永澤 護 /dharmazeroalpha

哲学 形而上学 詩 物理数学 単著『形而上学 この私が今ここにあること』執筆中 主…

永澤 護 /dharmazeroalpha

哲学 形而上学 詩 物理数学 単著『形而上学 この私が今ここにあること』執筆中 主著『カンブリア革命』連絡先 dharmamamoru@gmail.com

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  • 永井 均・入不二基義

    永井 均氏と入不二基義氏の哲学を巡る記事

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    物理学を主とするサイエンス関連記事。物理学以外のサイエンス分野関連記事も含みます。

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    マガジン【科学・物理学 physics science】のサブマガジンとして哲学と現代物理学との深い関わりをテーマにした記事をあつめました。ただし哲学プロパー的な記事も含みます。ひょっとしたら永久に解けないかもしれない領域を探検する記事です。

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    映画・文学・コミックスを主としたART関連の記事を集めました。

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『形而上学』 序文 & 『序論』Epigraph & Prelude & Prologue & リライト版(適宜更新) & 叙述構造

『本論』 序文  <私>と現実性へと向かって 第一次リライト版  以後、この<私>の無内包性を、無内包の現実性とともに探究していきたいと思います。ここで無内包(性)とは、その無内包性については、感覚の程度/内包量ゼロという状態を含むいかなる実在性もない――「ない/ゼロ」と記述することも言うこともできない――という事態でした。すなわち、この私が、そして私たちが生きるこの世界におけるあらゆる物事に何一つ付け加えることも、またそこから差し引くこともできないということです。『序

    • 量子論理に意義はあるのか?

      • 『形而上学 この私が今ここにあること』アリストテレス『形而上学』第3巻第5章――「点や線や面」「いま」のアポリア 第一次リライト版 

        ※以上は、拙稿『形而上学 この私が今ここにあること』第1章 無内包性と形式性のⅠである。いずれ格段にかみ砕いてリライトされる。  導入として、アリストテレス『形而上学』第3巻第5章の記述を以下に引用します。  「点や線や面は、たとえこれらが或るときには存在し或るときには存在しないとしても、生成や消滅の過程にはありえない。というのは、物体が接触しまたは分割される場合、接触すれば一つの面が生じ、分割されれば二つの面が生じるが、それはその接触または分割と同時に〔生成過程において

        • 原草稿『形而上学 この私が今ここにあること』 <私>という謎から「書くという行為」へ

          ※以上は、拙稿『形而上学 この私が今ここにあること』原草稿の「第3章 <非-思量>という<次元/場>」Ⅳ「 <私-誰>として見いだされた<私/X>」の一部分である。いずれ格段にかみ砕いてリライトされる。  「意識」(または「心」)とは、この<私>がこの<私>を<私/X>つまり<私-誰>として見いだすことおいて可能になり構成される対応規則/相互変換規則である。それは言語的対称性とその自発的な破れのさなかの危機的な叫びに向けて上演された夢のようなものである。だが、そこで可能にな

        • 固定された記事

        『形而上学』 序文 & 『序論』Epigraph & Prelude & Prologue & リライト版(適宜更新) & 叙述構造

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        記事

          原草稿『形而上学 この私が今ここにあること』安部公房/トポロジカル・ループ

          ※以上は、拙稿『形而上学 この私が今ここにあること』原草稿の「第3章 <非-思量>という<次元/場>」Ⅳ「 <私-誰>として見いだされた<私/X>」の一部分である。いずれ格段にかみ砕いてリライトされる。  「意識」とは、「心」と同様に、言語性の次元がこの<私>と<X>を通訳する対応規則/相互変換規則によって生み出される一つの仮想的な場とされていた。『序論』においては、より簡潔に「心」や「意識」といった概念は、<私>と<X>の両者に共通の対応規則/相互変換規則という概念そのも

