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私の人生の軌跡(ゼネコン営業マン編)組織の改編のなかで

一つの形が出来上がる前、それは手探りの期間でもありカオスの時間でもあります。
上に立てば大変だと思いました。
すべては思い描くようにはならず、結果を容認できる力や周囲に押しつけて組織の常識を変えるくらい強い力が必要なのだろうと思いました。
特に営業部に集められた男たちは一筋縄にはいかぬ連中ばかりでした。
私の三十代は、ただただそんなカオスの中で翻弄された時代だったように思います。
その間に私の神経は太い針金、いや、ワイヤーロープのように丈夫になっていったのです。出たとこ勝負、何でも来いの力はそこで養われたのです。


組織の改変だけで人間を従わせることは出来るのか

1985年、私が大阪支店営業部に移った年に、会社の受注額は1兆円を突破した。これはゼネコンでは初のことで、スーパーゼネコン5社を抜いてトップに踊り出た年であった。海外においての受注が大きかった。バブル直前の出来事ではあるものの、経常利益も最高であった。
でも、利益の多くは国内の工事に頼っていたんじゃないかと思う。
その時の受注の多くは海外での自社開発事業が大きかった。私が入社して給与振込の口座を開かさせられたのは東京の都市銀行だった。それがその頃には大阪の都市銀行に代わっていた。そこからの融資は汲めども尽きぬ井戸の水のように湧いてきて、行け行けドンドンと行く所まで行ってしまい、挙げ句の果てには現地責任者の横領というような単純な理由を挙げて1兆円の負債とともに奈落の底に向けて会社は転がり出す。
でも、そんなことがずっと分からずいた会社の幹部ばかりでなかったはずである。私が知るだけでも優秀な方がたくさんいた。
そこら辺に組織の闇があり、有無をも言わさぬ力があったのだと思う。
残るか、辞めるかしかそこには残らない。


請負いに徹する本来の建設会社の生み出す利益の出どころは二つある。
一つは営業である。最初から儲かる仕事を受注することである。
もう一つは施工である。現場の責任者の能力によって利益は変わる。
その頃の営業所長や現場所長は非常に厳しく、金もうけの上手な方が多かった。そして各営業所長、現場所長はとても個性の強い人が多かった。大阪支店営業部は従来顧客である大手上場企業を中心にした、守りの営業だったように思う。各営業所の所長はじめ、営業マンは一から得意先を掘り起こさなければならなかった。他社と同じ営業をしていては他社を出し抜くことはできない。だから手を替え品を替え、犯罪以外は何でもやったし、やらされた。当時、ある設計事務所の社長に「あんたの会社の営業マンは野武士のような奴ばかりだ」と言われたのを記憶している。
だから私のような若い営業マンは「鉄砲玉」として貴重な存在だった。

そんな個性豊かな営業所長たちを相手に営業の統括責任者であった副支店長はやりにくかったに違いない。
当時専務取締役の支店長(私が自宅に酒粕を届けた方である)の力を使って各営業所の名物所長たちを自分の目の届く支店営業部に異動させたのである。

私を可愛がってくれたジャガーの京都営業所長も開発部長のポストに就けられた。もう60歳に近く、創業一族ということもあって簡単に辞めることはできなかったのであろう。
大阪支店の中では鳴りを潜めていた。
何度か寂しげに帰る姿とすれ違った。

でも、他の所長連中は違った。
各所長は営業部長の肩書を渡され、部下無しの一匹狼の営業を統括責任者の副支店長の下でしなければならなかった。
新しい各部長たちは表面上は普通に社内での付き合いはしていた。
そのなかで、若い営業課長の下に私がいることを快く思わない部長が一人いた。その男が一年後には私の上司となり、私の人生観を変えたのである。

でも、その男の下にストレートに入ったのではないのである。
ある時、営業統括責任者である副支店長に
「年齢でいけば筆頭部長のT部長に部下がおらず、若造の課長の下に宮島がいるのはおかしくないか」
能面のような無表情でいつも辛辣な言葉を発する男であった。
それに反論できなかった副支店長に私は夕方呼びつけられて
「明日からT部長の下に入れ」
と、簡単に私の移動は決まった。
誰一人としてそれに逆らう人間はおらず、それまで何事も無かったように次の日から私は大阪営業所長だったT部長の配下となっていた。

T部長は大阪支店で最古参の建築屋だった。
土木でスタートした私のいたゼネコンでは、なかなか建築工事が受注できずに困っていた時代があった。
その時に腹の座った支店長が指示を出して、談合破りをさせたのである。
大阪を代表するような大型建築工事の入札でわざと金額を間違えて落札したのである。
本来はこんなことはあってはならないことである。実は業界内でのペナルティーもある。業界内で定められた期間は指名がかかっても辞退をしなければならない業界内部での指名停止があるのである。
考えてみれば、この時に業界の付き合いをしていた担当の部長は大変だったろうが、仮に1年間の指名停止があっても、この大型物件は施工実績となり先の仕事に繋がっていくのである。
何もせずにいたらいつまでも公共の大型工事の受注はなかったであろう。
頭の良い、勇気のある支店長がいたのである。

実はこの時にT部長は現場代理人として現場に乗り込んだのである。
仕事を取ったものの、資格を持った建築屋がまだ20歳そこそこのT部長しかいなかったというのである。
発注者から「こんな若造しかいないのか」とクレームがあったそうだが、それを押し切ってT部長は乗り込んで、それこそ死に者狂いで仕事に向かったそうである。そしてその建築物にある特殊施設の施工にあるジンクス通りに、工事途中に髪の毛が1本残らず抜けてしまったとも聞いた。
T部長のご苦労の賜物である。工事は無事竣工し大きな評価を得て、先の仕事にも繋がっていった。当時の支店長の目論見通りとなったのである。

T部長にも多くを教えてもらった。多くの設計事務所を歩き、多くの設計士が何を考え何を話しするかを知った。大阪府下の建築現場の所長の誰もがもとT部長の部下であった。現場をたくさん歩き建築を教えてもらえた。そして、T部長はいつも文庫本を持ち歩いていた。いつも昼飯を食べると私に千円札を渡し、「釣りはいらん」と私に託してくれた。当時の私は今より金を持っておらず、T部長と3回昼を共にすれば文庫本を1冊買うことができた。酒は綺麗な飲み方だった。当時の大阪営業所はJR天満駅の目の前にあり、行きつけは酒屋のやっている立ち飲み屋だった。酒は二合、つまみは冷奴ぐらい「こんな店で長居をしちゃあいかん」迷惑がかかるからと10分ほどで店を出るのであった。

そして、1年後また組織改編があり、T部長は私がいた京都営業所の所長として移動してしまった。そして私は当時複数の大型営業案件を抱えるM営業部長の配下になった。T部長の下に私を移動させた男であるM部長の計画通りに事は運んだのであった。


私が営業に移った1年後くらいから徐々に若い営業マンが増えてきました。
「育てよう」という雰囲気のなかで私の同僚たちは育てられました。
しかしながら、人を育てたことのないMのやり方は本当に特殊でした。
Mとともに仕事をするなかで、人に仕えるしんどさを知り私は何度も会社を辞める決意をし、私は人生観を変えました。Mはそんな営業部長でした。

でも会社を辞めたのはそんな小さな理由ではありません。
次回は私がM部長としてきた仕事の話です。


※前回記事です


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