永澤 護 /dharmazeroalpha

哲学 形而上学 詩 物理数学 単著『形而上学 <私>は0と1の<狭間>で不断に振動し…

永澤 護 /dharmazeroalpha

哲学 形而上学 詩 物理数学 単著『形而上学 <私>は0と1の<狭間>で不断に振動している』執筆中 主著『カンブリア革命』連絡先 dharmamamoru@gmail.com

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    カントの『純粋理性批判』とその周辺を探究する記事です。私自身の若い頃の草稿を含むArchives的位置づけも持ちます。

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『形而上学 <私>は0と1の<狭間>で不断に振動している』(Metaphysics: The <I> is in constant oscillation between 0 and…

『本論』 序文 <私>と現実性へと向かって  『序論』での探究を前提とした以後の記述においては、この<私>の無内包性を、同様に無内包の現実性とともにさらに探究…

手におえぬ痛みの中で 映画『キャラクター』主題歌『Character』(ACAね×Rin音)歌詞 & 詩形式のコメント

※以下は、現在執筆中の『形而上学 <私>は0と1の<狭間>で不断に振動している』上巻「Interlude2 手におえぬ痛みの中で」を転載したものである。 以下歌詞の転載開始 …

クリプキを巡って

現在執筆中の『形而上学 <私>は0と1の<狭間>で不断に振動している』本論 第3章 <非-思量>という<次元/場> Ⅰ <私-誰 I-Someone/Who>と<私-今>の「附論」を…

「人間原理」とカント『純粋理性批判』 ――超越論的構成の物理数学的意味

「現にある宇宙の構造の根拠」を「現にこのような人間が存在しているということ」に求める――「宇宙が現にこのようにあるのは、もし宇宙が別様にあったとすれば、私たち/…

カント『純粋理性批判』「量子重力理論/観測問題/量子ベイズ主義――<超越論的自由>の不可避性」後半

※下記は、現在執筆中の『形而上学 <私>は0と1の<狭間>で不断に振動している Metaphysics: The <I> is in constant oscillation between 0 and 1』「第5章 カント『…

カント『純粋理性批判』/量子重力理論/観測問題

以下が、久保元彦氏最晩年の論考「内的経験」最後の記述である。 「だが本当は、現象形式の探究と、概念にもとづく認識の闡明とが一致する地平に立って、原則を、まずそ…

カント『純粋理性批判』の難解さ/完璧性

カントの『純粋理性批判』が極度に難解だと感じられる理由は、彼が極度に完全主義的だったからということが大きい。彼の文章は悪文というよりむしろあらゆる観点から見て完…

ドゥルーズ/「落下」/自殺

それ自体としては平凡なことだが、ドゥルーズがあるときから自身の「落下」による自殺への予期的な不安にとらわれたのはほぼ間違いないと思われる。ドゥルーズ晩年のベケッ…

ドゥルーズとメルロ=ポンティ

ドゥルーズ『感覚の論理学』

かみ砕いて言えば、物理数学の究極課題は「重力と時空の関係性」を完全に定式化すること――完全な量子重力理論の構築――である。周知の様に超弦理論も未完成である→「それは既存の数学では無理かもしれない。次世代の数学に期待すべきなのかもしれない。」――『究極理論への道』米谷民明氏の言葉

Tweet Archives 入不二基義氏「マイナス内包」についてのコメント

Tweet Archives カント『純粋理性批判』 超越論性に関する注記

参考

Tweet Archives 数学と哲学-形而上学

「とみなすことができる/操作可能性(対応可能性)」は、数学全体(数学の全領域)の指導理念でもある。数学全体の先端部に位置する「圏論」はその理念の結晶体「とみなす…

『新紀要』来年春号掲載に向けて、12月25日に『形而上学 <私>は0と1の<狭間>で不断に振動している』『序論』改訂版を谷口一平氏に送信予定。400字で80枚。

そろそろ日本国民全員来年5月が真のデッドラインだと気づかないとゲームオーバー だがもちろんまだ諦めてはいない。日々または一刻一刻可能な限り努力を続ける。

『形而上学  <私>は0と1の<狭間>で不断に振動している』(Metaphysics: The <I> is in constant oscillation between 0 and 1) 「序文」 登場する & 登場予定の固有名 適宜更新

『形而上学 <私>は0と1の<狭間>で不断に振動している』(Metaphysics: The <I> is in constant oscillation between 0 and 1) 「序文」 登場する & 登場予定の固有名 適宜更新



『本論』 序文 <私>と現実性へと向かって

 『序論』での探究を前提とした以後の記述においては、この<私>の無内包性を、同様に無内包の現実性とともにさらに探究していくことにしたい。なお、ここで無内包性とは、その無内包性自体については、否定性=ゼロを含む内包量が対応するいかなる実在性も記述できないという事態を言う。『序論』においては、①ここで<私>によって想定されている内包量の非存在の経験は

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手におえぬ痛みの中で 映画『キャラクター』主題歌『Character』(ACAね×Rin音)歌詞 & 詩形式のコメント

