マガジンのカバー画像

実験小説、愛とか恋とか。

11
実験的に書いた小説をまとめました。
運営しているクリエイター

記事一覧

揺れるピアス、”いい奥さん”という幻想。

揺れるピアス、”いい奥さん”という幻想。

「いい奥さんでいることに疲れたの」

会議が終わり、部屋に誰もいなくなったところで、彼女はポツンとそう言った。

「同じように働いているのに、子どもになにかあったときの対応とか家のこととか、ぜんぶわたしで。でも、それが当たり前だと思ってたの。それが母親の仕事で、妻の仕事なんだって」

紙コップに半分残ったブラックコーヒーを揺らしながら、彼女は続けた。

「でも、疲れちゃったんだ」

彼女は笑顔と泣

もっとみる
暮れゆく秋空、妻の浮気と自立

暮れゆく秋空、妻の浮気と自立

「旦那には頼りたくないんだよね」

台風が通り過ぎたばかりの空は、雲ひとつなくどこまでも広がっていた。

涼しげな秋の風が吹き、彼女の髪をなびかせる。

彼女は顔にかかりそうになる髪を振り払い、ぼくを見つめ、静かにそう言った。

静かな言葉の流れのなかに、彼女の揺れる気持ちと強い意志の力を感じた。

彼女の金色のピアスがかすかに風に揺れる。

彼女から目を逸らし、空の向こうに目をやると、日没の訪れ

もっとみる
結婚の理由、水辺のハムスター回し車。

結婚の理由、水辺のハムスター回し車。

「なんで、今の旦那さんと結婚したの?」

オフィスからちょっと離れた定食屋で遅いランチを食べながら、ぼくは同期の女の子にそうたずねた。

「稼ぎがいいから、子どもの教育費に困らないなって思って…」

彼女はちょっと恥ずかしそうにそんなことを言った。水が入ったグラスを口元に運びながらぼくを見つめている。

ぼくから非難されるんじゃないかというかすかな恐れが、彼女の瞳からは感じられた。

「そうなんだ

もっとみる
薬の空き瓶、妻のPTSD

薬の空き瓶、妻のPTSD

「うちの奥さん、俺のこと絶対許さないって言うんですよ」

会社帰り、駅へと向かう途中、たまたま会った後輩からそんなことを言われた。

彼とは以前同じ部署だったんだけど、去年彼は異動になり、今では違うフロアで働いている。

3年ほど前、忘年会の二次会で2人だけで話す機会があり、彼はうまく言っていない夫婦関係について話してくれたことがあった。

「絶対って、すごいね。なにを許したくないんだろうね?」

もっとみる
潮の満ち引きと夫婦関係

潮の満ち引きと夫婦関係

「すみません、ちょっとだけこの後お話ししていいですか?」

リモート会議終了間際に彼はそう言った。その声はいつものようにハキハキとしていたけれど、ムリをして元気な仕事用の声を出しているようにも聞こえた。

「お疲れさまですー」と、他の参加者のアイコンが画面からポツポツと消えていき、ぼくと彼の名前が書かれたアイコンだけが取り残される。2秒ほどの沈黙の後、彼は話し始めた。

「すみません、急に…。こな

もっとみる
3杯のコーヒー、夫婦の浮気

3杯のコーヒー、夫婦の浮気

「40才過ぎるとさ、ダンナに大事にされてないこと多いからさ、簡単なんだよ、関係持つのは」

雑誌LEONに出てきそうな風貌の今年55歳になるAさんは、まるで「今日は雨が降りそうだからさ、傘持ってきたんだよね」とでも言うのに、サラッとそんなことをぼくに言った。

取引先から駅へと歩きながら、なにがきっかけでそんな話になったかわからないが、彼はスタバでテイクアウトしたブラックコーヒーを片手に、既婚女性

もっとみる
電子レンジは幸せな夫婦の夢を見るか?/第1話 話さないふたり

電子レンジは幸せな夫婦の夢を見るか?/第1話 話さないふたり

電子レンジで夕飯を温めている夫に殺意が湧いた。

ブゥーンと電子レンジが動き出し、夫が「今日も疲れたわ」と言ったとたん、気がつけば口走っていた。

「なにやってんのよ」

こっちは寝不足でフラフラしているのに、朝から晩まで子どもたちの世話をして、自分のトイレさえ行けなくて膀胱炎になりそうだってのに。

温かい食事なんて一年以上食べてないのに。子どもたちの隙を見て、チョコスティックパンをのどに放り込

もっとみる
電子レンジは幸せな夫婦の夢を見るか?/第2話 おでんと広告業界

電子レンジは幸せな夫婦の夢を見るか?/第2話 おでんと広告業界

次々に電車が目の前を通り過ぎていく。

2歳になった双子の子どもたちは、フェンスにしがみついて嬉しそうに大きな目を見開いている。

通り過ぎる電車の風圧で、子どもたちの髪がかすかに舞い上がる。

フェンスから離れてベンチに座った子どもたちの口にたまごボーロを放り込んだ。

夫は朝早く出社したようで、朝起きたらいなかった。

昨日のことが気がかりで、朝なんて言ったらいいかわからなかったので安心したけ

もっとみる
電子レンジは幸せな夫婦の夢を見るか?/第3話 怒りの下にあるもの

電子レンジは幸せな夫婦の夢を見るか?/第3話 怒りの下にあるもの

「あんた、なんでいんの?」

家に帰ると、会社にいるはずの夫がソファーで寝ていた。

お母さんの家で昼寝をさせてもらいすっきりしたはずなのに、ソファに横たわる夫を見かけたとたん、昨日のイライラがよみがえってきた。

「あんたがいるなら、お母さんに子どもの面倒頼まなかったのに!」

こんなこと言うつもりじゃなかった。夫が帰ってきたらごめんねと言うつもりだった。

『疲れてイライラしてるんだ。ごめんね

もっとみる
電子レンジは幸せな夫婦の夢を見るか?/最終話 愛情のグラス

電子レンジは幸せな夫婦の夢を見るか?/最終話 愛情のグラス

自分の気持ちを掘り下げるのは、ゴムでできた地面にスコップを突き刺すのに似ている。

力いっぱい掘ろうとしても弾力で跳ね返される。

特に、妻と口論になり黙りこくってしまったときは、自分の心がどんどん硬くなり、その中に何があるのか自分自身ですらよく分からなくなる。

妻に何を言っても否定されるような気がして、自分という人間の存在自体を否定されるような気がして、ぼくは何も言えなくなっていた。

このま

もっとみる
衣擦れの音

衣擦れの音

一枚の反物が彼女の体に吸い付くように巻かれていく。

滑るような衣擦れの音が、ぼくらしかいない呉服売場に静かに響く。

ぼくは彼女の体に大島紬の反物を這わせていた。

大島紬は世界三大織物のひとつであり、普段着の紬(つむぎ)でありながら高額なものは数百万円もする高級品だ。

独特な織り方により他の生地には存在しない張りと軽さがあり、奄美大島の泥で染め上げることで美しく上品な黒い艶をまとっている。

もっとみる