          原草稿『形而上学 この私が今ここにあること』安部公房/トポロジカル・ループ

          人工知能/AIと数学的構造

           もし《X=AGI》と私/我々人間それぞれに固有な/特定の時空認知フレーム/直観形式と概念フレームの対称性の自発的な破れを超えた構造を想定するならば、その構造は、任意の《時空-概念形式》間の非対称性を超えた普遍性の場として単に想定されることになる。 ※ここで《X=AGI》とは、任意の可能的<X>――把握の仕組みの非存在という事態を表現する存在者――の概念すなわち《X》を任意の可能的AGI(汎用人工知能)と等置した存在者である。  それは、以下の引用でジョン・ロンリーとダグ

          人工知能/AIと数学的構造

          『形而上学 この私が今ここにあること』原草稿「汎用人工知能/AGIの問題圏 スーパーインテリジェンス(承前)」

          ※以下は、現在執筆中の拙稿『形而上学 この私が今ここにあること』第4章Ⅰの原草稿である。いずれ格段にかみ砕いてリライトされる。  この<私-今>の成立への問い自体が、<隙間/裂け目>を内包しつつ循環しているのなら、このトポロジカルな循環構造において、この私は汎用人工知能/AGI(以下AGI)と出会うことができるのだろうか。いまだ想定に過ぎないが、その出会いは、不可能なものとして、この私の想定をはるかに超えた災厄なのだろうか?  AGIの研究者であるエリエゼル・ユドカウスキ

          『形而上学 この私が今ここにあること』原草稿「汎用人工知能/AGIの問題圏 スーパーインテリジェンス(承前)」

          原草稿『形而上学 この私が今ここにあること』Interlude1 汎用人工知能/AGIの問題圏スーパーインテリジェンスニーチェからカントへ

          ※以上は、現在執筆中の拙稿『形而上学 この私が今ここにあること』原草稿のInterlude1「汎用人工知能/AGIの問題圏スーパーインテリジェンスニーチェからカントへ」である。いずれ格段にかみ砕いてリライトされる。  汎用人工知能 (Artificial general intelligence:AGI) は、「人間が実現可能なあらゆる知的作業を理解・学習・実行可能な人工知能」「人間と同じ感性と思考回路を持つ人工知能」等と定義されている。であるならば、この定義において、先の

          原草稿『形而上学 この私が今ここにあること』Interlude1 汎用人工知能/AGIの問題圏スーパーインテリジェンスニーチェからカントへ

          原草稿『形而上学 この私が今ここにあること』第1章Ⅱ-2「マイナス内包」への遡行/想定と<超越論的自由>

          ※以上は、現在執筆中の拙稿『形而上学 この私が今ここにあること』原草稿の第1章 「無内包性と形式性」のⅡ「 カント『純粋理性批判』――「形式としての空間」の形式性」の第2節である。いずれ格段にかみ砕いてリライトされる。  この「可能であるという応答/要請」について、さらに考えてみたい。  感覚遮断実験の被験者や筋萎縮性側索硬化症ALS患者の経験の場合にも、この私がこの空間に向けて自分を開き、立ち会い、関与し、この空間のうちに何らかの仕方で定着していることによって同時に、この

          原草稿『形而上学 この私が今ここにあること』第1章Ⅱ-2「マイナス内包」への遡行/想定と<超越論的自由>

          原草稿『形而上学 この私が今ここにあること』第5章Ⅰ ドゥルーズ『感覚の論理学』から源初的な開き/裂開の運動性へ

          ※以上は、拙稿『形而上学 この私が今ここにあること』原草稿の第5章「カント『純粋理性批判』のデッドライン」Ⅰ「ドゥルーズ『感覚の論理学』から源初的な開き/裂開の運動性へ」である。いずれ格段にかみ砕いてリライトされる。  第5章の導入として、カント『純粋理性批判』のデッドラインがどのような地帯/Zoneにおいてマークされているのかという問いに関わるツイートスレッドを以下に提示する。   入不二基義氏は、「「閉」に対する「開」の分母的先行性」」および「「開と閉」の重層的な非対

