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私の人生の軌跡(ゼネコン営業マン編) ゼネコン営業マンとして京都で過ごした最後の時間

社会人としてスタートした古巣とも言える京都営業所に私は営業マンとして戻りました。
強烈なMという営業部長との別れはあっさりとしていたと思います。記憶が定かではありませんがその頃会社が傾き出して取引銀行から副社長以下数名が乗り込んで社内に手を入れ出しました。年齢で役職定年を設けてM営業部長は「調査役」という立場に、第三者の目からは降格に見える立場になりました。それがプライドを傷つけしばらく仕事らしい活動から遠ざかっていました。でもその間に、複数の発注者から声を出させて一人だけ営業部長に戻っています。そのために一人で動き回っていたのです。そして70歳まで営業部長でした。
その間に私の異動がありました。「京都で人が足りないから行ってくれ」と副支店長から言われ次の月から再び京都の人間となりました。
職種は違うが出戻りでした。複雑な気持ちを抱えて営業所に向かった記憶があります。


京都で過ごしたゼネコン営業マンほぼ最後の時間は濃い時間でした

その時の京都営業所所長は黒い噂のある人だった。当時の営業マンで数少ない官民両方の営業をやっていた営業マンだったから、噂は仕方なかったのかも知れない。再婚相手が二回りも下の私と同期入社の女性だったからなおさらであろう。でも、付き合えば味のある優しい人間であった。頭の良い百戦錬磨の所長だった。
土木屋だったS所長は関西南部で大きな造成工事をやってその土地にログハウスを自分の手で組み立てて住んでいた。京都には単身赴任で乗り込んでいた。酒は強くないのだが、夜の付き合いが切れることなく、それが寿命を縮めたんじゃないかと思う。70歳で亡くなっている。S所長とは最後まで付き合いさせてもらった。

私は京都での初日に営業課長の名刺を渡されて、いきなり発注者との会議の席で四条河原町でのマンション新築の近隣担当だと紹介された。全く知らない案件であった。河原町通りに面しているので施工はしやすいものの、周辺の住人は個性的だった。法務局で調べるとなんだかわけのわからないことが多く、市役所で聞くと高瀬川沿いは戦後に焼け出された人たちが住み着いてその時の救済措置がそのまま既得権となった土地の上で勝手に生活している人が多いというのである。その人たちに同意書をもらわなければならなかった。いきなり補償費の話を出すお婆ちゃんやホモの噂のあるビルのオーナーに夜呼び出されたり、こんなことは当たり前だとは思いながら奈良の自宅に帰れぬ日が続いた。町内会長が協力的で補償費まで取りまとめてくれたのだが、最後の一軒だけ桁の違う補償費用を言ってきた。「理由が無ければ発注者に請求できない」というと、なんと名字の違うその家の女性は籍を入れていない妻だと言う。人の好い、協力的な会長だと思っていたのだが、なんと自分のことしか考えていなかったのである。

京都の住人に怒られてしまうが、私が付き合ってきた京都に昔から住んでいる方のなかにはこんな二枚舌を平気で使える人が多かった。なんだか能面のような顔をしながら使う人が多かった。

このS所長を含めて京都では魅力的な人に多くで会えた。そしてその付き合いは今も続いている。

京都は歴史がそうさせるのであるが、特殊な地域だった。建設業はさまざまな関わりをもって一つの作品を完成していく。だからずいぶん「へー」という思いをした。
難しい土地の売買をする老舗の不動産屋があった。社長は政界とも仏教界とも通じ京都の某駅前の再開発で寺の移転をするような不動産屋だった。墓を伴う寺の移転には檀家の取りまとめや行政との折衝、必ず反社会勢力の方々との折衝もある。誰でもできる事じゃないだろう。
そこの専務に可愛がってもらった。実は息子を同業の大手不動産会社に就職させたところだった。頭のいい息子だったが、向いていなかった。彼の面倒をみてくれと頼まれ、彼とは彼の離職後も付き合いは続き介護事業を始めてその後自死するまで続いた。専務はそれから引退し、今も付き合いをしている。業界のこと、仕事に対する姿勢、京都の特殊を教えてもらった。

