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引き金(超ショート)

おそらく今夜、大きな満月が東の空からゆっくり昇るはずだったのだか、厚ぼったい雲に阻まれて月も星もない真っ暗な夜だった。
海岸まで数百メートルに位置する住宅地は、夕方の満ち潮の時間になるとたちまち磯の香りで満たされる。今夜もそのきわめて有機的な匂いが街全体を覆っていた。窓ガラスには塩の結晶がびっしりこびりつき、放置自転車はあっという間に錆びてしまうので、住人たちはすぐにそれが主人のいる自転車かどうか見極めることができた。

そんな中、ジャックは表情一つ変えずひたすらビルを見つめていた。それは日が落ちた今もなおつづいている。住宅地のすぐ隣には川を一つ隔てて新しいオフィス街がひらけていた。40階建のビジネスガーデンの窓という窓に、日没後の僅かなひかりが当たっては砕け、目を凝らすとプリズムのようにひかりの粒がばらけては消えた。

ジャックは、何か言いたげに大きな目を見開いて、両手を不自然に上に掲げていた。足元は靴を履いているのかどうかわからないほど闇に紛れながら。
彼は相当辛抱強いのか、或いは単にビルが怖いのか、とにかく微動だにせずその眼だけはするどくビルを見続けていた。

ビルはそんな事は我関せずといったふうで堂々と立ち、ジャックと向かい合っている。両者一歩も譲らない長い長い沈黙。ビルはさっきまで真夏の太陽の光を浴び、より一層彼の中にある英知や有能さを余すところなく誇示していた。
この二人の対峙する様子を知るものは誰もいない。ジャックの創造主は夕食のチキンソテーに夢中で、ジャックの内ポケットに銃を忍ばせたことさえ、忘却していた。
ジャックはいつまでも銃を取り出すタイミングを見いだせず、相変わらず間抜けに両腕を上に折り曲げている。明日の朝になれば、ビルの隙をついて引き金を引けるかもしれない。僅かな期待を胸に秘めていた。
ただ、それは残念ながら叶わない事だった。

朝が来た。

閑静な住宅地、ジョギングに汗を流す男、服を着た黒いプードルを散歩させる初老の女、喚きながら突然走り出す小学生たち、それらの足元。足の動き回るアスファルト。
一軒の家の前のアスファルトに昨日の昼間、蝋石で描かれたジャックは、相変わらず内ポケットの銃を引き抜けないままいた。1時間もすれば創造主のママが文句を言いながらジャックを消す。

すぐ隣で流れる川の向こうにはオフィス街と地上40階のビルが、ひときわ雄々しく輝かしくすべてを見下ろしていた。ジャックの内ポケットにしのばせた銃は重い光をたたえて、何かの拍子に暴発するのを今か今かと待っている。

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