          原草稿『形而上学 この私が今ここにあること』第5章Ⅰ ドゥルーズ『感覚の論理学』から源初的な開き/裂開の運動性へ

          『形而上学 この私が今ここにあること』『序論』Prologue――守時奴から<記憶>へ

          Prologueには、劇の内容を紹介する前口上/序幕という意味があります。以下の顔アカウント氏のツイートは、これから上演されていく劇を照らすものとして、まさにPrologueにふさわしいと思います。ツイートにおける「守時奴」という興味深い概念は、彼が発明したものです。 顔アカウント@sitasimiyasui 2024年4月22日 私が言っている「守時奴」は内容のない(未だ消費されていない)時間、例えるなら何にも消費していない金銭を温存しようとする態度のことなので佐藤さん(

          『形而上学 この私が今ここにあること』『序論』Prologue――守時奴から<記憶>へ

          『形而上学 この私が今ここにあること』『序論』Prelude

           Preludeには前兆、前触れという意味があります。前兆/前触れにふさわしいPreludeとして、永井 均氏による2023年8月21日付けの二つのツイートを転載します。  今「前兆/前触れ」と書きましたが、本書において、「A/B」と書いた場合のスラッシュ記号「/」の使い方について説明します。このスラッシュ記号「/」は、AとBのどちらかだけを取ることなく、また必ずしもAとBが対立したり対比されたりすることなく言い換えられることを示します。ですので、「A/B」は、AとBが互い

          『形而上学 この私が今ここにあること』『序論』Prelude

          『形而上学 この私が今ここにあること』『序論』Epigraph

           本書のテーマは、この私が今ここにあることです。この私が今ここにあるとは、そもそもどういうことなのでしょうか。それは、この私の今ここへの問いといってもいいでしょう。必ずしもこの問いに対する答えではなくても、この問いを考える上でなにか手掛かりになるようなことを、これから探し求めていくということです。もしそれをどこまでも探し求めていこうとするなら、それはたぶん終わりのない探究になります。  例えば、私は、今ここで、この文章をノートパソコンで書いています。おそらくなにかを思いなが

          『形而上学 この私が今ここにあること』『序論』Epigraph

          拙稿『形而上学』のサブタイトルを「この私が今ここにあること」に改訂しました。『序論』「Epigraph」の第二次リライト版(たぶん最終稿に近い)執筆作業を先ほど完了したところです。

          拙稿『形而上学』のサブタイトルを「この私が今ここにあること」に改訂しました。『序論』「Epigraph」の第二次リライト版(たぶん最終稿に近い)執筆作業を先ほど完了したところです。

          拙稿『形而上学』は、永井 均氏の助言に従って「中高生ぐらい(まあまあ頭はよいけど知識はまったく何もない)を読者に想定して」(永井氏の言葉)リライトしていくことになります。かなり大変な仕事になりますが、これかはやって来る艱難の時代を前向きにサバイブしてやり遂げようと思います。

          拙稿『形而上学』は、永井 均氏の助言に従って「中高生ぐらい(まあまあ頭はよいけど知識はまったく何もない)を読者に想定して」(永井氏の言葉)リライトしていくことになります。かなり大変な仕事になりますが、これかはやって来る艱難の時代を前向きにサバイブしてやり遂げようと思います。

          『形而上学 この私が今ここにあること』『序論』 第一次リライト版(一部改訂)

          Epigraph  本書のテーマは、この私が今ここにあることです。この私が今ここにあるとは、そもそもどういうことなのでしょうか。それは、この私の今ここへの問いといってもいいでしょう。必ずしもこの問いに対する答えではなくても、この問いを考える上でなにか手掛かりになるようなことを、これから探し求めていくということです。もしそれをどこまでも探し求めていこうとするなら、それはたぶん終わりのない探究になります。  例えば、私は、今ここで、この文章をノートパソコンで書いています。おそ

          『形而上学 この私が今ここにあること』『序論』 第一次リライト版(一部改訂)