京都には個性的な設計事務所がいくつもある。
個人の事務所の社長だった。役所の人間の紹介で付き合いを始めたのであるが、ある日「この福祉施設をお前の会社に○○億円で出すから、○億円持って来い」と言う。おっ、来たなと思いながら「私の力では出来ません。他のゼネコンでも無理だと思います」そこから付き合いは続いた。
こんな時に「一度会社に持ち帰ります」なんて言ってはならないのである。
言えばそこで付き合いは終わっただろう。
この社長といつも行く昼メシ屋は近くの小洒落た中華屋だった。黙っていても人数分の大皿の料理が出てきた。それを直箸で食べるのである。いろんな話をしながら円卓を囲み、そんな時にいつも台湾の黄さん一家との食事を思い出した。

京都で付き合いした発注元の担当者がそこを辞めて、この社長に仕事を世話してもらった。そして、その男が責任者を務めた介護施設で社長は最期を迎えた。
社長室には神棚と提灯があり、映画で見るヤクザの事務所のような設計事務所だった。多くの人が出入りして人の話を聞くことの出来る人だった。

私はこの京都時代に放置竹林整備のNPOの理事長と知り合っている。
理事長は当時、京都の南部の自治体で人権にかかわる部長をしていた。まだ40代の若い部長を連れてきたのは、私を可愛がってくれた入社当時のT営業所長が足を洗わせた元ヤクザの土木会社の社長だった。
夕方外まわりを終えて事務所に戻るとちょうど夕陽が東山を赤く染めていて綺麗だった。事務所は河原町沿いにあり8階の東向きの事務所からは京の清水、東山が一望できた。
社外の人間を入れることのない事務所内の応接でS所長とビールを飲みながら歓談していた。
そこで紹介され、そのまま4人で祇園に向かい付き合いは今なお続いている。

S所長には多くを教えてもらった。
公益法人職員でありながら法人ビル建設の話を騙り、私たちを自宅に呼び、蒸し暑い部屋で接待を受けたホタルの飛び交う夏の夜にその年老いたお母上の着物の衿の汚れから嘘を見抜いたのはS所長だった。その後その男は収賄で捕まっていた。
京都北部の公設プールで子どもが溺れかけ、施工に問題があるのではと、その自治体と調査の結果、金に困った実の父親が自分の子どもを排水口に踏みつけ殺して金を巻き上げるつもりだった。それを見抜いたのも所長だった。

このS所長の持つ洞察力や何があっても平静を保つ力は私の想像もつかない経験が過去にあったからであろう。ここに書くことの出来ないそんな昔話をいくつも聞いた。超えることの出来ない先輩と思っていた。でもそのS所長の人に言えぬ悩みであった前妻との息子の就職の世話をした。所長が亡くなったのはちょうどコロナの真っ最中、見舞いにも葬式にも行けなかった。少しだけでも恩返しができたかなと思っている。

振り返れば多くの出来事、多くの出会いのあった京都での営業マン時代であった。変な言い方であるが、極端な人に会ったり極端な経験をすると初対面の人の事がなんとなく分かったり、事の始まりで結果が何となく見えてきたりする。一つ峠を越せば辛かったことが辛くなるのに似ているような気がする。この時期に私の今が出来上がってきたように思うのである。
京都でこの時期に出会った人たちすべてに心から感謝する。


向かないと思いながらも案外向いた仕事であって、案外向いた業界だったのかも知れません。でも間違いないのは、そのまま続けていれば先輩方のように寿命を縮めてしまっていたに違いないと思います。

次回で(ゼネコン営業マン編)は終わります。
建設業界から足を洗いたい気持ちはありましたが、世の中はそれほど甘くはありませんでした。
会社を辞めよう、建設業界から離れよう、と思った理由を今再び考えています。
最後はそんな話で終わりたいと思います。


※前回記事です


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