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『形而上学 この私が今ここにあること』アリストテレス『形而上学』第3巻第5章――「点や線や面」「いま」のアポリア 第一次リライト版 

※以上は、拙稿『形而上学 この私が今ここにあること』第1章 無内包性と形式性のⅠである。いずれ格段にかみ砕いてリライトされる。

 導入として、アリストテレス『形而上学』第3巻第5章の記述を以下に引用します。

 「点や線や面は、たとえこれらが或るときには存在し或るときには存在しないとしても、生成や消滅の過程にはありえない。というのは、物体が接触しまたは分割される場合、接触すれば一つの面が生じ、分割されれば二つの面が生じるが、それはその接触または分割と同時に〔生成過程においてでなしに一挙に〕生じるのだからである。したがって、両物体が接合されたときには一つの面は存在しなくて消滅しており、一物体が分割されたときにはいままで存在しなかった二つの面が存在している。――だから点は、不可分割的であるから、分割されて二つに成るとは言われないのである。――だからまた、もしこれらの面が生成したり消滅したりするとすれば、なにから生成するというのか。それはあたかも時間における「いま」のごときものである。すなわち、「いま」もまた、生成し消滅する過程にはありえない。しかもそれにもかかわらず常に他なるものであるかのように思われる、このことは、「いま」が実体的な存在ではないことを示している。そしてこれと同じことは、点や線や面についても明らかである、というのは、同じ論が適用されるからである。すなわち、どちらもひとしく限界であり区切りであるから。」(文中で「成る」の強調は翻訳文にもともとあったものである。その他の強調は引用者による。引用文中の角括弧〔〕とその中の補足的説明文は翻訳者の出 隆氏によるものである。)[注3]

 これが、アリストテレスによって発見された、最大の形而上学的アポリアです。上記の「「いま」もまた、点や線や面といった幾何学図形と同様に、[注4] 生成し消滅する過程にはありえないということ。にもかかわらず、常に他なるものであるかのように思われる、このことは、「いま」が実体的な存在ではないことを示している、という全く謎めいた記述です。
 ここには、瞬間における触発という固有な出来事は、それが何か他のものへと移行-変容する限りでのみまさにこのXの経験へと変換される』というあのアポリアが反響しています。すなわち、この記述における「いま」は、「何か他なるもの」へと移行-変容する限りでのみ「いま」であるものとして、「それにもかかわらず常に他なるもの」なのです。それは、何らかの実在的な場に位置し得ない「同時に」という無内包の<次元/場>なのです。アリストテレス『形而上学』の「矛盾律」の定義はこうでした。

「同じもの〔同じ属性・述語〕が同時に、そしてまた同じ事情のもとで、同じもの〔同じ基体・主語〕に属し且つ属しないということは不可能である。」(文中で「同時に」の強調は引用者による。引用文中角括弧〔〕とその中の補足的説明文は翻訳者の出 隆氏によるものである。)[注4]

 
この矛盾律の定義には、「同時に」という無内包の<次元/場>が、すなわちあの<隙間/裂け目>という矛盾の運動が組み込まれていることに注意しなければなりません。この「同時に」は、何らかの実在的な時間系列における特定の時点の同時性を指示する何かであることはできません。その時間系列の特定時点の同時性は、その時間系列を超えた<次元/場>へと絶えず移行-変容することになるからです。

 アリストテレスがその『形而上学』の全議論において無限背進を、つまりこの<隙間/裂け目>という矛盾の運動を認めないのは、「不動の動者」を全ての論理の、つまり論理それ自体の前提としているからです。彼にとって論理は、最終打ち止め点である「不動の動者」から帰結するあるものです。まさにこの不動の動者こそがあるがままの世界の論理なのです。いくら無限遡行してモーダスポネンス(modus ponens:P ならば Qである。Pである。従ってQである)の「ならば/従って」を無限背進させても、アリストテレスにとってはまさしく論理的に無意味です。その「ならば/従って」は、絶対的な現実存在である不動の動者によって打ち止めになるからです。[注5]

