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引き金(超ショート)
おそらく今夜、大きな満月が東の空からゆっくり昇るはずだったのだか、厚ぼったい雲に阻まれて月も星もない真っ暗な夜だった。
海岸まで数百メートルに位置する住宅地は、夕方の満ち潮の時間になるとたちまち磯の香りで満たされる。今夜もそのきわめて有機的な匂いが街全体を覆っていた。窓ガラスには塩の結晶がびっしりこびりつき、放置自転車はあっという間に錆びてしまうので、住人たちはすぐにそれが主人のいる自転車かどうか
Traveling Without Moving (短歌)
いましがた壊れたいのち捌きます人畜無害の寿司職人
集合的無意識の深いプールの表面に浮遊する罪状
拒食症患う国家主義者らが食べるはしから言葉を嘔吐し
ポニーテールの前髪なめんなよみたいな視線ある駅構内
理髪師の右手にかたく握った光 けれんみのない眉の角度で
雪道に複雑化する内情を押し留めつつ映画館へと
ゆうえんち跡に繁茂するDAISOつわものどもがゆめの跡
ゆうやみのBluetooth告
その男性全裸中年につき(短歌)
周到にスーツを繁みに隠したら全裸ですすめ秘密のルート
昼下がり黙りこくった家並は無口な誓いで組み立てられて
とぼとぼと歩いて帰る雪野原 漂白される男の細胞
「川底の意識のようにゆらめいて夢とうつつを遊泳していた」
輝かしい少年の日々追いかけて座礁している俺という舟
丹念にヌードデッサンするあいだ凝固していく窓の水分
ひび割れたデッサン室の窓のむこう失踪日和の空はモネ調
沖合の霞に紛れ
「私を撮って」 ショートショート
洋一の住む街は東京湾の埋め立て地にあり、どの方角へ向かっても坂道というものに出合わなかった。電車で二駅ぐらいの距離なら軽く自転車で走れるので、彼の生活圏はほぼ自転車で制覇されたようなものだ。
数日前の梅雨入り宣言以来、忠実に雨は続き、雨は粒子となって半端に彼の衣服や短く切った髪の間に絡みつき、顔や腕の毛穴に入り込んだ。それでも彼は日々自転車を漕いだ。雨粒が目に入るとき彼の視界はゆがみ、信号機や車
箱(ショートショート)
その日は、朝からしょぼい雨が降っていた。やっとの思いでこのセレブタワーマンションに引っ越して来た私は、セレブ夫人達のるつぼというべき「ミシュランシェフによる、本格フレンチディナーの手ほどき」と、やたら題目だけの長い、早い話が料理教室への参加初日であり、鼻息荒く早朝から巻き髪づくりに余念がなかった。
この縦ロール、名古屋地区を発祥とするらしいブルジョアのお約束のようなものであり、このマンションに暮