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私の人生の軌跡(ゼネコン営業マン編)生き方を考えさせてくれた反面教師のMという営業部長の話

「滅私奉公」なんて言葉はもう死語なんでしょうか。私がゼネコンで営業マンをやっていた平成の初めにもそんな言葉はとんと耳にすることはありませんでした。しかし、会社にはまだまだ昭和の「野武士」の残党たちが残っていたのです。「24時間戦いますか」なんて栄養ドリンクのキャッチコピーが流行っていた頃です。ほぼ24時間365日働かされていた頃です。朝は7時過ぎには会社に着き、帰りはほぼ毎日タクシーで梅田か難波あたりから奈良まで帰りました。仕事で稼げばそんな経費に目を剝く上司はいませんでした。
私が家族の介護・看病で鬱病になりかけ、それを振り切れた時には物の考え方が変わっていました。でもその前にある上司と出会い、ともに時間を過ごすことで私の「考え方や見方」は変わりました。それくらい影響のあった人間です。ある時期に完全に縁を切って、その後なにをされているか知りませんし、知ろうともしませんでした。たぶん、あの世に召され今の世が少し平和になったんじゃないかと思っています。


私に生き方を考えさせてくれた反面教師のMという営業部長

考えてみれば上司の多くは反面教師だった。でも、その頃を思い出し時間が経ちその頃を冷静な目でその上司たちを見ると、どの上司も「なんだこんな人だったのか」と思える時期がやって来た。ゼネコン営業マン終盤で出戻った京都営業所で、所長に「それは宮島さんが成長したからだよ」と言われ腑に落ちたのを思い出す。
でも私が出会ったMという部長は「こんな人」の中に入ることは無かった。

M部長は私が大阪支店営業部に移った時には上座に並べられた元名物営業所長たちに用意された一人部長の席にいた。当時の営業総括の副支店長がパワフルな営業所長たちに手を焼いて営業部に集めたのである。寡黙の目つきのきつい、電話でしゃべる声を他人に聞かせない特技を持つ男だった。

まともな営業マンとして育てられるべくして優秀な若い営業課長の下に配属された私は、1年後にはTという営業部長の下を経由してM部長の部下となっていた。
それもM部長の画策だったのである。優秀な営業マンは社内営業にも長けている。もともと事務畑から営業部長に登り詰めたM部長は社内のどのボタンを押せばどこがどのように反応してどのような結果が出せるか知っていた。とにかくピカ一の根回しができたのである。

営業マンは期中受注、来期受注、中長期の受注と先を読みながらその計画を腹で立て、その一部を会社に報告しなければならない。決して腹の内すべてを見せることは無いのである。
とにかく受注予定案件の多い部長だった。それをどこでどう集めてくるのかをいつもそばにいる私にも悟らせないようにしていた。でも徐々にそれは分かってくる。付き合う顧客が教えてくれたのである。たぶん、私に対する同情があったと思う。「宮島さん、Mさんとの付き合い大変だと思うけど、頑張りなよ。応援するよ」なんて言ってくれる優しい顧客が何人もいた。でも皆揃って最後に言うのは「Mさんには今言ったこと内緒ね」だった。それくらい発注者にも緊張感を持たせる男だったのである。

やる仕事は大きかった。ある学校法人では立て直しの手伝いを皮切りに全国での展開事業や、地上げ屋のようなことをやって他社の施工の独断だった薬品会社の本社ビルの建設を横取りし、まったく実績の無かった関西の優良鉄道会社のマンションを建設したりと暇をもてあそぶとことなど全く無かった。

夕方会社に戻ると、北海道で新設の見積もりをするからこれから図面を持って飛んでくれと言われ最終便で札幌まで飛ばされた。
関西の学校の資料館に城壁を作ることになり、そこには大阪城の蛸石よりも大きな天然石を貼り付けるために、瀬戸内の犬島まで切り出しに行った。デカい石を切って南港でスライスしトレーラーで運ぶ計画をしたが道路法の重量制限から大きく外れてしまい、国道事務所からも警察からも各橋梁、一般国道、府道の通行許可がおりず、ほっかぶりをして深夜にこそっと走った。その前日には神頼みしか残らず、主要交差点、橋梁には塩を撒き神様に手を合わせた。
兵庫県のマンション建設では厳しい反対地元対応のために1年間毎日通い、近隣での飲み食いはもちろんのこと、スーツ、Yシャツを仕立て、毎月息子を連れて散髪屋に通い、喫茶店でドリアを食って帰った。

実はこんなことは営業マンとして当たり前なことと思っていた。「滅私奉公」なんてのは大学の合気道部では日常のことであった。
私が辛かったのはこんな事じゃない。このMという男と付き合えば付き合うほどこんな人間に頼らなければならない会社なのかと、会社に不信感を持ったのである。「全国一」とは聞こえは良いが、質実ともの全国一の営業マンでなければ私には何の魅力も無いのである。

このMという男は社員を何人も辞めさせている。そして、自死した人間もいる。

私の同郷の一つ年上、私の兄と同じ歳の先輩が大阪支店開発事業部にいた。
営業部に赴任して「宮さん、頑張れよ」と言ってくれた時の笑顔をおぼえている。一緒に酒を飲む時の柔らかな口調を今でもおぼえている。
あとから知ったのであるが、Mという部長が営業所にいた時に駅前再開発を行うためにこの先輩を指名して現地に張りつけさせた。そしてそこで若かった先輩はMと考え方の違いで衝突し、その結果、討ち果ててしまったのである。鬱病となり休職にまで追いやられた経験をしていた。
先輩は低空飛行のまま子会社への出向、会社が傾くと一番に肩を叩かれてしまった。

