「私を撮って」 ショートショート

洋一の住む街は東京湾の埋め立て地にあり、どの方角へ向かっても坂道というものに出合わなかった。電車で二駅ぐらいの距離なら軽く自転車で走れるので、彼の生活圏はほぼ自転車で制覇されたようなものだ。

数日前の梅雨入り宣言以来、忠実に雨は続き、雨は粒子となって半端に彼の衣服や短く切った髪の間に絡みつき、顔や腕の毛穴に入り込んだ。それでも彼は日々自転車を漕いだ。雨粒が目に入るとき彼の視界はゆがみ、信号機や車のライトが滲んでコスモスの花の様に輝いてみえた。

この季節になると毎年決まって彼の脳裏に蘇る、ある出来事があった。
六年前の事だった。彼はある女性タレントの写真集の製作に携わり、海外へ飛んだ。
駆け出しの若い女優だったありさはルックスも性格も申し分ない。すらりと長い手足、あどけなさとふと見せる深海魚を思わせる鬱屈さに洋一も少なからず魅了されていた。

一行はレンタカーを借りていくつかの街や海、遺跡などを巡り、カメラマンの小野は無数にシャッターを切り続けた。
ファインダーを見つめる彼女は最初こそぎこちなかったが、次第にカメラに向かって徐々に様々な違う視線を送るようになった。まるで信号のようにくるくると表情を変えて。
カメラマンである小野との呼吸が合ってきて、我々の間にもある種の緊張を伴う濃密な空気が流れ始めた。それは洋一にとって初めての感覚だった。
カメラを向けるとありさは瞬時に何かを理解し、その眼の瞳孔をひらく。それと同時にカメラの絞り値が変化し、瞳同士が呼応でもするかのような世界が広がる。
ありさが少し体を捻るときの自然な不自然に魅せられて手に持っていた企画書を水溜りに落としてしまった。ありさの視線、ありさの呼吸、これらを自在に変えさせる力を持つ、カメラというものは一体何なんだろうと洋一は思い始めていた。

一行は撮影場所をグレートバリアリーフに移すために移動していた。霧のような細かな雨が降っていた。洋一は悪天候を嘆いたが、カメラマン小野はこういう天気は意外といい写真が撮れると意気込んでいた。細かな雨を受け、植物だけがその葉脈を充実させて喜んでいる。緑という緑がその色合いを濃密にする田舎道を、ワゴン車はがたがたと走り続けた。

ヘアメイクがありさの長い髪にブラシをかけて前髪を直し、口紅をひきなおす。すんなりした白い肩のラインと長い腕がそのまま露出した、フクシュアピンクのタイトなワンピースに着替えた彼女は、車から楽しそうに身を乗り出し、外の景色を眺めていた。運転手は楽しげにステレオのボリュームを上げ、だだっ広い道路を疾走する。と、目の前を何かの動物がぶつかり車は衝撃でハンドルを持って行かれた。
車は道路を外れて竹だか何かの雑木林の窪地へ突っこんだ。強い力が我々を車の左端に押しつけて、ありさはドアに激突した後どういうわけか足元に沈み込んでしまった。一瞬の出来事がスローモーションになって洋一の目に映った。ワンボックスカーの人間が皆一旦ひとかたまりになって、その一番下に彼女が潜り込むかたちで車は静止した。

洋一はスタッフの状態を急いで確認した。衝撃の割に皆大した怪我もなく大事には至らなかった。しかしありさの返事が聞こえない。
「ありさちゃん、ありさちゃん!大丈夫か!おい!」
「.....て、お願…」
「どうした、どこか痛むか」
「...小野さん、お願い」
「無理に体を動かすな」
「お願い。撮って、私を」
「何言ってるんだ、こんな時に」
「いや大丈夫だよ。撮るよありさ安心して」
「撮って…」
「撮るよ」
そう言うとカメラマンの小野は、朦朧として意識を失いかけている彼女に向けて幾度かシャッターを切った。その音を聞いて、電源が切れるように彼女は意識を失った。

彼女は現地の病院に一泊し、翌日退院した。軽い脳震とうを起こしていたらしい。あの時の会話を彼女に話しても、全く覚えていないと言う。
洋一は「撮って」と言う彼女の顔が頭に焼き付いて離れなかった。彼女の額から流れるひとすじの血、うわごとのように「撮って」と言い続ける紅いルージュの唇。

洋一は今日も自転車を漕ぐ。多少の雨などものともせずに。出来るならハンドルなど握るまい、と決意する。
何故ならそのバックミラーごしに「私を撮って」と呟くありさを見てしまいそうだったので。

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