手におえぬ痛みの中で 映画『キャラクター』主題歌『Character』(ACAね×Rin音)歌詞 & 詩形式のコメント

※以下は、現在執筆中の『形而上学 <私>は0と1の<狭間>で不断に振動している』上巻「Interlude2 手におえぬ痛みの中で」を転載したものである。

以下歌詞の転載開始
※以下の転載は、上記サイトにおける「ずっと真夜中でいいのに。 ZUTOMAYO」氏自身による歌詞の改行秩序に従っている。

ジキルがハイド俺がお前をtrace 飲み込まれないようにレース制すべく制す アイデンティティが唯一我

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クリプキを巡って

クリプキを巡って

現在執筆中の『形而上学 <私>は0と1の<狭間>で不断に振動している』本論 第3章 <非-思量>という<次元/場> Ⅰ <私-誰 I-Someone/Who>と<私-今>の「附論」を転載

 クリプキは、『ウィトゲンシュタインのパラドックス ――規則・私的言語・他人の心』(Wittgenstein on Rules and Private Language, 1982)において、「クワス算 quu

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「人間原理」とカント『純粋理性批判』 ――超越論的構成の物理数学的意味

「人間原理」とカント『純粋理性批判』 ――超越論的構成の物理数学的意味

「現にある宇宙の構造の根拠」を「現にこのような人間が存在しているということ」に求める――「宇宙が現にこのようにあるのは、もし宇宙が別様にあったとすれば、私たち/人間が存在して宇宙を観測することはできないためである」という論理としての――「人間原理」は、以上の意味における思考/観測という行為を<超越論的自由>として要請する理性の超越論的理念である。つまり「人間原理」とは、形而上学段階に至った最先端現

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カント『純粋理性批判』「量子重力理論/観測問題/量子ベイズ主義――<超越論的自由>の不可避性」後半

カント『純粋理性批判』「量子重力理論/観測問題/量子ベイズ主義――<超越論的自由>の不可避性」後半

※下記は、現在執筆中の『形而上学 <私>は0と1の<狭間>で不断に振動している Metaphysics: The <I> is in constant oscillation between 0 and 1』「第5章 カント『純粋理性批判』のデッドライン Ⅱ 内包量のアポリアのもう一つの地帯/Zone――「魂の常住不変性に関するメンデルスゾーンの証明に対する論駁」から諸地帯Zonesへ」の「附論 

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カント『純粋理性批判』/量子重力理論/観測問題

カント『純粋理性批判』/量子重力理論/観測問題

以下が、久保元彦氏最晩年の論考「内的経験」最後の記述である。

「だが本当は、現象形式の探究と、概念にもとづく認識の闡明とが一致する地平に立って、原則を、まずその純然たるすがたにおいて捉えようと努めるのでなければ、カントの思索の精髄を、けっしてかいまみることはできないのだ。」(「内的経験(五)」『カント研究』創文社 1987年 所収 197頁)

カントの目指した「学としての形而上学」は、

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カント『純粋理性批判』の難解さ/完璧性

カント『純粋理性批判』の難解さ/完璧性

カントの『純粋理性批判』が極度に難解だと感じられる理由は、彼が極度に完全主義的だったからということが大きい。彼の文章は悪文というよりむしろあらゆる観点から見て完璧さを目指し、しかもそれを達成している様に見える。実際、前人未踏の洞察を書くにはこうするより他なかったのだ。

完璧――つまりそれ以上さらに完全に改善/修正/彫琢しようとしても「まったく不可能」だということである。特にこの完璧さは『純粋理性

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ドゥルーズ/「落下」/自殺

ドゥルーズ/「落下」/自殺

それ自体としては平凡なことだが、ドゥルーズがあるときから自身の「落下」による自殺への予期的な不安にとらわれたのはほぼ間違いないと思われる。ドゥルーズ晩年のベケット論『消尽したもの』(Quad et autres pièces pour la télévision suivi de L'épuisé par Gilles Deleuze,Minuit,1992) がその記述的な傍証になっている。

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かみ砕いて言えば、物理数学の究極課題は「重力と時空の関係性」を完全に定式化すること――完全な量子重力理論の構築――である。周知の様に超弦理論も未完成である→「それは既存の数学では無理かもしれない。次世代の数学に期待すべきなのかもしれない。」――『究極理論への道』米谷民明氏の言葉

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「とみなすことができる/操作可能性(対応可能性)」は、数学全体(数学の全領域)の指導理念でもある。数学全体の先端部に位置する「圏論」はその理念の結晶体「とみなすことができる」。圏論のまさに最中枢に位置する「米田の補題」は、「対象Aは、「Aに対してAの他のあらゆる対象Xとの関係性を対応付ける操作」とみなすことができる(「Aに対してAの他のあらゆる対象Xとの関係性を対応付ける操作」からAを復元できる)

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『新紀要』来年春号掲載に向けて、12月25日に『形而上学 <私>は0と1の<狭間>で不断に振動している』『序論』改訂版を谷口一平氏に送信予定。400字で80枚。

そろそろ日本国民全員来年5月が真のデッドラインだと気づかないとゲームオーバー だがもちろんまだ諦めてはいない。日々または一刻一刻可能な限り努力を続ける。