を加えて一つの物語へと昇華させている。

通常の創作との違いは、作者がゼロから作り上げる世界観や登場人物の性格の設定、勝負などが一通り用意されていることにある。史実を基にすることを心がけているため、エピソード不足に陥ることがないというのは非常に心強い。その代わり、現実では馬同士が掛け合いをすることはないため、擬人化によって発生する感情表現(キャラクター同士の関係性の構築)と物語構成がこの作品における創作と言えるだろう。

さて、ここで一つ懸念点がある。仮に自分が熱狂的な競馬ファンだったらどう思っただろうか、ということだ。血統(親子関係)を歪に表現していることに対する不快感、牡馬の見た目までをも美少女化する違和感、騎手排除の意味不明さ、馬自体をキャラクター化する抵抗感など気になる障壁を挙げればキリがない。これらを乗り越えられるかで作品の評価は大きく変わる。フィクションと現実との違いにツッコミを入れ続ける老害と化したら、最悪途中で視るのをやめていたかもしれない。

が、幸いにも、自分は前提知識を何も持っていなかったので、1着を一途に狙う姿勢や負けた時の悔しさ、怪我との付き合いや鬱憤、ライバルからの叱咤激励など、制作側が「私たちにはこう見えていますよ」というウマ娘同士の関係性の描写を素直に受けとり、物語をより一層熱いものに仕上げていると感じとることができた。

追えば追うほど涙腺に差される”史実”

主人公だけでなく、登場するキャラにできるだけ目立てるところを用意する点についても良い作品だと判断する際の特徴の一つだと思った(キャラ数が多すぎて捌き切れていないが)。まだアニメ2期は完結していないものの、ここ最近のエピソードは明らかに感動を誘う方にシフトしてきている。ツインターボに関する解説動画をハシゴした後にもう一度10話を見なおしていると、人生で3度目のアニメでの落涙をしていた。冒頭でも述べたように、与えられた能力のありったけを注ぎ込んで強い輝きを放つ表現に自分は弱いのだ。

史実を追って涙する作品はこれが初めてだ(1993年09月19日、第39回産經賞オールカマー)。今まで名前も知らなかったその小柄な大逃げ馬は自身の演出した偽りの超ハイペースによって格上の馬たちを大きく引き離したままレースは終盤へと突入。そのまま4コーナーに単騎で突っ込んでいく姿、そして追い上げる後続からゴールまで懸命に逃げる姿、そこに畳みかけるように熱い実況が入ってきて視界はどんどんと滲んでいく。何の思い入れもないはずなのに、こみ上げてくる感情を抑えようとしても抑えきることができなかった。「誰かこの感情が何なのか説明してくれ……」という感じだった。

この展開はおよそ2ヶ月前に行われていた(1993年07月11日)第29回七夕賞が伏線となっている。レース前に全力疾走を見せつけることで、超ハイペースで逃げていると錯覚させる勝負手がもたらしたインパクトは余りにも大きかった。ご都合主義も何もない、動画サイトに記録として残っているレースは素人からしても熱いものだったし、この2戦をできるだけアニメで再現していたのは感動的だった。自分の偏見がひとつ、見事な脚本によって全く別のものに変わってしまった。

史実を追えば追うほど、2期のライスシャワー回と1期のサイレンススズカ回のエピソードの裏に隠れている本当の歴史が、その栄光と悲劇的な結末が同時に脳裏を駆け巡って筆舌に尽くしがたいほどに心が痛む。「あぁ、何も知らずに見ていた初見はなんと幸せだったことだろう……」と思わせる作品など自分は今までに見たことがない。だからこそ、馬がゴールまで無事に走り切ってくれるだけで安堵の気持ちが湧いて出るようにもなった。この物語の先には、おそらくもっと熱い世界が待っているだろう。

今からリアルの方の競馬を見たり、更なる歴史を追うのも良いかもしれない。そして残り少なくなってきたアニメ2期も、感動のゴールへ目掛けてこのまま駆け抜けていって欲しいと思う。

悪役の不在が加速させる”感情移入”

珍しいことに、この作品に特定の悪役は登場しない。強いて言うならば、本当の悪役はキャラクターに怪我や故障といった運命の意地悪をしている神様的存在(根本は現実世界の人間のエゴ)だ。誰も悪くないが故に、怒りのぶつけ所のない視る者の心は締め付けられていく。この何とも言えない無力感がキャラクターへの感情移入を加速させる仕掛けになっていると考えられる。

もし、この無力感がラスボスと位置付けられた敵対するキャラクターによるものだったら、反抗や恐怖、怒りなどの外向きの感情が邪魔して同じ効果を得るのは難しかっただろう。そういう理由から、自分は悪役がいない作品の方が好みだったりする。大自然の脅威を一身に受けたり、ウマ娘のように競技中や練習中に怪我をしたりするなどといったぶつけ所のない怒りを生み出す無力感の方がダイレクトに心に響き、より魅力的に感じられるのだ。

追記:ゴールドシップの血統表を調べたら想像を超えたドラマがあった件



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