#エッセイ
本当は友達じゃなかったのかもしれない
その日、私は実家に向かって車を走らせていた。
もう少しで実家だという地点で、走行していた国道を中に入ってみようかと思いながら、入らずにそのまま国道を直進した。中に入った場所に何があるのかといえば、高校の時の友達の家だった。
その日、私は実家に行こうと思った時から、なぜか友達(以下Mさん)の事が頭に浮かんできた。
Mさんとは1年生の時、同じクラスだった。1年生の時のクラスは性格のいい子が多く、女
私の人生の軌跡(ゼネコン営業マン編)生き方を考えさせてくれた反面教師のMという営業部長の話
「滅私奉公」なんて言葉はもう死語なんでしょうか。私がゼネコンで営業マンをやっていた平成の初めにもそんな言葉はとんと耳にすることはありませんでした。しかし、会社にはまだまだ昭和の「野武士」の残党たちが残っていたのです。「24時間戦いますか」なんて栄養ドリンクのキャッチコピーが流行っていた頃です。ほぼ24時間365日働かされていた頃です。朝は7時過ぎには会社に着き、帰りはほぼ毎日タクシーで梅田か難波あ
もっとみる私の人生の軌跡(ゼネコン営業マン編) ゼネコン営業マンとして京都で過ごした最後の時間
社会人としてスタートした古巣とも言える京都営業所に私は営業マンとして戻りました。
強烈なMという営業部長との別れはあっさりとしていたと思います。記憶が定かではありませんがその頃会社が傾き出して取引銀行から副社長以下数名が乗り込んで社内に手を入れ出しました。年齢で役職定年を設けてM営業部長は「調査役」という立場に、第三者の目からは降格に見える立場になりました。それがプライドを傷つけしばらく仕事らしい
noteでヤル気を失くして去る人
僻み根性丸出しで、今夜も楽しく書いてみる
先に牽制したからね
トップページにある大量の作品を
どんな作品があるのか、目にした
やっぱり、スキがたくさんある記事に注目する
そして、落胆した
率直に言って
「どこに1000以上のスキ価値があるの?」
書き手が楽しくしてりゃいいのだけど
一応、文章には構成もあるじゃん
※ 岸田奈美さんじゃありません
「この人はああいうのが好き」は、分かる
分かるけ
私の人生の軌跡(ゼネコン営業マン編) ともに仕事した私の多くの仲間たち
私がゼネコンに入社した1985年(昭和60年)は日本がバブル景気に突入する直前、現在の日本しか知らぬ若者たちには信じられないほどの活気に満ちあふれた時代であった。
入社式で社員1万人の退職金をキャッシュで支払うだけの銀行預金を持っていると本社経理課長が説明したのを指で計算しながら、なんだかすごいなぁと思ったのを記憶している。
後発のゼネコンであったたが当時の経営者達の知恵と度胸、先輩達の並々ならな
私の人生の軌跡(ゼネコン営業マン編) 『S』という事務課長の話
それは1本の電話から始まった。
着工のもう決まっていた有料老人ホームの建設に反対する近接町内会の役員からの電話だった。
見晴らしのいい山の斜面に斜向で計画された老人ホームであった。万全の安全計画・仮設計画はしていたものの、掘削した土砂をどうしてもダンプで運び出さなければならない。そのダンプの走行経路の町内会だった。この町内会を含めて関係する町内会全体から承諾をもらっていたが、それを翻す電話だった。
私の人生の軌跡(ゼネコン営業マン編)『たけのこの思い出』
もうずいぶん以前になるが、ゼネコンで営業マンをやっていたことがある。
建設業は決まった製品を作り売る製造業とは違う。何もないところに事業や建物を構想して一から作り上げていくのである。
「まずは土地ありき」と思われがちであるが、そうばかりではないのである。
どのゼネコンも官民の担当を分けていた。飲み食いが当り前の民間営業と官庁営業を一緒にしてしまうと贈収賄にもつながりやすく、第三者の目から誤解を受け