 そんなアリストテレスにも、手に負えないものがありました。アリストテレスは『形而上学』第5巻第6章において、連続的で相互的な変形/移行という運動の可能性について語っています。これは、トポロジカルな「同相(一つ性)概念」を先取りしています。この意味での「一つ性」は、彼の『形而上学』の「形相-質料」「可能態-現実態」「本質-実存」「実体-属性」「生成-消滅」「端緒-終わり/目的」といった枠組みには収まりきらない「点や線や面」「数」というアポリア的存在を探究する新たなパラダイムへの道筋となり得た可能性があります。しかし、アリストテレス『形而上学』は、「私たちによってそう言われる呼ばれる」というロゴス/説明方式の統制下にありました。つまり、そのあり方を「私たちによってそう言われる/呼ばれる」というロゴス/説明方式と適合した「実体」として記述できない存在は語り得ないものになるほかなかったのです。
 『形而上学』が実質的に未完に終わらざるを得なかった究極の理由は、彼の形而上学において、なかでも「数」が、遂に全探究の終局/テロスにおいても処理不可能な禁忌にとどまり続けた、ということによります。「数」は『形而上学』のいずれの枠組みからも逸脱しています。言い換えれば、「数」は「我々によってそう言われる/呼ばれる」というロゴス/説明方式に回収することができない何かなのです。
 アリストテレスは『形而上学』の最終パートにおいて、「数」を巡って膨大な記述を費やしていますが成果はありませんでした。つまり「数」は、「点や線や面」や「いま」とともに、アリストテレスの『形而上学』にとって、「形相-質料」「可能態-現実態」「本質-実存」「実体-属性」「生成-消滅」「端緒-終わり/目的」といった枠組みの外の未知の何かにとどまりました。それこそが、師プラトンとの終わりなき闘争の起源です。 

 量子情報物理学者の堀田昌廣氏は、2023年7月17日のツイートにおいて、数に関して「私は、次のような立場です。身の回りのモノに対して、人間が行っている具象的な細部を捨象する仕方によって異ってくるイデアとして、「数」が創発してきていると考えています。トップダウンではなく、ボトムアップです。言語としての「数」は人間の発明であるとも言えます。そういう数が「存在している」というのは、やはり具象あってこそ成り立つ主張であって、人間と切り離されて、神棚の上や神殿の中に超然として在る唯ひとつの真理であるとは思いません」と述べています。
 「数」の創発と時-空の創発が最大の鍵になります。つまり、数の創発と時-空の創発は、無内包の場の創発として、ワンセットで探究する必要があるのです。「このこれ」という現実の個物としての実体の認知を可能にしたことこそが、他のすべての生き物とは異なり人間のみがなし得た最高の達成だというアリストテレスの洞察は、不滅の輝きを持っています。「このこれ」は全く素朴なものではなく、真逆の最高度に抽象化された認識です。「このこれ」を、互いに不可分な個数と回数において把握する力が獲得されたこと――それこそが「数」の創発だったのだとすれば、その数は線を引くことという働きが時-空という互いに不可分な結合体を産出することと同時に創発したのではないか、と考えられるからです。それは言語の創発でもあるのかもしれません。ここにおいて、無内包の場で働く力への探究が始まります。

 数と時-空は、ある未知の場の創発として、不可分な形で創発します。その事態への問いは、無内包の現実性への問いなのです。[注6]


[注3] アリストテレス『形而上学(上)』岩波文庫 108頁-109頁
[注4] アリストテレス『形而上学(上)』岩波文庫 122頁
[注5] あるがままの実在世界において、あらゆる論理系列が絶対的な現実存在によって最終的に打ち止めになるという要請は、例えば現在探究が続けられている量子論理においても変わらない。この点に関して、白井仁人氏は以下の様に述べている。
「量子論理を構築することは新しい論理を構築することだが、その新しい論理を議論するのに古い論理を使用してよいのだろうか。」(『量子力学の諸解釈 : パラドクスをいかにして解消するか』2022年 白井仁人著 森北出版134頁)
  哲学的-形而上学的議論を含むあらゆる議論の場面で、私たちがこのあるがままの実在世界を記述しようとする限り、「古い論理」つまり私たちが通常使用している言語を使わざるを得ない。アリストテレスがその著作『形而上学』において繰り返して述べていたロゴス/説明方式とは、まさにこの私たちが通常使用している言語――まさにそれこそが言語なのだが――を使わざるを得ないということそれ自体であった。
  永井 均氏のいう<私>は、一方向的な無限の累進構造化の運動の絶対的な端緒点である。つまり、この<私>という<次元/場>を探究し記述する言語は、私たちがこのあるがままの実在世界を記述しようとする場合に通常使用している「言語/説明方式 logos」ではあり得ない。そうであっても、その探究と記述の作業は、この唯一の<私>の<今-ここ>のあり方を、実在的な世界におけるこの私や他者たちにも伝えるという作業として遂行されることになる。
[注6] アリストテレスの『形而上学』のパラダイムに回収不可能な場において、彼にも解答不可能な問いが存在する。アリストテレスによれば、生成-消滅と運動は類を異にする。では生成-消滅と運動のどちらがより基底的なのだろうか? もし生成-消滅が無限の相互反転運動であるならば、運動でもある生成-消滅は最も基底的な<次元/場>なのだろうか。あるいはこの問いは決定不可能だろうか? 

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