でも、話はそこで終わりはしない。先輩より先に私は会社を辞めていた。その理由はMじゃない。それはまたの機会に振り返ってみたい。
辞めた私は乞われて関西私鉄の設計事務所にいた。その頃中学2年の息子が教師のいじめに遭って不登校を始めた。
そしてその時、普段は私の子育てに何も言ったことの無かった父に「お前の生活態度に原因がある」と厳しくなじられた。出来の悪いサラリーマン教師と私の性格に似た息子が合わなかっただけでそのうちレールに戻ると思っていたが、「それも一理あるかもな」と思い、会社を辞めたのである。終身雇用は崩れ出していたであろうか、ゼネコン時代にはどんなに苦しくても辞めようとは考えなかったのだが一度経験してしまえば辞める踏ん切りは簡単についた。
でも、食って行かねばならない現実があった。

その時先輩は大阪南部の埋蔵文化財の発掘を専業で行う会社で元気に働いていた。「宮さん、うちの会社で営業やってくれよ」先輩に誘われたのである。でもまた営業をやれば自分の性格で同じことを繰り返すと断った。
「わかった。じゃあ、俺の言うとおりにオーナーに話せ」と、言われたとおりに話して、今までとは違う職の世界を知るために、まずは現場の作業員として入社した。でも給与は下がることなく、内緒で作業員としては破格の給与をもらった。すべては先輩の取りなしだった。

夜明けとともに家を出て、日暮れとともに家に帰る。社会人になってしたことのない生活を送った。作業服に長靴で朝から夕方までスコップを握り額に汗し、手にマメを作った。学生時代にやったどの肉体労働よりきつく、夜中に掌がつって目が覚めたのは初めての経験だった。
仕事が終わって真っ直ぐ帰ったが、何度か先輩に飲みに連れて行ってもらった。営業時代と違う汗を流した後のビールは美味かった。
でも、先輩との楽しかった思い出はそこまでである。

息子は大阪の私学の高校に通うようになり、私も普通の生活に戻った。
人の好い先輩は同じゼネコンをリストラで首になった悪い男を優しさで拾い上げてしまった。その男が病気で気が弱くなっていた女性オーナーをだまして社長となり会社の金を横領し、とんでも無い事態になってオーナーは私に「どうしたらいい?」と電話してきた。私はすでに会社を辞めて設計事務所に戻っていた。
私はオーナーに苦言を呈しこの男を社長にするなと言ったが、その時には聞き入られずにそこで喧嘩別れしていたのであった。

被害届を出して、弁護士に相談するように言った。その時には先輩はこの世にいなかった。自分が入れた男が会社をバカにし、食い物にし大きな迷惑をかけてしまったことに責任を感じて会社を辞めていた。鬱病も再発していたと聞いた。自宅を出て、一人アパートで生活をしていた。そこで自分で自分の首をネクタイで絞めて死んでしまったというのである。

私は今でもMという部長が先輩を殺したと思っている。
私はゼネコンを辞めてもMとの付き合いを止めていなかった。時々酔っ払ったMを北摂の自宅まで送った。奥様は非常に優しい方で連れ合いの異常をよく理解しており、私に何度も頭を下げた。そして「主人をよろしくお願いします」と何度も言われた。胃癌で入院した時に見舞いに行くと、芦屋で有名なパン屋を経営している息子に「宮島さんしか付き合ってくれる人間がいないから、よろしくお願いします」と言われた。

私がMと付き合いを止めなかったのはそんな情で心を動かされたのではない。そんな話を聞けば聞くほど怒りが湧くのであった。

その頃はたまに飲み屋に呼び出されても私が金を払っていた。そしてちょうど先輩が死んだ1年後に先輩の名前を出して「記憶にあるか」聞いてみた。
「知らない」という前に目が泳ぐのを見逃さなかった。
15年前に北摂の再開発の現場で上司にいじめられてノイローゼになって家庭が壊れ、最後には自分で首を括って死んだと伝えた。
Mと同じ年ほどのお父様も後を追うように他界したことも伝えた。
そこから会話は無かった。
それが最後の会話だった。
やっともう二度と会うまい、そう思って別れたのである。
急に私の顔を見なくなって家族は何かを感じだであろう。
人の親であれば僅かでも悔恨の情が湧いただろう。
それでいい。
そう思った。

私がこの手でMの息の根を止めることは出来ないから。



仕事をする。金を稼ぐことは簡単ではありません。
でも、命を縮めて仕事をする。命懸けで仕事をすることは正しいことなのでしょうか。
私は理由によると思います。世のため、本当に人のためであるならば、たった一つの命でも投げ出さなければならない時があるかもしれません。
でもたかが金儲けである仕事で命まで投げ出す必要はないと思います。

この頃から良い意味でいい加減な人間になれたと思っています。
明日できることは今日はやらずに明日にやる。
今日の仕事が終われば楽しく酒を飲んで一日を終えればいいと思っています。

私に人生で一番大切なことを教えてくれた反面教師のMという部長の話でした。


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