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日記

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#散文

逢瀬のすべて

逢瀬のすべて

 水を飲む。
 飲み口に少し残されたなまぬるい温度が、少し天国だった。名前に果てはないように、わたしに命がよりかかる。たわんで、すべてがおじゃんになる。

 ふるい雨が降っている。腕の内側にすっかり細い蛍光灯のような骨がある。それをきゅっと引き寄せるみたいに雨を見あげる。傘は忘れてしまった。白いひかりがわたしから駆け上がって空へ飛びついていった。それは涙ともいえるものだった。
 わたしの黒いトート

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春の住処

春の住処

 たとえばわたしが鳥だったとしてあの顔ができるだろうか。愛され方しかわかっていないあの鳥の、くるりと一周まわった水鏡のような瞳。水浴びをする白文鳥をじっと見つめる。春の午後。

 わたしが100%わたしであった時代を思い返す。それはフライ返しみたいにへにゃんとしていて、輪郭がやわらかくひしゃげている。わからない、とは言えないが、スフレにフォークを押し付けるみたいに少し痛む。結局全て忘れてしまうから

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白白パンダ、白黒パンダ

白白パンダ、白黒パンダ

せとかを剥く。
柑橘の匂いが指にからまりつく。春の朝のひかりは気温は低いのにとても柔らかく差し込んでくる。それはもう既にまどろみに近い。半分にわって、それから皮を剥がす。一気に果実から果物へと変貌を遂げたようなそれと、あたりにきらきらひかるジューシーな香り。ひとつぶ、口に運ぶと思った以上に甘い、あまい味が広がって、おいしい、に結びつく感じ。
一人でこれらをやっている朝の、お供として音楽をかける。

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わたしもひかる輪っかがほしい

わたしもひかる輪っかがほしい

 街灯すら眩しくて手を翳したあとに、果たして生き物としてどうなのだろうと思う。月はまだやや低く、か細い線がつるんとひかっている。光を弾いた夜の水面は油絵みたいで、その横をひかる犬を連れたひかる人間が漂ってくる。
 わたしの左肩に重みをのせるトートバッグは彼からもらったもので、毎日使っているからかあまり彼の気配は感じない。わたしと君として出会ったはずがいつからか私たちになってしまうように、曖昧にわた

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屋台はほぼ匂いだし

屋台はほぼ匂いだし

 小説というものは自分とはかけ離れたものと思っていた。たとえばそれは歪んだ並行世界のようなもので、決して交わらない。ふわふわと浮かんだり鋭く横切ったりするものであって、息を吸うとふくまれている冬の匂いのようなものでは決してない。そう思っていた。

 それがさっき揺らいだ。いつものように帰り道のルーティンとして駅前の本屋に寄り、(最近リフォームしたばかりで薄暗くなってしまった)肉を剥いだり溶かしたり

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冬の始まりには魚を焼く

冬の始まりには魚を焼く

 魚の匂いがする。
 一人暮らしのちいさな部屋の中で焼き魚をすると、すべてのものが魚の匂いに染まる。
 先日行った彼氏の家を思い出す。ナチュラルに整頓されていて居心地の良さそうな、生真面目な性格があらわれているようなリビングと寝室。観葉植物とテレビをかけるボード。全体的にベージュトーンで統一された部屋。
 そして今のわたしの魚部屋。

 隅には白い鳥がいて、グレーのラグに白い家具。静かで、わたしひ

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美人な母親

美人な母親

 最近、親が筋トレにハマっている。
 母親と会うたびに若返っているのがわかる。内側からハリのある肌、ほんのり血色のよい頬、しなやかな手足。母はいつだって、今がいちばん美しい。

 いや、そうではなかった。わたしが小学生の頃、シングルマザーの母は国家資格を取るために日々勉強に追われていた。わたしはあまりかまってもらえないことを寂しく思いながら、周りの荷花ちゃんのためにお母さんがんばってるね、応援して

