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箱(ショートショート)

その日は、朝からしょぼい雨が降っていた。やっとの思いでこのセレブタワーマンションに引っ越して来た私は、セレブ夫人達のるつぼというべき「ミシュランシェフによる、本格フレンチディナーの手ほどき」と、やたら題目だけの長い、早い話が料理教室への参加初日であり、鼻息荒く早朝から巻き髪づくりに余念がなかった。

この縦ロール、名古屋地区を発祥とするらしいブルジョアのお約束のようなものであり、このマンションに暮らす奥様方は、皆似たような巻き髪をツヤツヤとなびかせる。それは高貴な馬を思わせた。
特筆すべきは最上階に君臨する奥様の縦ロールのスペックはことさらにすごいものだった。それについては後日説明しよう。

殆どの支度が完璧に終わり、あとはいかにここの奥様達に受け入れられるか、それが勝負だった。「ママー、ボクのちょうつよいてきかみかたかだれもしらないブラックレンジャーの脚がとれちゃってみつからないー!」4歳になる息子がだらしない下着姿でおもちゃ箱を無情にひっくり返そうが、今日この時ばかりはスルーである。
「りんたろうちゃん、いい?ママね、これからお料理教室なの。パパと良い子で待っていられたら、今日の晩ご飯はすごいご馳走作ってきちゃうゾ」
異様にハイテンションな私に怯えた目をして息子は「わ、わかったよママ…」と奥の部屋へ引っ込んでしまった。

そこへ電話がかかってきた。一緒に教室へ行く竹田さんだ。
「はいっ安藤です」
「竹田ですぅー、安藤さん?」
「はいっ」
「あのねぇ、実は私今日のお教室ダブルブッキングしちゃってぇ、うふふ歌舞伎見に行く日だったの。本当にごめんなさいね」
「あらぁそうでしたか、残念です。でも場所も判りますし私なら大丈夫ですから歌舞伎楽しんでいってらしてください」
「ホント悪いわね。それでついでで申し訳ないんだけどお教室に届けていってもらたい物があるの。持ってってくださいます?」
「全然かまいませんよ。お着物じゃ何かと大変でしょうから」
「助かるわ、じゃよろしくね」

ものすごい早口で竹田さんは話すだけ話して切った。

玄関ドアが開くと竹田さんは大島紬の着物、化粧をバッチリ決めて出てきた。おしろいの匂いだろうか新作の香水のものか、とにかくキツイ匂いをさせて。
「安藤さんごめんなさいね。これなんですけど。これをお教室まで…うっ、ちょっと重いかしら」
「あー大丈夫ですこれくらい。こう見えて腕力には自信あるんですよ」
「あの…それとちょっと匂うけどごめんなさいね」
「匂う?そうかしら。私には全然わかりませんよ。それじゃ、竹田さんもごゆっくり」
「安藤さん。それ、くれぐれもよろしくね。あと、中身は絶対に見ないでね」
竹田さんの表情がちょっとだけ神妙になった。この安っぽい段ボールの中にそんなたいそうなものが入っているとは思えなかった。

預かった箱を抱えてマンション前を通り過ぎた頃だった。何故だか段ボールの箱は預かった時より確実に重くなっている。竹田さんから受け取った時は本が二、三冊入っているくらい重さだったのに、今は出来ることなら台車を借りたいくらいだ。
しかも、
匂うのだ。

例えばそれはケミカルな悪臭。接着剤とか、何らかの化合物だとかそういうのでなく、そこはかとなく有機的、からだに良いのか悪いのか紙一重的な悪臭である。
段ボールのとじ目からダイレクトに私の鼻腔をつんざくこの中身は、何?
そして今もなお重みを増していく箱。道行く人が皆、ぎゃっという顔でふり返り、モーゼの十戒のようにすばやく道をあけるが全く笑えない。相当かなしい。
人々が、人の目という目が私を見る。違う、違うの。臭いのは私じゃなく、この箱、この箱なんです!
朦朧とする意識の中でそう叫んでいた。そしてこんな酷い匂いのものなど、常識的に料理教室に持ってゆけるはずなどない、断じてない。

そしてこのままでは、私の今後の輝くセレブな未来が断たれるのは間違いない、そう思って私は足を引き摺りながら堤防の方へ向かった。

気がつけばすでにもう夕方の四時をまわっていた。
もう一歩も歩けない。
この、気を緩めれば容易く嘔吐できるほどのすさまじい臭気とは、これでオサラバしよう。竹田さんよ、私はこれを料理教室には運ばなかったが、それは私の良心がしたことであり、その良心は更に次のアクションを起こそうとしている。
こんな酷いものはこの川に廃棄する。環境破壊?知ったこっちゃない。インドじゃ死体だってガンジスに流すじゃない、だいたいそれと一緒だ。

高価な着物に身を包んだ竹田さんの顔が不意にフラッシュバックして、私にもう一度こう言った。

「あと、中身は見ないでね」

この世にこんな悪臭を放つものがあるのだろうかというレヴェルのブツだ。彼女はきっと中身を見られるのが恥ずかしい。きっと開けて見た事を私自身が後悔するくらい恥ずかしいものだろう。しかし私はこの世で多分一番臭いであろう、その現物を一目見てやろうと恐る恐る、段ボールを開けた。

たまげた。
驚いた拍子にその場に座り込んだ。指の間のぺんぺん草がさわさわと揺れている。

箱の中に入っていたのは、いまだかつて見たこともない、ぎゅうぎゅうに押し込まれた大量の札束だった。


私は悪臭を放ち続ける現ナマを惜しげもなく川に流した。川面いっぱいの福沢諭吉たちが空虚に空を見ている。次々と川下へ消えていく紙幣。
ガンジスだと思えば何でもアリだ。死体でも、札束でも。
身も心もブルジョアな私は勿論そこから数枚ポッポしたりはしない。

だって匂うんだし。

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