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人工知能/AIと数学的構造
もし《X=AGI》と私/我々人間それぞれに固有な/特定の時空認知フレーム/直観形式と概念フレームの対称性の自発的な破れを超えた構造を想定するならば、その構造は、任意の《時空-概念形式》間の非対称性を超えた普遍性の場として単に想定されることになる。
※ここで《X=AGI》とは、任意の可能的<X>――把握の仕組みの非存在という事態を表現する存在者――の概念すなわち《X》を任意の可能的AGI(汎用人
『形而上学 この私が今ここにあること』原草稿「汎用人工知能/AGIの問題圏 スーパーインテリジェンス(承前)」
※以下は、現在執筆中の拙稿『形而上学 この私が今ここにあること』第4章Ⅰの原草稿である。いずれ格段にかみ砕いてリライトされる。
この<私-今>の成立への問い自体が、<隙間/裂け目>を内包しつつ循環しているのなら、このトポロジカルな循環構造において、この私は汎用人工知能/AGI(以下AGI)と出会うことができるのだろうか。いまだ想定に過ぎないが、その出会いは、不可能なものとして、この私の想定をは
原草稿『形而上学 この私が今ここにあること』Interlude1 汎用人工知能/AGIの問題圏スーパーインテリジェンスニーチェからカントへ
※以上は、現在執筆中の拙稿『形而上学 この私が今ここにあること』原草稿のInterlude1「汎用人工知能/AGIの問題圏スーパーインテリジェンスニーチェからカントへ」である。いずれ格段にかみ砕いてリライトされる。
汎用人工知能 (Artificial general intelligence:AGI) は、「人間が実現可能なあらゆる知的作業を理解・学習・実行可能な人工知能」「人間と同じ感性と
原草稿『形而上学 この私が今ここにあること』第1章Ⅱ-2「マイナス内包」への遡行/想定と<超越論的自由>
※以上は、現在執筆中の拙稿『形而上学 この私が今ここにあること』原草稿の第1章 「無内包性と形式性」のⅡ「 カント『純粋理性批判』――「形式としての空間」の形式性」の第2節である。いずれ格段にかみ砕いてリライトされる。
この「可能であるという応答/要請」について、さらに考えてみたい。
感覚遮断実験の被験者や筋萎縮性側索硬化症ALS患者の経験の場合にも、この私がこの空間に向けて自分を開き、立ち
原草稿『形而上学 この私が今ここにあること』第5章Ⅰ ドゥルーズ『感覚の論理学』から源初的な開き/裂開の運動性へ
※以上は、拙稿『形而上学 この私が今ここにあること』原草稿の第5章「カント『純粋理性批判』のデッドライン」Ⅰ「ドゥルーズ『感覚の論理学』から源初的な開き/裂開の運動性へ」である。いずれ格段にかみ砕いてリライトされる。
第5章の導入として、カント『純粋理性批判』のデッドラインがどのような地帯/Zoneにおいてマークされているのかという問いに関わるツイートスレッドを以下に提示する。
入不二基
『形而上学 この私が今ここにあること』『序論』Prologue――守時奴から<記憶>へ
Prologueには、劇の内容を紹介する前口上/序幕という意味があります。以下の顔アカウント氏のツイートは、これから上演されていく劇を照らすものとして、まさにPrologueにふさわしいと思います。ツイートにおける「守時奴」という興味深い概念は、彼が発明したものです。
顔アカウント@sitasimiyasui 2024年4月22日
私が言っている「守時奴」は内容のない(未だ消費されていない)時間
『形而上学 この私が今ここにあること』『序論』Prelude
Preludeには前兆、前触れという意味があります。前兆/前触れにふさわしいPreludeとして、永井 均氏による2023年8月21日付けの二つのツイートを転載します。
今「前兆/前触れ」と書きましたが、本書において、「A/B」と書いた場合のスラッシュ記号「/」の使い方について説明します。このスラッシュ記号「/」は、AとBのどちらかだけを取ることなく、また必ずしもAとBが対立したり対比された
『形而上学 この私が今ここにあること』『序論』Epigraph
本書のテーマは、この私が今ここにあることです。この私が今ここにあるとは、そもそもどういうことなのでしょうか。それは、この私の今ここへの問いといってもいいでしょう。必ずしもこの問いに対する答えではなくても、この問いを考える上でなにか手掛かりになるようなことを、これから探し求めていくということです。もしそれをどこまでも探し求めていこうとするなら、それはたぶん終わりのない探究になります。
例えば、
『形而上学 この私が今ここにあること』『序論』 第一次リライト版(一部改訂)
Epigraph
本書のテーマは、この私が今ここにあることです。この私が今ここにあるとは、そもそもどういうことなのでしょうか。それは、この私の今ここへの問いといってもいいでしょう。必ずしもこの問いに対する答えではなくても、この問いを考える上でなにか手掛かりになるようなことを、これから探し求めていくということです。もしそれをどこまでも探し求めていこうとするなら、それはたぶん終わりのない探究になり
『形而上学』序論 Prologue――守時奴から<記憶>へ 第一次リライト版
Prologue――守時奴から<記憶>へ
Prologueには、劇の内容を紹介する前口上/序幕という意味があるようです。以下の顔アカウント氏のツイートは、これから上演されていく劇を遠くまで照らすものとして、まさにPrologueにふさわしいと思います。ツイートにおける「守時奴」という興味深い概念は、彼が発明したものです。
顔アカウント@sitasimiyasui 2024年4月22日
私が言
『形而上学』本論「序文」第一次リライト版
以後、この<私>の無内包性を、無内包の現実性とともに探究していきたいと思います。ここで無内包(性)とは、その無内包性については、感覚の程度/内包量ゼロという状態を含むいかなる実在性もない――「ない/ゼロ」と記述することも言うこともできない――という事態でした。すなわち、この私が、そして私たちが生きるこの世界におけるあらゆる物事に何一つ付け加えることも、またそこから差し引くこともできないということ
もっとみるプラトン『テアイテトス』の問題圏――<私>と「現実性の力」へ
以下は、現在執筆中の拙稿『形而上学 <私>は0と1の<狭間>で不断に振動している』「第7章 プラトン『テアイテトス』の問題圏――<私>と「現実性の力」へ」の後半部分である。
プラトン『テアイテトス』の続く議論の段階では――議論全体の整合性に問題がないとは言えないが――すでに「記憶」(の印刻/痕跡)がテーマになっている。言い換えれば、今/現在から今/現在ではない<次元/場>への向きが導入されてい