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生活の生命活動らしさとか

生活の生命活動らしさとか

 寒い。
 痛いまではいかないけれど寒い。寒いがすぎると痛いに変わるけれど、暑いがすぎるとどうなるんだっけ。漠然と、砂漠にある熱い砂と砂の間の熱のことを思って、そのへんに夏があるような気がして、でも夜はすごく寒いんだってね、そのあたりなんだかアンティークな風格。

 強めの風がふく。
 夕方なのにもう暗くなった道でシルエットだけのコーギーを見かけて、そのあまりの足の短さに衝撃を受けたりする。たぶん

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やさしい傷口

やさしい傷口

 どこかで気球が破れている。
 ぱん、ぱん、と小気味よく、カラフルな膨らみを爆ぜている。それは遠い彼方のことで、たとえるならば昔話のようなやさしさで、今もこだましている。十月がいつの間にか終わり、霜月に入ってもまた低迷する気持ちのままだった。そんなことをいまだにやっている私が、幼くて痛い。

 このところ、過去の凄惨な事件や、刑務所内の生活、ヤングケアラーやきょうだい児、虐待に介護、それらを追うニ

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魚の瞼を感じる日には

魚の瞼を感じる日には

こんな苦しい日はどうしてたんだっけ、時間もお金ももうわからなくなってて、夜が冷たく刺してきて、それに急かされるみたいにかえる、かえる道でスタバが煌々と在って吸い込まれて最後尾につく、喉に落ち着いたチャイの温もりと、赤くなる頬、それから中也の詩集をひらけば慌てて飛び出る涙の厚みのある感じ、踏んでいた絨毯が大きな犬の毛足のようで思わず蹲りたくなる、冬の夜のことがまっすぐ愛されていてその文字を追ったあと

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醒めない遊び

醒めない遊び

 口に出すと、漏れ出していくものがある。騙すとか蝶とかそういう類のものではなくて、まっすぐな光の柱のような場面でしゃがみ込んでしまうようなそういう類の、ものがある。

 たしかな手がかりとして、ひとは朝を指すけれど、ほんとうがどこにあるのかはきっと、まだ誰も知らない。水の深さに、空の苦さに、まだ触れていない。からだの隅にいくらか積もった黒ずみの、うっかり撫でてしまえば指先にうつるやわらかな絶望達。

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すこしのあいだでいい

すこしのあいだでいい

死にたくはないんだけど死にたくなって、意味もなくビンタしてみたりベッドから落ちてみたりする。雪が葉に積もるときくらいの優しさと重さと頑固さで生きてるのにどうして美しくなれない。からだが重すぎて、心が浮かばない。まったく何も映さないテレビの黒いけど透明な画面に顔が伸びていて、ずっと平面で生きてるみたい。地下鉄みたいな下半身が閉じきらなくて、まただれかにあまえてしまう。ずっとこんなふうなのかな、なんて

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発熱途上

発熱途上

熱が出て、ぼーっとしている。
からだはだるくて、あたまが重い。目をすこし動かすだけで、じん、と痛みが澱のように沈む。

涼しい風が入ってくる。
間接照明の灯色が睫毛に影をつくる。喉が渇いた。からだを起こしているのがつらくて、やっぱり体調が悪いのだと思う。薬を飲み込むのが苦手だ。けれどがんばって飲んだ。

目に入った睫毛を他人がとってあげている図はなんだかグロテスクだと思う。
昔、そろばんの先生が大

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青く沈む

青く沈む

 夜に沈む街だ。
 曇天に、背の高いクレーンがひとつ、そのてっぺんが赤く光る。それから帰路につく人々の波。

 青い街だ。
 信号のあざやかなみどりが無数の光を流してゆく。車。そして一気にとどめられる赤の、その群れに、今日が遠くなる気がした。

 短めのバス、大きめのプードル、清涼な風、すれ違うたびに切ったばかりの髪が頬に寄り添ってくるがわかる。しらない街でしらないからだでしらない人達と同じ時間を

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